ゆらゆらと、光がたゆたう。
顔を上げれば、抜けるように青い空と太陽の恵みがある。
風はやわらかく穏やかだった。微かな花の香りがする、白の木の花だろうか。あの、戴冠式で満開の花を咲かせた美しい花々。

時間が静かに流れる。
こうして心から安らげる気持ちでいられるのが、未だに信じられない。
夢を見ているようで、何処かふわふわと落ち着かない。本当にこれは、現だろうか。

「ファラミア」

……夢では、ないようだ。
呼ばれてそちらを見やれば、兄が立っている。
外出から戻ったばかりと見えて、マントを羽織ったままでいる。部屋に戻る前にこちらに気付いて声を掛けてきたようだった。
立ち上がろうとすれば、歩み寄るボロミアが片手を上げてそれを制した。

「まだ本調子ではないようだな」
「そのようなことは」

言いながら兄の顔を見上げようとする。
兄は、確かにそこに居た。そのはずだった。
しかし、……ほんの一瞬の後に、その姿は消えてしまう。
こうして言葉を互いに交わして、彼の目がこちらを捉えている。それなのに、ボロミアはそこには居ないのだ。
それが真のことなのか、それとも自分の錯覚なのか、私は判断がつかなくなる。
気の遠くなるようなほんの一刹那の後に、(ああ)、と思う。

知っている。――どちらも真なのだと、知っている。

目が眩むようで、思わず目蓋を閉じる。
額に手を当てれば、「どうした」とボロミアは心配げに訊ねてきた。
その声のおかげで、兄が今、確かに目の前にいると信じられる。彼は、存在している。そのことに、心からの安堵を覚えた。
大丈夫だと伝える。確かに、まだ調子が戻っていないようだと言えば、向こうは一応それを信じたようだった。

「中に入って休んだらどうだ」
「ええ。……あと少しだけ太陽に当たりたいのです」

すぐに戻るつもりだと言えば、「そうか」と向こうは肯いた。
ボロミアも、空を見上げる。
そこには曇りのない表情があった。以前の――数日前までの兄とは別人のようだ。を失い、自暴自棄とさえ思えるほどに憔悴していた彼。
今は自分を取り戻し、かつてのボロミアに戻っていた。そのことを、嬉しく思う。
空を見上げる兄の目には、穏やかな光が宿っていた。



ボロミアが立ち去るのを見送りながら、ぼんやりと考える。
こうして、兄が生きている。
それは、本来の物語から逸脱している。別の物語が展開し始めているということだ。
……の世界で書物になっているという、この中つ国の物語。本当なら、ボロミアは生きてゴンドールに戻ることはなかった。
そして、その世界を何故か一瞬、私は垣間見てしまうことがある。

ぞっとする。……心の底から、ぞっとする。
私は本当ならば、兄を失っていたのだ。それを思うと戦慄する。身体の震えが止まらなくなりそうになる。

思いが暗い影の世界へ入ろうとしていた時、何かが聴こえた。
微かな声だったが、それは歌と呼べるものに思える。
誰かが、歌っている?
その方向と思しき方を見やっても、正体は掴めない。
だが、その声も旋律も、どちらも知っているものだ。……何処だろうか。

立ち上がり、引き寄せられるように歩みを進める。
すぐに、その姿が視界に映った。
少し離れた先で、羽織った上着を春の風になびかせながら遠くを見つめるのはエオウィン姫だ。
微かに動く口元は、確かに旋律を紡いでいる。

不思議だった。
彼女を見つめていると、暗く淀みつつあった心が光に照らされ、気持ちが温かくなるのを感じる。
歌はやさしく、心地のいい響きに満ちている。


春は、確かに訪れていた。
いつか見た、夢の中での黒髪の娘の言葉を思い出す。
は言った、春は必ず来ると。私も信じたかった、しかし心の何処かで信じきれていなかった、信じたいのに信じることができなかった。
彼女に会えたなら、そのことを謝ろう。思いながら、微かな歌声を風に乗せる姫君を見つめる。

姫は、表現する言葉も思い浮かばぬほどに美しかった。
彼女自身、心身ともに傷を負ってはいたが回復し、数日前の戴冠式にも出席した。
だがこれからのことがあり、兄のエオメル殿と共に近々エドラスへ帰郷する日が近付いていた。
別れというのは、辛いものだ。例えそれが短い時間であったとしても。
だが。

「「」」

歌がわずかに間隔を空けた、その続きに声を重ねる。
姫は驚いたようにこちらを振り返りながらも、途切れずに歌を続けていた。
やがて私たちは微笑み合いながら、互いに旋律を繋いでいく。
遠い、遠い国の歌が、ゆるやかに流れていった。



「……そうだったのですね」

エオウィンは静かに肯き、やがて言った。
「あの歌は、やはりから教わったものなのですね」と。
私は肯き返す。
裂け谷へと向かう中で、ローハンに立ち寄ったことは兄からも聞いている。
詳細を聞いたわけではなかったが、なるほど、姫はとも会っていたのかと合点がいった。

「今、彼女はどうしているのでしょうか」、
そうエオウィンは言う。
こちらが仔細を知っているかも判らないまま、思わず出た言葉といった様子だった。姫は続ける。
「言葉を交わしたのは、短い時間でした。何処か不思議なところのあるひとでしたけれど……もしまた会えたなら、と思っていたのです」

私は少しの間、目を瞑った。
ここにも一人、あの遠い国の娘を案じる人がいる。そう思った。
目を開ければ、懐かしむように微笑む姫の姿がある。
エオウィン姫は、兄がについて明かした旅の仲間たちの集まりに立ち会っていなかった。
姫には、私から話そう。少しずつ。……きっと彼女なら分かってくれる、そんな確信があった。

のことは、話せば長くなります。……中へ参りましょう、少し風が強くなってきましたから」

言う傍から、一陣の風が通り過ぎる。
彼女の美しい金の髪と共に、羽織っている上着がはためいた。療養中に私が貸した、母の思い出の装束。
姫には、ずっと持っていてほしい。襟元の銀の刺繍を見ながらそう思った。

「ええ。お茶を淹れましょう、私が準備いたしますわ」
「よろしいのですか?」
「もちろんですわ」

エオウィンは微笑むと、ふふ、と声を漏らした。

「たくさん練習しましたから」
「? ……では、お言葉に甘えることにしましょう」

微かに、悪戯っぽい笑みが姫の中にこぼれる。
一瞬おや、と思うものの、こんなふうにも笑えるのかと驚いている自分がいる。
療養院で出会ったばかりの頃を思い出す。どの記憶の引き出しを覗いても、彼女の浮かない表情ばかりが脳裏に焼き付いている。
少しずつでいい。……もっといろんな表情を見せてほしい。心からそう思った。

私たちは共に歩きながら、歌を口ずさむ。
この世界は、元々の物語とは別の道を歩み始めている。
けれど、そうだとしても、決して間違った世界などではない。

「「」」

例え逸脱した物語でも、世界は陽の光に、そして友を思い出させる旋律に満ちている。






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