夕暮れは、いつの間にか夜色に変わり始めている。
わたしは綴り終えた日記を閉じると、立ち上がって空を見上げた。柔らかな夜の闇が訪れようとしている。
さっき開いたばかりの日記は、短い行で書き終えてしまった。
それと同じように、今日という日も何をするでもなく、もうじき終わりを迎える。
昨日までと同じように過ごしてきた、ロスロリアンでの滞在の日々。

元来た道を歩いて戻る。
わたしの知らない幾つもの何かが、エルフの森には満ちているような気がした。
名前もわからない冬の草花、あまりに澄み過ぎた透明な空気、人間の地とは違った流れ方をするように感じられる此処での時間。
何処からか流れてくる、エルフ語らしい誰かの歌声。

エルフの人達は皆、ごくふつうに、彼ららしい生活を送っているようだった。
何日も前に暦は新しい月に変わり、それに伴って新たな年を迎えてもいるはずだった。
わたし達がこの地を訪れた時には既に一月も半ばだったので、もう新たな年という気分でもなかっただろうし、或いは、「新年を祝う習慣がないのかもしれない」とも思った。
永い永い時間を生きるのだという彼らにとって、一年なんてほんの一瞬のことだろうから。
レゴラスさんに何気なくそのことを訊ねると、彼は笑って否定したけれど。

「僕達だって、新しい年がやって来た時はお祝いをしているよ。君達のやり方とは違うかもしれないけれどね。……ああ。ほら、今だって聴こえるだろう?」

あれはガンダルフを悼む歌ではなく、新たな時の訪れを歓迎する歌だよ、とレゴラスさんは言った。
彼らは彼らの方法で、新年を迎えていたらしい。
それを聞いて、 「彼らもわたし達と同じなんだ」 と少し嬉しくなった。
同時に、勝手に祝いの習慣がないのかもと勘繰ってしまった事を申し訳なく思った。
こころの中でそれを詫び、遠くの歌声に耳を澄ます。
冬の匂いのする夜風が通り過ぎていく。
雪は降り積もっていなかった。
わたしの元居た世界みたいに、ピンと張り詰めるような寒さを湛えた夜ではなかった。
けれど、その匂いが確かに今日という日の証明であるかのように思えて、静かに深く息を吸った。



フレトの傍では、ボロミアさんが大きな木の根を背に独り、腰を下ろして顔を伏せていた。
このところ、そうしている事が多かった。
口数もこころなしか少なく、表情は厳しく、いつも何か考え事をしているように見えた。
その内容というのは、なんとなく見当はついていた。けれどわたしにはどうすることもできない。
ふと、向こうの方からこちらに気付いて、その顔が持ち上がった。
ボロミアさんは、笑っていた。

「そんなところでどうした、?」

立っていないでこちらに来たらどうだ。
そう言って彼は自分の傍らを指し示した。
……わたしに一体、何ができるだろう。
何処か無理をして笑んでいるボロミアさんを前にそんなことを思ったけれど、しかし、その近くで共に在ることくらいはできる。
わたしはその人の傍まで近付くと、そこに膝を下ろした。今なら、と思った。
「ボロミアさん」、言った。続けた。

「昨年は、本当にすごくお世話になりました」
「……?」
「今年も、よろしくお願いします」

そう告げて頭を下げる。
彼はほんの少しきょとんとしていたけれど、すぐに、ああ、といった表情に変わった。

「年の変わり目を迎えていたか。に言われていなければ、忘れていたな」
「わたしも日記で日付を数えていなかったら、多分忘れてました」

言って、互いに小さく笑んだ。
今の目の前の微笑みが、自然なものであればいいと思った。
旅中ではそんなことを口にしている場合でもなかったし、ガンダルフさんのこともあってそれどころではなかった。
加えて、ロスロリアンに辿り着いてからはボロミアさんの様子がいつもと違っていることが多かった。
故に、声を掛けることさえ憚られていた。
けれど、今なら。
わたしは少しだけ、いつものような他愛無い話をボロミアさんにしようと思った。
ミナス・ティリスに居た頃や裂け谷への行程、そしてこの旅の間によくしていた、ボロミアさんとの何気ないいつもの会話を。

「日本では、新年にいろいろ準備するんですよ。お餅とか、しめ飾りとか、お年玉とか。そうやって皆でお祝いするんです」
「祝いか。それはさぞ、賑やかなのだろうな」
「そうですね、それはもう。……今は、何も用意はできませんけど。せめてご挨拶だけでもと思って」
「そうか。そうだな。……こちらこそ、宜しく頼む」
「はい、頼まれました」

これくらいしかできないから、せめてもの軽口を叩く。
気付けばボロミアさんは、その右手を此方に差し出していた。今年も宜しくの握手だろうか?
そう思ってそっと、その手を取った。

わたしより一回りも二回りも大きなその手は、微かに、震えていた。

ハッとして、思わず目の前の人を見る。
その顔は微笑みを残していたけれど、顔色は決して良いとは言えないものだった。
その唇が動いて言葉を形作る。
彼が、言った。

「すまない、少しの間でいい。……こうしていても、いいだろうか」

わたしは肯いて、両の手でボロミアさんの手を包んだ。
今のこの人の中に何が渦巻いているのか、何故か、朧げながら知っているような気がした。
短い時間でも今だけはそれを忘れてほしくて、ただ、その手を握っていた。
どのくらい経った頃か、気付けば、ボロミアさんは大樹の根に身を預けて目を閉じている。眠ってしまったのかもしれない。
何か毛布でもと思い立ち上がろうと思ったものの、見れば、その手はしっかりわたしのそれを握っている。
毛布は諦めて座り直すと、わたしは小さく呟いた。

「……おやすみなさい、ボロミアさん」

良い夢を、とは言わない。
けれどせめて、眠りから覚めるまでの間くらいは、安らかな時間を微睡んでいてほしい。
そう思って願うように僅かに手に力を込める。
無意識にか、ボロミアさんの手は微かにそれに応えるように握り返してくれた。
流れるようなやわらかなエルフの歌声を遠くに聴きながら、わたしも目を閉じる。
次に目覚めるときには、新しい朝が来ていればいい。
そう思いながら、繋がった手のぬくもりを抱えて静かに、意識を閉じた。






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