いつかの酒の席での会話。
「どうせ俺たちは死んだって、天国とやらには行けないさ。そんなもんが本当にあるかなんて知らねえけどよ。でもよ、きっと俺たちは同じところに行く。そうだろ、相棒?」
いつも以上に陽気で饒舌なビリーに相づちを打つ。
「そうだな」
「ああそうさ、天国だか地獄だか知らねえ。どんなとこだって、死んで行くところがあるのなら、俺たちは同じところにたどり着くに決まってるのさ」
「違いない」
いつか自分達が死んでも、再び出会って楽しくやれるに違いない。
あの頃はそう信じていた。
いつのことだか、懐中時計を開いたのはまだずいぶんと幼いころだった。どういういきさつで手元にあるかは不明だが、物心ついた時から持っていたように思う。
以来、宝物というほど特に大事にしているわけではないが長いことこの時計を持ち歩いていて、なんとなく無いと落ち着かないようになっていた。
カバー裏の肖像画の女性はとても美しく、慈しみに溢れる表情でこちらを見つめていて、よく見ればそれは、生まれたばかりらしい赤ん坊を抱いた女性の絵を畳んで顔だけが見えるようにしたものだった。裏にはその子の誕生日らしい日付と、今では誰も呼ぶことのない、自分と同じ名前がある。
文字が読めるようになって初めてそれに気づいたとき、売ればそこそこの金にはなったろうがその気は失せた。
偶然かもしれない。
だが、もしかしたら、本当に母親なのかもしれない。抱かれた温もりも、顔も、声も、なにひとつ覚えていないけれど。
ビリーとの別れのあと、暗殺を生業とすることになり、ある時ひどい怪我を負った俺は、肖像画の女性に似ているひとに助けられることになる。
追手がかかっている可能性が高い自分にとってあの閉鎖的な村は身を隠すのに最適で、なにより、怪我がひどくて村を出ることなどできなかった。
よそ者に好意的ではないものの、弱りきった人間を放り出せるほど冷たい村ではなかったのが、なによりの幸運だったと言える。
傷が癒えてきた頃あのひとはひとつの願い事を口にした。
夫になってほしい、と。
さすがに面食らって無理だと断ろうとすると、夫婦のふりで良いのだと言う。
彼女には想い合った相手がいるが、村の掟のために結ばれることが許されない。それでも、家族になりたいのだ、と。
彼女に対して持ち合わせたのは男女の情ではなく、恩人に対する感謝でしかなかったので、その通りの事を伝えた。いつか必ず出ていくときが来る、それでも構わないのか、と。
だからこそあなたにしか頼めない。そう言われた時、三人は村を欺く共犯者になった。
自分たちは表面上夫婦ということになり、彼女は想い人の子を授かる。
娘ということになる女の子が生まれたときあのひとは、いつでも出ていって構わないと言った。
それでもこどもが話せるようになるまで村にいたのは、こどもの父親が出産直前に亡くなったのと、あのひとがその後長く生きられないとわかったからだ。
バチが当たったのね、彼女はそう言った。
こどもが生まれてしばらくしてあのひとがいよいよ床につくことが多くなった頃。
こどもは俺によく懐いていたし、あのひとに似て、つまりは肖像画の女性の面影もあり、このまま父親として過ごす選択肢もあったはずなのにそうしなかったのは、こどもの幸せを考えたからだった。
いつか自分の過去が追い付いてこどもを危険にさらすようなことになったとき、この子は無事でいられるだろうか?
