●ローハン

数日を馬の司の国で過ごした。
エオウィンさんやエオメルさんらに見送られて、再び馬を走らせる。
訪れた最初の頃は、雨で彩られていたローハンだった。それが今は、清々しいくらいに晴れ渡っている。

「少し休もう」

そう言われて馬の背から降りると、足元の草が風に揺られて音を立てていた。
辺りを見渡せば、遠くに山々や地平線を望むことができる。
ずっとミナス・ティリスで過ごしていたわたしにとっては、より自然が豊かであるように感じられた。
太陽の光、草原の匂い、空を渡る風。
……短い時間だったけれど、わたし達を快く受け入れてくれたローハンの人達。彼らのことを今、思い出している。

ざあっと音を立てて、少し強めの風が吹いた。
ゴンドールの風とは違う――そう思った。
土と草原の色濃い匂いを含んでいて、それが遠くまで渡っていく。
遮るものは何もなくて、本当に何処までも届いていきそうだ。

そう思っていたら、一際強い風が吹きつけてきた。
ほんの僅かな時間だった。
けれど、まあまあ強かった。髪もきっと乱れているのに違いない。
わたしの髪はあまり言うことを聞かないというか、素直じゃない髪の毛だ。
みっともなくない程度になればと手櫛で直していると、すぐ傍で風をやり過ごしつつ馬の手綱を整えていたボロミアさんがこちらを見た。

その手が、ごく自然に伸びてきた。
彼らしく言うなら、まるで剣の柄に手を添えるかのような、自然な動きだった。
息をするみたいに当たり前のようにそうするので、わたしはと言えば、何の心の準備もなかった。
ボロミアさんの手がこちらの髪を一撫でして整えてくれたと分かるのに、数秒かかった。

「強い風だったな」
「…………っ」

ぎょっとして、それでも何とか声は上げずに済んだ。
強張って固まっていると、向こうは「どうした」と何でもなかったことのように言う。
そしてそれが、本当に心底何でもないかのようなのだ。
いえ、あの。……ありがとうございます。
ぎくしゃくとしながら口にすれば、ああ、といつものように返ってくる。

(……ボロミアさんって、時々こういうこと普通にするよね)

感覚がたまに、(微妙に違うなあ)と思う時がある。
まあ、当たり前か。世界も時代も違うのだから。
そもそも中つ国の人がそうなのか、ボロミアさんがそうなのか。分からない。いや別に嫌ではないんですけれど、さらっとそういうことをされるとですね。心臓がびっくりするわけでして。
心の中で小さく悪態をついていると、風が落ち着いて、草原がふたたびやわらかく揺れ始める。
いらなく心拍数を上げさせられた自分とは裏腹に、景色はどこまでも穏やかだった。

ローハンの人々が大切にしている“風”と“馬”の国。
その土地を吹き抜けるこの風は、わたしの髪も、胸の内も、少しだけかき乱していった。



●モリア

先頭にガンダルフさん、最後尾にアラゴルンさん。
共に灯りを手にしていたので、暗いモリアの坑道内でもある程度の視界が確保されている。
その中に浮かぶのは、静かなかつての鉱山の姿だ。
オークともドワーフともつかない死骸や、彼らのものと思しき武器や防具がところどころに散らばって、長い時間の中で忘れられたままになっている。
中には本のような日常の品も混じっていて、ここで暮らしていた誰かがいたんだな、と改めて思う。

(RPGゲームでのダンジョンって、こんな感じなのかな)

一瞬、そう思う。
広くて、迷ってしまうぐらいに広大で。奥深くには何かが潜んでいそうなこの感じ。
思ったけれど、私はそれをすぐに打ち消す。
ギムリさんが言っていた。いとこのドワーフが住む鉱山なのだと。今はこうでも、以前は彼らの場所で、きっと今でもそうなのだ。
その場所を、軽々しい言葉で呼ぶのは何だかあまりにも失礼が過ぎる気がして。

ふと、目の前を行くピピンたちの足が止まった。
見れば、ガンダルフさんが行先を確認するように向こう側を見遥かしている。それで少し、立ち止まっているようだった。
後続のわたし達も止まり、同じように辺りを見てみる。
だいぶ目が暗がりに慣れていた。もちろん、灯りがあることも大きい。

空間は、あまりにも広かった。
山の中のはずなのに、まるで外にいるかのように向こうの壁肌までがひどく遠い。
どういう掘削技術なのか分からないけれど、単純に(すごいなあ)と思って、思わず隣に佇んでいる主に小声で訊ねてしまう。

