ゆるい風が流れていく。
時折差し込んでくる日差し。太陽が出たり、翳ったりを繰り返していた。
それでもおおむね良好な天気で、気温も穏やかなように思う。
草木の生い茂る道が途切れ、急に見晴らしのいい場所に出たところだった。
広い大地に、山の稜線が遠くにある。空気は清涼で、思わず深呼吸したくなるような清々しさ。
(中つ国って、やっぱり素敵だな……)
内心呟きながら、同時にこうも思う。
(ハイキングとかピクニックとかだったら、ここでお弁当にしたいところかも)
ついそう思ってしまうくらいの、絶好のロケーションだった。
とはいえ、実際にはそうもならない。
見れば、向こうでアラゴルンさんがガンダルフさんと何事かを話していた。今後の方向を確認しているのかもしれない。
ボロミアさんも、少しだけ離れた先で遠くを見つめている。
ふと、近くにあった一本の木に誰かが軽やかに登っていく。レゴラスさんだ。
登るというより、駆け上がるといった方が正確かもしれない。
それというのは、手を使うことなくその脚だけで難なく木の上に上がっていたからだ。
根本から幹が三つに分かれるその木をあっという間に上がるその姿はほとんど猫のようで、傍にいたホビットのみんなも目を瞬いている。
彼は時々、そうやって高いところに上がっては周囲を見ているみたいだった。
なんとなくそのまま彼を見上げていると、レゴラスさんのその顔が一瞬険しくなった。内心、ギクリとする。
(もしかして、敵の姿を捉えたとか……!?)
そんな想像で、こちらも瞬時にして背筋がぞわっとする。
けれど、レゴラスさんはすぐさまふっと表情を和らげた。微かに柔らかい笑みを浮かべさえする。
どうやら、オークを見てとったのではないみたいだった。でも、だとしたら何だろう?
「……何か見えたんですか?」
近付いて訊ねてみれば、「ああ」、とエルフは応じてくれる。
皆、そう離れてもいなかった。ギムリさんが何も言わずにこちらを見やってくる。
レゴラスさんは樹上からこちらに視線を落としつつ、今まで見ていた方向を指し示す。言った。
「向こうの木立にあった鳥の巣から、ひな鳥が落ちてしまってね。大丈夫かと心配したけれど、親鳥がすぐに気付いて、助けてあげられたみたいだ」
「…………どの辺り、ですか?」
そうなんだと納得しながらも、わたしは思わず眉間に皺を寄せてしまう。
それというのは、その方向が開けていて地平線すら臨める広大な土地、その何処を示しているのか皆目見当がつかなかったからだ。
レゴラスさんはすとん、と軽い音を立ててこちらに着地した後に改めて指差した。
「山の麓に、林が見えるだろう? あそこだよ」
「…………見えるんですか?」
「ああ」
肯く彼に、ホビット達がびっくりしてその方向とレゴラスさんとを見やっている。
「本当に!?」と思わず声を上げたのはピピンだ。エルフの方はといえば、ふっと息を漏らすように微笑んでいた。
実際、声を上げたくなるような驚きの距離だった。何キロか何十キロかは判らないけれど、相当離れている。
確かに木々が密集しているのは分かるけれども、そこから更に小さな鳥の姿を捉えるのはどんなに目が良くても人の目では無理だと思う。
思うけれど、
(まあ、エルフだもんね)
とわたしは納得していた。
そもそも、彼が何歳だったとしても驚かないし、どんなに視力や聴力が人間離れしていたって不思議には感じない。エルフだし。
最初からそう思っているので、吃驚するでもなかった。ただ、単純にすごいなあとは思う。
「すごいですね」
「そうかい?」
そのままの感想を伝えれば、レゴラスさんはそう言ってわたしにも小さく笑んでくれる。
そうする姿はエルフらしい気品があった。
けれど同時に、整った顔立ちの目元が細まっている様はごくごく人の良いお兄さんという感じもする。
最初の頃こそクールな印象があった。ただ、見ていれば意外と表情もよく変わるし、(印象というものは当てにならないなあ)とこのところよく思う。
それは彼に限った話ではなく、
「ギムリさんも、目はいいんですか?」
「おお、よくぞ聞いてくれた! 俺には鷹の目があってだな」
ドワーフについてもやや当てはまる。
少々とっつきにくそうかなあ、と思っていたけれど、話してみれば何のことはない。
決して素っ気ないわけでもなくて、寧ろ気分よく話をしている時は不思議と子供のように感じる時さえある。
何というか、彼にはコミカルなところがあって、色々な意味で分かりやすいのだ。
今だって、如何にも何か言いたげにしていたので水を向けてみただけだった。
それがレゴラスさんに対する対抗心だとしたら、ちょっと微笑ましいかもしれない。
「何を話していたんだ?」
ドワーフの目の鋭さを説くミニ演説が始まったところへ、ボロミアさんがやってくる。
どうやら、進む方向は間違っていないらしい。先頭にガンダルフさんを据えて、一行は再び歩き始めた。
わたしはボロミアさんと共に歩を踏み出しながら、「ええっと」と言葉を一瞬濁す。
前を行くギムリさんは話し続けていて、ホビット達がそれに相槌を打っている。
言った。
「ボロミアさん、あの辺、見えます?」
「うん?」
先程レゴラスさんが指した方向を示して、訊いてみる。
わたしの主は当然ながら、すぐには要領を得られずに疑問符を浮かべていた。
事をおおまかに伝えれば、ボロミアさんはエルフの目について素直に驚いているようだった。
「この旅を始めてから、驚かされることばかりだな」
「そうですね」、
肯いてから、何とはなしに続ける。
「……ボロミアさんも、目は良さそうですけど」
「考えたことがなかったな。よく見えるつもりだが」
「そうなんですね。良かったです」
ごくごく普通の、何でもない会話。
その中で、ほんの少し羨ましく思わないでもない。今のところ不自由はなかったものの、きっと自分は、視力ではどうしても皆より劣ってしまうような、そんな気がして。
一瞬の思いだった。
行く先を見る。相変わらず広がり続ける広大な景色、その上に雲の影が落ちてゆっくりと動いていく。
そんな世界の中にいると、目のいい悪いだなんて本当の本当に些細なことでしかない。
何処までも見通せるエルフの目もとても素敵で、すごいなあと思ったのは事実だった。
けれど、わたしはボロミアさんが見ているのと同じ世界を見ていたい。
だからきっと、今のままでいい。
今のまま、この人の近くで中つ国を見ていたい。できることなら、できるだけ長く。
そう思いながら、わたしはボロミアさんを見上げる。
陽の光のせいでいつもより薄く見える、綺麗な色を宿した目。その目が(どうした?)というふうにやわらかく細まっている。
何でもないという意味で、わたしは小さく首を振った。
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