これだからよそ者はと自分が責められるのは良い。反論する気もない。
でもこの子は、この村は、父親と呼んでいる血の繋がらないよそ者のせいで危険が及ぶかもしれないということを知りもしない。
ある日出掛けて帰ってこないということにしておいた方が、捨てられたと気づいたときは辛くても、いつか幸せになれるのではないか。
村人はみな親切だし、懇意にしている友人も居る。同情もしてくれるだろう。孤児とはいえ不自由なく生きられるだろう。
ふたりで話し合って出立の日を決めた。
この身勝手さが、決して消えることのない自分たちの罪だった。
そして、修羅の道を歩む。
もう出られない。
客観的な事実として、シャドウはこの状況をとらえた。
致命傷を負い動くだけの力は無く、このまま死を待つばかりだ。
諦めたわけではなかったが、『瓦礫の塔』と呼ばれたこの建物は文字通り瓦礫へと戻りつつある。
完全に四方は塞がり、今にも頭をめがけてかつて天井だったものが落ちてきそうだった。
逃げようにも何処にも逃げ場はなかったし、なにより指先一本動かせそうにない。
それになんだかひどく眠いのだ。
こんな時には昔のことが走馬灯のように思い出されると聞いたことがある。
「ビリー、あたたかく迎えてくれ……」
いよいよ最期を覚悟してかつての相棒の名を呼んだが、走馬灯による思い出に浸る前にシャドウの意識は途切れた。
『ここ』に自分がいることと、足元に踏みしめられる床があることだけが確かだった。
衣服も装備もそのままで、辛うじて身を守ることはできそうだと考えたところで、『ここ』がいわゆる死後の世界なのではないかと思い至る。
しかし死後の世界ならば、もっと他に誰かがいてもいいはずだ。それとも自分はまだあの瓦礫の中にいて、死の直前に夢を見ているのだろうか。
他に何もすることがないのでうろうろと歩き回ったがなにしろ辺り一面ミルクをこぼしたように真っ白で、果てが見えない。方向感覚もなくめまいがしそうだった。
小一時間ほど歩き回ったような感じはしたが疲労感はなく、ためしに張った頬の痛みも感じない。ただ、ばちん、と鳴った音だけが真っ白なもやに溶けて消えた。
歩けど歩けど、どこかにたどり着く気配がない。そもそも進んでいるのだろうか。ただ同じ場所をぐるぐると回っているだけではないのかと思い始めたとき、だれかの声がした。
名前を、自分を呼ばれていると気づくのに、どのくらいかかったろうか。
もはや誰も知らず呼ぶ者もいないはずの名を呼ぶ声。
女の声だ。
微かな声に向かって歩みを進めると豆粒ほどの人影が見えてきて、一歩進むごとに急速に近づいていく。
手が届くほど近くに来たとき、彼女は、微笑んだ。
懐中時計の肖像画の女性。
(かあ、さん……?)
確かに声を出したと思うのに、何一つ音にならなかった。
『それ以上近づいてはだめ』
彼女の声は聞こえるのに、唇は動いていない。
ただ彼女は微笑んで、まっすぐ前に、つまり俺の後ろに向かって腕を伸ばし、指を指す。
『いきなさい』
どこか懐かしい声が、頭のなかに響く。
彼女が指した方へ足を向け振り返ると、彼女はもうどこにもいない。幻のように、白の空間に溶けて消えた。
再び、人影が見えた。
かつて、夫婦として過ごし、周りの優しい人々を欺いた共犯者。
『こんなところまで、来てしまったのね』
先程の女性のように、脳内に直接届く声。
『これ以上、こちらに来てはいけないわ』
いまもってここがどこだかわからない。
『ここがどこでも、これ以上ここにいてはいけないわ』
(きみは?)
『わたしはもう、どこにでも行けるのだもの』
(あの子のところへも?)
『ええ。あの子にはわからないけれど』
あの子を見守りながら生きる道もあったのに、あえてそれを選ばなかった自分の身勝手さを思う。
いくら納得ずくとはいえ、あの子にはどんな申し開きもできない。結局、逃げただけなのだ。
物事はいつだってそうそう都合よく進まないということを、しでかしてから気づくのだ。
そのことも、十分に理解していたはずなのに。
『謝らなくていいの』
こちらの気持ちを知ってか首を振る彼女の肩を抱く存在がある。
ここまできてやっと、想い会う相手と一緒にいられるようになったということだろう。
『ありがとう。……おいきなさいな』
ふたりの指差す方へ顔を向けると、そこには、ビリーがいた。
『なんだよ、来ちまったのか』
覚えているのは、ワルガキがそのまま年を取ったという風体。それはあの頃の、最後に見た彼の姿だった。
やはり俺たちは、同じところに行き着いた。
