次の日、ジドール参加組、足す事の飛空艇操舵主セッツァーさん(彼はパーティーには参加せず、その間ファルコンの整備をするとの事でした)がフィガロを発っていきました。
あっという間に空の向こう側に消えた艇を見送り、思い切り背伸びをします。
見上げた先には雲一つなく、この日もからりとしたいい天気で、とても暑くなりそうな予感で満ち満ちていました。

……フィガロは、お城の皆さんがとても良くしてくれますよね。
力の有り余ったガウが全力疾走して、それを追いかけてるマッシュさん、というのも結構定番になってしまった感がありますけど、お城の人皆が何も言いません。寧ろ微笑ましく見てくれているような気さえします。
……わたしの気のせいですか? そうでしょうか。そんなふうに見えるんですけどね。
そのガウを見失って、はあ、と息をつきながら頭を掻いているマッシュさんに、
「ジドールには行かなかったんですね、マッシュさんは」、そう声を掛けると、彼は苦笑いしながら手を振りました。

「俺には、ああいうのは性に合わないよ。ガウを見てる奴だって必要だしな」
「うーん、そうかもしれませんね……、あっ、ガウ! いた!」

わたしが指し示した先、お城の旗のはためいているすぐその傍で、ガウが座り込んでいるのが見えました。
ただ、それは、別棟のてっぺん、言い換えるならお城の屋根の上だったわけですが。
風に揺れる旗を狙っているのか、ジッとそれを見つめる仕草はさながら猫のようでした。

「あいつ、何だってあんなところに! 悪い、、またな!」

マッシュさんも流石に吃驚したみたいで、そう言って慌ててダッシュしていきます。
やっぱり、とても平和な時間でした。
皆でこんなふうに過ごすのが、わたしはとても好きでした。これまでもそうでしたし、これからも、こんなふうに過ごせたらいいなあと、よく思うんです。世界が元に戻って、皆が解散する事になったら……、そこから先の事は、まだ、明確には決めていませんけれど。
帰る術を見つけられない以上、今後の事を考えておかないとって、思ってはいるんですけどね。



……わたしがこの世界に来て、もう一年が経ってしまうんですね。
目まぐるしい時間でしたから、そんな感じがしないんですよ。ついこの間の事のような気がします。
わたしの居た世界は平和なところですが、そして自分自身、突然こちらに放り出された事には吃驚でしたが、だからといって、この境遇をどうこう言うわけではありません。
……すみません。ちょっと、やせ我慢しました。正直なところ、最初はそれなり、動揺しました。

……そうは見えなかった?
そうでしょうね。だってわたし自身、まだ何が起こっているのか解っていませんでしたから。
それでも、この世界で一番最初に出会ったのがシャドウさんとインターセプターでしたし、皆にも良くしてもらって、今に至ります。

世界は一度引き裂かれましたが、それでもわたしはこの世界、好きですよ。毎日、いろんな発見があります。
読めない文字、知らない地図、聴いたことのない音楽、食べたことのない料理、交わしたことのない会話、目にしたことのない景色。
わたしの居たところと同じものだって、数多くあります。けれど何処までも同じなようで、何処までも違うもの、見知らぬものです。
たくさんの情報が自分の中に入り込んでいく一方で、何かが、ほんの僅かに欠落していくような感覚を覚えたのはつい最近の事でした。




一日を緩やかに過ごす中で、ふと思い出したようにあのピアノの部屋に赴いたのは夕暮れの事でした。
……思い出したように、というか、本当に思い出して、なんですけどね。
誰もいないその部屋は、やっぱりがらんとしていました。
窓の外では陽が沈んで、ほとんど濃紺の空の中に、赤紫の光の残滓が残っているのが見えます。
大人二人が座ってもまだ余裕がありそうな、ゆったりとした幅広の椅子に腰掛けます。ピアノの蓋をそうっと開けると、整然と並ぶ鍵盤がわたしを迎えてくれました。
指を一本置いてみると、音は何の造作もなく、小さくただ辺りに響きました。昨日、この椅子に座っていた女の子がそうしていたように、わたしも昔の記憶を引っ張り出そうとしばし頭を巡らせます。
確かに、覚えている筈です。その筈でした。なのに、何故だかしっくりきません。
わたしは少し、唸りました。指の置き方、曲の出だし、或いはテンポだとか、いろいろあるかもしれません。音楽を構成するもののどれかが欠けているのか、やはり、指は動きません。
わたしは、本当に、覚えていた筈のことを、忘れてしまったんでしょうか?
その後もどのくらいの時間かピアノと向き合っていましたが、そう長い時間ではなかったと思います。
わたしは蓋を下ろすと、その日はそのまま部屋を後にしました。