「……ボロミアさん」
「どうした」
「ここ、本当に鉱山の中なんですよね」

ある程度わたしの言いたいことは伝わっているようだった。
ああ、と零すその人の声の中にも、感嘆の色が滲んでいるのが感じられる。

「こんなすごい場所、わたしの国には無いです」
「……ドワーフという種族の技術力には恐れ入ると、私も思っていたところだ」

感想がほぼ一致した。
もしこれが、明るく煌々とした灯りのもとに照らされていたなら、どんなにか素敵だっただろう。
そちらの方こそが、本来のこの場所の姿だったはずだ。

(ドワーフの皆さんが元気な時に来てみたかったな……)

ぽつりと、そう思った。
後にも先にも叶うことのないことだったけれど、それでも。



●ロスロリアン

森は守られていた。
木々の間からの木漏れ日が淡く光っている。
仲間の皆が身体を休めていて、休息の時だと思った。

エルフの森は、裂け谷とはまた違った空気が流れている。
(裂け谷もすごく素敵だったな)と思うのと同時に、(ここもいいな)と思う。
夕暮れの頃合いになると、淡かった陽の光がより眩い金色になって美しかった。黄金の森と誰かが言っていた気がする。
直接こういう意味での言葉かどうかは分からないけれど、わたしにとってはそのままの意味で合っている気がした。

むしろ、中つ国に来てからと言うもの、何処を歩いていてもいいな、素敵だなとしか感想が出てこない。
例えばまだ行ったことのない場所……東の闇……ボロミアさんの言うモルドールというところは流石に遠慮しておくけれど、それにしたって、まだきっと(いいところだな)と思う場所は多いだろうなと思う。
まあ、まだ言うほどの国を歩いたわけではないけれど。

「指折り、何を数えているんだ」

隣にいたボロミアさんが小さく笑った。
ひとつひとつ、今まで訪れた場所を数え始めたわたしを彼はそうやって見守っていてくれる。
言った。

「今まで行ったことのある国を数えてたんです」
「ほう」
「ゴンドール、ローハン、裂け谷、モリア、ロスロリアン……何処もわたしにとっては初めてのところばかりで。当たり前ですけど」
「そうか。……そうだな」
「あと、ホビットの皆から聞きましたけど。ホビット庄も一度行ってみたいなーって。いいところなんでしょうね、きっと」

そうして、皆から聞いた話を伝える。
ホビットたちの暮らしぶりや、彼らの好きなこととか、食事のこととか、そんなことを。
話しながらふと、(ボロミアさんは行ってみたいところって、あるのかな)と思った。

「ボロミアさんは、行ってみたいところってありますか?」
「私か。そうだな」
ほんの少しだけ考える素振りがあった。本当に、ほんの少しだけ。
すぐに、その碧色の目がこちらを捉えた。
の国を、また訪れてみたいと思う」
「え、日本ですか?」
「ああ。以前は夢だと思っていたしな。……もう一度行くことが叶うのなら」
「叶えましょう!」

思わず片手を握ってガッツポーズみたいにして、任せてくださいの意思表示をしてみせる。
ボロミアさんは一瞬瞬くと、心から笑いたい時そうするように、顔をくしゃっとさせて笑ってくれた。

「何とも、頼もしい限りだな」
「いえ、あの。たぶんですけど、大丈夫なんじゃないですかね。前に一回来られてますし」

まあ、まだ上手いこと、夢を手懐けきってはいないんですけど。
言いながら(日本かあ)、と思う。
確かに、以前は自室だけでしか時間を過ごしていなかった。
あれじゃあ、日本に来たカウントとしては微妙だよねとも思う。
だったら……次にボロミアさんと向こうに渡れたら、何処を案内しようかな。考えておかないといけないな、そう思うと何だか楽しい気持ちにもなる。
同時に、中つ国の方が自然も豊かできれいだから、つまらないと思われないかなという不安な気持ちも少しあったりする。
そんなことも含めて、あれこれの未来を思い描くことはやっぱり楽しい。

は」
「はい?」
「今まで訪れた中で、気に入った場所はあるか」
「中つ国は、何処だって素敵ですけど」

なんですけど。
わたしは隣にいてくれる人を見た。
言った。

「今は……無性にミナス・ティリスをもう一度見たいって思うんです」

あの地を発った時のように、白と銀色に輝く石の都を見たい。
告げると、ボロミアさんは何かを言いかけたまま、口を噤んだ。
そのまま黙って、こちらをそっと抱きしめてくれる。

わたしのこの世界の始まりは、あのミナス・ティリスからだった。
だから、帰る場所もそうでありたい。
いつか、帰りたい。ボロミアさんと一緒に。
そう願いながら、黄金色の光が揺れる森の中で。
その背に回した腕に、そっと力を込めた。






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