音色はきっと、ピアノのものだろうと思いました。
城の何処からかはわかりません。それに、いつから流れているものなのかも。
ただ、ふと気付いたら、その旋律はわたしの耳に届いていました。
とても軽やかな音の連なりです。たくさんの音と音との繋がりが、綺麗にひとつにぴたりと融け合っていて。
例えるなら、何処か春の訪れを想わせるような曲調、とでも言えそうですね。
きっとかなりの腕前の人です。鍵盤を叩く姿もさぞかし絵になっている事だろうと想像します。
わたしは歩きながらいくつかの扉を押します。直射の遮られる城内、或いは、壁の影の日陰に入ってしまうと、ひやりとした温度に思わず息が漏れました。
春のようなその曲とは違って、昼間は常に真夏のようなフィガロですから、そうしてしまうのも無理ありません。
お散歩と探検の、中間のようなものでした。
もちろん以前にも何度か、このフィガロ城には足を踏み入れていました。とはいえ、この日は特に時間がありましたから。
それに、此方の主さんには 「自由に過ごしていい」 と言われていましたしね。
ちょっとお城全体を一回りしてみようかとブラブラしていたところで、わたしはその音色に気が付いたんです。
いつしかその曲は、終盤を迎えていたようでした。最後の音が長く尾を引き、やがてふつりと消えたように思えます。
これでお終いなのかな、と頭の何処かで思っていたら、不意に新たな鍵盤の音が聞こえたんです。
でも、それは何処かたどたどしいものでした。そうですね……、まるで、昔の記憶を手繰り寄せてるみたいな、覚えているかどうかを確かめるような。
……わたしは然程、その音に興味をひかれたわけではありません。
誰がその音の持ち主なのかも、知りたいと思ったわけではありません。ただ気紛れに歩いていただけですし。
それでも、音の生まれた場所と思しき部屋が、すぐ近くでしたからね(もし離れた場所だったら、何もせずにその場から遠ざかっていたと思います)。
そして、わたしの想像した「かなりの腕前の人」は、果たしてこの部屋にいるのだろうかと、それを確かめてみてもいいかなという気分でもありました。自分に課したクイズの、答え合わせのようなものですね。
そうしてそっと扉を押すと、確かにそこには、想像通りの人物が居たわけです。
エドガーさんは立ったまま、今鍵盤の前に座っているその子の音に静かに耳を傾けていました。
そして、……こちらは予想していませんでしたが、白と黒が規則的に並ぶその盤の上に指を置いているのは、他でもないリルムです。
此方を見てそのまま小さく微笑んでみせてくれるエドガーさんに肯きを返すうちにも、何度か、旋律の形をとろうとする其れは行ったり来たりを繰り返しています。
けれど遂に、一度だけ首を振ると、彼女は続きを諦めてしまったように手を下ろしてしまいました。
「やめちゃうの?」
「うん。思い出せないもの、続きが」
わたしの事は気配でわかっていたみたいで、驚く事もなく淡々とリルムは言いました。
すとんと椅子から下りてしまうと、けれど少し名残惜しいような顔つきでピアノを振り返り続けます。
「色男がピアノ弾いてるの見て、リルムも弾いてみたいと思ったけど。……無理だったみたい。もう、しばらく触ってなかったし」と。
やっぱりさっきまでのピアノは、エドガーさんのものだったようです。
クイズの答えは正解だなと、自分の中で答え合わせの答案に丸を付けながら、けれどほんの少しばかりリルムの方に意識が向きました。思ったままを口にします。
「リルムは小さい時、ピアノを習ってたの?」
訊ねると、彼女は大人びた仕草で肩を竦めてみせました。
習ってたなんて、そんなご大層なモノじゃないけど。そんなふうに彼女は言います。
「リルムの家はピアノも無いし。まあ、小さい子用のおもちゃのならあるけどさ。……でも、近所の子の家にはちゃんとしたのがあって、遊びに行った時には一緒に弾いたりしてたの。最近はリルムも絵の方が楽しくて、こっちはもう何年振り、って感じ。小さい時教わった曲もあった筈なのに、思い出せなくなってるみたい」
「そうなんだ」
「でも、練習していれば急に思い出す事もあるかもしれないよ、レディ」