次の日も変わらず、やはり暑い一日でした。
ジドール組は、向こうで二泊するとのことでしたから、明日には皆戻ってくることでしょう。時間は、やわらかく流れていきました。
そうしてこの日は、……本当言うと、ピアノの部屋には行かないつもりでいたんです。もう思い出せないと、昨日の時点で諦めていました。
それでも、最後の最後に足を向けてしまったのは、悪足掻き、ってやつでしょうね。
もう思い出せなくてもいいと何処かで思いながら、なのに同時に、もしかしたらと思ってしまうんですから。

夕闇の訪れた部屋は仄暗く、わたしはそっと灯りを入れました。
外にはやはり濃紺が立ち込めていて、わたしは自分が今日にいるのか昨日にいるのか一瞬わからなくなりそうになります。
……どうでもいい事でした。
蓋を上げて、白と黒を見下ろします。
自分の中に、曲は確かにありました。何度か、試みます。
指を、両手を、懸命に動かそうともがきます。
……全ての指を、でたらめに叩き付ける不協和音が、部屋に響きました。


それから、どのくらい経ったでしょうか。
俯いて目を閉じたまま、どれ程経ったかわかりません。一分なのか、十分くらいか、或いは一時間か。
その旋律は、いつしか、わたしの中に届いていました。
いつからなのかはわかりません。もしかしたら、少しだけ眠っていたかもしれません。
何処かで聴いたことのある曲のようにも思えます。静かな響きは、部屋の中を満たしていて、わたしはそっと目を開けました。

傍らには、もう見慣れてしまった黒い手が(器用にも手袋のまま)盤上を滑っています。
波紋のように空間の中に広がり、緩やかに紡がれていく音色が、確かに其処に存在していました。
わたしは何故か、吃驚することもなく、ただ目の前を広がる音の帯に身を委ねています。見える筈のない音の粒が、夜の時間の中にこぼれていくような気さえしました。

何故だか、泣きたくなるような懐かしさを覚えます。
……おかしいですね。わたし、シャドウさんの弾くピアノを聴いたのは初めての筈なのに。
それでも、どうしてなのかはわかりません。そんなふうに、感じました。
遠い昔に耳にしたような、何処かもの悲しいとさえ思える旋律です。
決して長調のような明るく弾むようなものではありません。忘れられた記憶の底にあるような、寂しさに彩られたかのような曲なのです。

しかしそれにも拘わらず、その音は驚くほど優しい色に満ちていました。
不思議な曲だと、わたしは何処か遠くで思います。どうして、そんなふうに感じるのかはわかりません。
けれど、……音楽って、そんな理屈で聴くものではないのだというのは、なんとなく知っていました。
わたしは、ただそのままで、シャドウさんの弾くピアノに耳を傾けました。
大きな幅広の椅子の上、わたしは少しだけシャドウさんに場所を譲り、再び目を閉じます。
やがてその最後の音色が完全に消えてしまうまで、シャドウさんの音に浸っていたかったのです。

やがて曲を弾き終えたシャドウさんに、わたしはそっと拍手を贈りました。
……たぶん、普段だったなら、どうして急に隠されていた特技をご披露する気になったのかとか、そんな事を疑問に思ったと思います。
けれどこの時は、そんなこと露程にも思いませんでした。
ただ、何か、気の利いた賛辞を贈りたかったんです。なのに、胸の辺りが何だかいっぱいで、上手いこと何かを言うという真似は出来そうにもありません。
口にしたのはごくごく、ありふれた言葉でしかありませんでした。

「シャドウさん、ピアノがお上手なんですね。今初めて知りました」
「…………」
「すごく、素敵な曲でした。……曲名は、なんていうんですか?」
「名など、忘れた」

ぽつりとそれだけ、シャドウさんは言います。
けれど、曲の名は忘れても、曲自体は覚えているんですね。
わたしは、抑えようと思って溜め込んでいたものを、ほんの少しだけ口にしました。ほんの少しだけ。

「……シャドウさん。わたし、昔弾く事が出来た曲が、今は弾く事が出来なくなっていて。怖いなって、思っちゃったんです。元居た世界のわたしのことを、自分自身、だんだん忘れていくような気がして」
「…………」

シャドウさんは、黙って其れを聞いていてくれました。
――わたしは、単純に曲を思い出せない事に苛立っていたわけではありません。
この世界のことをどんどん知って覚えていく反面、古い記憶が上書きされてだんだんと埋没し、あちらの世界の事を忘れていく事を恐れました。
だって、だって、向こうの世界こそ、わたしの故郷なんですから。

「まだ一年しか経ってないから大丈夫だって思いたいんですけど、どんなに記憶を焼き付け直そうとしても、ちょっとずつ、色褪せていく感じがして」
「例え色褪せたとしても、忘れたくない記憶であれば其れはおまえの中に必ず残る。……忘れたくても、消すことの出来ない記憶とは違った形でな」