ビリーは、仕方ないなという風に苦笑して肩をすくめながらまっすぐにこちらを見ていて、名を呼ぼうとしたのを制止される。
駆け寄ろうとしてもなぜか体が動かない。
『なにもいうな、ぜんぶ見てた。でもまだだ。おまえにはまだ行くところがある。そこでおまえがぜーんぶやりきったら、また会える』
(みんな、行けっていうんだ。死んだから、ここにいるんだろう? おまえがいるんだから)
『言ったろ、見てたって。おまえは気づいてないだけさ』
何に、と問おうとしたはずだった。
途端に彼が急速に遠ざかっていく。いや、自分の体が離されているのだ。
音もなく足元に空いた大穴に吸い込まれていく感覚。
周りは真っ暗になり今までいた白の空間が、伸ばした手の先のビリーが、どんどん遠ざかっていく。
『いきな! いつかまた会える! 必ずだ相棒!』
伸ばした手をつかんだのは、誰だったのだろう。
知らない天井だ。
あれからどれほどの時が過ぎたのかは全くわからない。
今見ている天井も、夢か現実かはっきりしない。
目を開けていられる時間が短いのだ。眠りに落ちていくような、気を失うような、そんな感じで暗闇に落ちて、気が付くと同じ天井を見上げている。
何度それを繰り返したか。
生きていることに実感が持てたのは、半月ほどたってこの部屋の主から詳細を聞くことができたからだ。
ここは宿屋で、体が良くなるまで面倒を見てくれるように頼まれているのだと言う。
あの瓦礫のなかから、よく這い出られたものだ。
自力では無理だったはずだ。
運よく何かの拍子に崩れたのか、誰かがわざわざ瓦礫を片付けていたのか。
身に着けていた時計や武器は無事に残っている。金目の物を探していた盗賊か何かという線は薄いだろう。
そこまで考えたとき、昔話を思い出した。
いつか誰かが言っていた、例えばの話。
『もし本当にマッシュが生き埋めになっちゃってたら、エドガーはどうしてた?』
『もちろん何日かかっても見つけ出すさ』
ためらいなど一切無かった。血を分けた兄弟だからか。
『きっと生きている。たとえ、死んでいたとしても、この目で見るまで、信じないよ』
何故か無性に彼に会いたかった。
会ってどうしたいわけでもない。
ただ、一目見たかった。
エドガーの、はちみつ色の金の髪。
空よりも青いトパーズブルーの瞳。
なめらかな頬と、柔らかく微笑み色づく唇。
そのすべてが、とてもとても懐かしく感じられた。
いくらか回復して目覚めている時間が長くなってきたころ、初めて見舞いの人間、エドガーの顔を見ることができた。
あそこから探し出したのがエドガーだったこと、移動がシャドウに負担をかけるため近くの宿屋に託したこと、三日に一度程度は見舞いに来ていたこと。
いつもシャドウが眠っていたこと、帰り際に必ずうなされたシャドウが手を伸ばしてきたこと。
その手をいつも握ってくれたこと。
いつものような軽薄さを見せず、今にも泣き出しそうにうつ向きながらぽつりぽつりと話す彼の握りしめた手が震えている。
ではきっと、あの真っ白な部屋から墜ちるときに手をつかんでくれたのは、エドガーに違いない。
そう思い、あそこでのことを話すことにした。
なぜか、どうしても、あの人たちのことを誰かに聞いてほしかった。
『どこかを指さして【行きなさい】って言うんだ。そのたびに大事な人が現れてその人も【行きなさい】って。それなのにいつもきまって暗闇に落ちる』
『それはさ、【生きなさい】なんじゃないかな』
脳裏にビリーの『おまえは気づいてないだけ』が、やけに大きくこだまする。
そうか、そういうことなのか。
まだ行くところがある、彼はそう言った。
我知らず落ちていた恋に、気づかされた。
頬に血が上るのがわかる。左手で顔を被うと、その手はエドガーの手に絡め取られ、ベッド脇に片ひざを着く姿が見える。
『だから……私と一緒に生きてくれないか?』
瓦礫を除けたときに負ったであろう指先の傷跡も、うっすらと染まった頬も、自分が知る限り自信に満ち溢れていたはずの彼の緊張で冷たくなって震える手も、自分のためだけにあるのだと思ったら一回りも年下の男が愛おしくて仕方がなかった。
『ああ』
相棒も家族も、いつか失ってしまうのなら、これ以上何も大切はものは持たないと決めていたはずなのに。
彼の手を取らなかったという後悔だけは、したくなかった。
いつか俺が、なにもかもすべてやりきって、そちらに行くときは。
きっと俺は、一人じゃないのだろうけれど。
それでも。
『ビリー、あたたかく迎えてくれ……』
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