「ううん。いいの。本当にただ弾けるかなって思っただけだもん」
そんな会話を交わす合間にも、わたしは改めてそのピアノを見ます。
黒塗りの大きな立派な造りです。たぶん、ピアノといっても種類とかそういうのがあるのでしょうが、生憎わたしはそこまでの知識はありません。
わたし自身、音楽に関してそう深く関わりあってきた方ではなかったんです。楽譜も、まあ、本当に簡単なものなら読めるかなという程度。
好きな音楽はそれなりにありますが、そのくらいです。そこそこに音楽が好きで、程々に愛しているというべきでしょうか。いわゆる、まあ、ふつうのレベル。
そんなわたしでしたが、ふと指を鍵盤の上にのせ掛け、それをストップします。
傍らのこのピアノの持ち主であろう人物に目で問うと、エドガーさんもそれに応えてくれます。
晴れて許可をもらったわたしは、立ったままで両手を白の盤上に置いてみました。
想像よりも鍵盤は軽く、わたしはそのまま和音と曲の出だしを確かめるように両手を何度か置き直してみましたけれど、直ぐにそれを止めてしまいました。
「もういいのかい?」
「はい。やっぱり、わたしも無理みたいです」
「……も、もしかして昔ピアノ習ってた?」
「『 そんなご大層なモノじゃないけど 』」
「あーっ、もう! ゴゴじゃあるまいし、リルムの真似しない!」
「ごめん、ごめん」
むくれるリルムに謝ってみせると、傍らでエドガーさんが笑っています。穏やかな時間でした。少なくとも、今のこの世界の現状を一時忘れられるくらいには。
……ああ、ピアノの話でしたね。
そうですね。わたし自身、ほんの少し齧った事も、あったかもしれません。けれどそれは本当に大分昔の事で、わたしもリルムと似た境遇でした。
何とか弾ける(というのも憚られるような感じですが)曲もあった気がします、けれどそれも、驚くほど思い出せなくなっていました。
小さい時に覚えた事は、身体が覚えているとかよく言いますよね。必ずしもそうじゃないんだなって、この時思いましたよ。
ともあれ、そんなふうにしてわたしはこのピアノと出会いました。
聞けば、ジドールの貴族の人……、何てお名前でしたか、……アウザーさん、でしたっけ?
その人が、何だかリルムの絵をいたく気に入っているみたいですね。詳しくはわたしも知りませんけれど。
そうして、どういう経緯があったのかはわかりませんが、何やらその人の主催する集まりにリルムが招待されたんでしたよね。
加えて、エドガーさんを筆頭にわたし達もパーティーに参加するとかしないとか、そんな話だったような気がします。その前準備という名目での休日が、この日だったわけですが。
フィガロ国王陛下においては、たぶん、こういうお付き合いも必要な事なんでしょうね。
その集まりで披露するための予行演習曲が、先程のものなのだという事でした。
わたしはその話を少し思い出し、けれど、その集まりが終わるまでは時間ができるなと思いました。
貴族の皆さんの集まりですもの、わたしは窮屈で、とてもその場に居られそうもありません。
聞けば、わたし達全員が一応招待の数に入っているとはいえ、実際に参加するのは任意で、出席するのは半分くらいみたいでしたし。
わたしはふと、傍らの人を見上げました。
今のうちに訊ねておこうと思ったんです。エドガーさん、と呼び掛け、そのまま続けて問います。
「留守番の間、このピアノをお借りしても大丈夫ですか?」
「ああ、構わないよ。が弾いてくれるのなら、ピアノも本望だろうしね。やっぱり、練習したくなったのかい?」
「気が向いたら、そうするかもしれません」
それだけ、わたしは言って笑ってみせました。
ジドールまでは飛空艇で向かう行程でしたから、居残り組はフィガロに留まる予定になっていましたしね。
その間、どう過ごすのかをまだ決めてはいませんが、それなりに纏まった時間です。
フィガロを探検するのはそう大掛かりなものでもありませんし、もし可能なら図書の間に入る許可の方をもらって、本を読むというのもひとつの過ごし方だったと思います。でも、
――わたしは、この世界の字が読めませんでしたから。