ハッとして、思わずシャドウさんを見ました。
明かりの灯されたピアノの部屋で、今は静けさに支配されたかのようなこの空間の中で、その人は確かに、そんな言葉を口にしました。
ああ、と思います。
シャドウさんが今までを、どんなふうに生きてきたのかをわたしは知りません。
けれどその言葉は、その人の持つこれまでの一端を、確かに表しているように思えてなりませんでした。
わたしはこころの中で頭を振ります。一体、何をわたしは恐れていたのでしょう。わたしは本当に大切なものは、何一つ失ってなどいなかったのに。
わたしはもう一度シャドウさんを見て、何かを言おうとしました。
こんな時に、どんな言葉を、どんなふうに伝えればいいんでしょう。もう少し機転をきかせられる方ならいいのですが……生憎わたしは、そうではありません。
口の中でもごもごしているうちに、ふとごく単純な疑問が湧いて、口にしていいものかどうか少しだけ迷いながら、思い切って訊ねてみます。

「……シャドウさんは、何処でピアノを覚えたんですか?」
「訊きたいか」

拒絶でも試すようでもなく、ただごく普通の口ぶりで、シャドウさんはそう返してきます。
わたしは少しだけ考えて、首を振りました。わたしが今ききたいのは、そんなものではなくて、そうではなくて。

「あの。もう一曲、何か聴かせてください」
「他の曲など、もう忘れた」
「なら、さっきの曲、……あの曲がいいです。もう一度、聴かせてほしいんです。駄目ですか?」

わたしがじっとシャドウさんを窺っていると、微かな嘆息があったような気がしました。
やがて流れ始めたその音色は、ゆっくりと、夜の中を広がっていきます。
旋律と旋律とが繋がるそれは、最初は気付かなかったのですが、もしかしたら追走曲でしょうか。
わたしの知る其れは明るく朗らかな印象のものですが、シャドウさんの其れは少し違いました。懐かしい切なさを孕んでいながら、けれどずっと聴いていたくなるような曲です。
わたしは、再び目を閉じました。
感謝していました。
こうして傍に居てくれる人がいる。それだけで、わたしは充分でした。
砂漠の城の一室に訪れた夜、その時間は、その人の音色で静かにゆっくりと満ちていきました。




次の日、ジドール組が戻ってきたのは昼下がりのことでした。
わたしがあのピアノの部屋に居ると、其処にやって来たのはリルムです。
着替えもすっかり済ませてしまったようで、全くいつもと変わらない姿の彼女でしたが、ひとつ違うのはその表情でした。
きょとんとしたような、吃驚したようなその顔にわたしはついつい、ふき出してしまいました。

「あーっ、今リルムを見て笑ったでしょ!」
「……だって、あんまりにもポカーンってしてるんだもん」

もう! とカッカするリルムに、わたしはまた 「ごめんごめん」 と謝ります。
彼女、直ぐに機嫌を直してくれましたよ。そしてこう言ったんです。

、ピアノ、弾けるようになったの? ……思い出したの?」
「うん。今日になって改めて試してみたら、急に何だか、思い出したみたい」

ええ、そうです。
この日になって、独り、ピアノに向き合っていたら、ふっと最初の方を思い出して。
出だしさえ出来ちゃえば、あとは不思議と続けて弾けるものですね。
……シャドウさんのピアノには到底及びませんから、恥ずかしくて、とても披露出来そうにもありませんけれど。

が出来たんなら、リルムも負けてらんない! リルムだって、急に思い出せるかもしれないもんね」
「そうだね。……それにサマサに戻ったら、教わった人にまた教えてもらうとか、出来るんじゃない?」
「それは無理だよ」
「……無理なの?」
「うん。教えてくれたの、リルムのお父さんだもん」

ごくごく普段通りの調子で、彼女は言います。
「リルムが小さい時、ピアノのある家の子のところに遊びに行っていて、帰りが遅い時はお父さんが迎えに来てくれたの。あんまりよくは覚えてないけど、何回かだけ、気紛れみたいにひとつの曲を教えてくれた」と。
じゃあ、とわたしは言葉を繋ぎます。

「リルム、さっきのわたしのピアノ、聴いてたでしょ? リルムが思い出して、弾けるようになったら今度はわたしが聴かせてもらう番! ……いい?」
「あんまり上手には弾けないと思うよ?」
「それはお互いさま」

さっきわたしが弾いてたのだって、そう聴かせられるものじゃなかったってのに。
うん、まあ、確かに上手じゃあなかったよね。
言うと、どちらからともなく笑い合いました。
交わした小さな約束が、いつか果たされる日が来ればいいと思います。
今も時々耳に蘇るのは、この世界に溢れるひどく優しい音色です。街で流れていた流行のものらしい音楽、オペラ劇場での澄んだソプラノ、小さな村の宿で誰かが聴いていたレコード、そして砂漠の夜に満ちた大切なひとのピアノの旋律。
いつかわたしの知るこの世界の音に、リルムの音も加えられればいい。
わたしは、そう願っているのです。






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