「そうだ。勝手ながら、主賓のリルムに似合いそうなドレスを何着か見立てておいたんだが」
「リルム、ファッションにはうるさいよ?」
「そうだろうね。お気に召すものがあれば嬉しいのだけれど」
傍で交わされる会話を右から左に聞き流していると、不意にエドガーさんと視線がかち合います。
も、今からでも出席する事にしないかい。君の分もドレスを用意してあるんだが。
そんな言葉にやんわりと手を振って答えます、「それは是非、次の機会に取っておいてください」って。
そんなエドガーさんとリルムを先に見送り、わたしは独り、もう一度だけ佇む鍵盤を振り返ります。
音の消えた室内は、ひどくがらんとしていて、さっきまでと同じ部屋とは思えないような、そんな錯覚にさえ陥りそうでした。
ほんの少し、たぶん……ほんの何秒か、立ち尽くしていたかもしれません。ふと、鍵盤の白色に触れようとして……止めました。
踵を返し、部屋を出て、いくつも立ち並ぶ柱と柱の陰に、一際濃い黒色を見つけたのは直ぐの事です。
一瞬通り過ぎちゃいましたけど、その脚で180度、方向転換して。
……シャドウさん、相変わらず気配を感じさせないですよね。
あの登場シーン、テレビとかだったら絶対、脅しの効果音入ってますよ? ずおんって。まあ、それはともかく。
「シャドウさん。シャドウさんは、ジドールには」
「…………」
左右に一度だけ振られた首は此処に残る事を示していて、十中八九そうだろうなと思ってはいましたが、それでもやっぱり安堵が胸を満たしました。
じゃあ、とわたしは続けます。
「じゃあ、いつもみたいにまたお話しましょう。あ、勿論、ご迷惑でなければですけど」
「…………」
シャドウさんの沈黙は、肯定とまでは言いませんけど、拒絶を含むことってあまりないような気がしますね。
でも、あの。……もしも、うるさいなあっていう時は、言ってくださいね? わたしだって、流石に読心術なんて心得てはいないんですから。
……そういえば、この時のシャドウさん、こんな事を口にしましたよね。
「……おまえは」
「はい?」
「……俺相手に話をしていて、楽しいのか」
「はい、楽しいですよ!」
「…………」
即答です。だって、それ以外に答えようがありませんもの。
ただ、後になって、何を今更そんな事訊くんだろうって思いましたけれど。どうして急に、あんな……ああ、いえ、いいんです。仰りたくないなら。ただ何でかなーって思っただけですから。
でも、もしもシャドウさんがつまらなかったりするんでしたら、その…………。
え? 誰もそんな事言ってない? ……良かったです。もしそうだったらどうしようって思っちゃいました。
だって、世界が引き裂かれて、皆バラバラになって。……それでもわたしは、目覚めた時傍にいてくれたシャドウさんと、やっと此処まで辿り着いたのに。
それだというのに、実は正直、あんまり一緒に居るの楽しくないとか、ショックじゃないですか。シャドウさんがそうじゃなくても、少なくともわたしはショックです。今までの時間は一体何だったんだー! ってなるじゃないですか。ああもう、不安煽るのやめてください、お願いですから。
……脱線しましたね。ええと、それは脇に置いておく事として、ともかく。
答えると、またも沈黙が降ってきました。けれど、何もない沈黙ではなかったですよね。
見下ろされる目を見返すと、いつもと変わらない碧色の目が其処にありました。
口から音が零れることがなくても、そうか、と言ってくれているような気がして、わたしはそれで充分でした。
ふいと背を向けるシャドウさんを見送り、それから仰ぎ見た陽はやや傾いて、オレンジがかった色をしていました。
直ぐに陽が沈み、砂漠の冷える夜がやってくるでしょう。
わたしはこれからの数日間の事を少し考えました。フィガロで過ごす間の、シャドウさんや他の留守番組の皆との時間の事。
いつもと少しだけ違う事があるとしたら、それはほんの少しだけ頭に引っ掛かっていた、あのピアノの事でした。
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