他に、してやれる事がなかったのだ。
「この世界に来たのが、ついこの間の事のようだ」と、彼女は言う。
「この世界が好きだ」と、彼女は言う。
の口から紡がれるのは、嘘偽りのない言葉である。思ったことを、思ったままに彼女は言う。
黒髪の娘の言葉は、確かに彼女の本心なのだろう。本当のことを娘は口にしていながら、けれど同時に、彼女は何も語ることはない。
は、この世界を愛していた。
娘は、時に自分の故郷の話をする。
それは小さな頃の思い出であったり、の世界で起こっている出来事であったり、彼女の知り得るありとあらゆる事の話であったりする。
は気の向く時に気の向くままを話すが、けれど同時に、何も語らない。
それは彼女自身、為す術がないことを知っていたからなのだろう。口にしたところで何が変わるわけでもなく、だから彼女は何も語らなかったのだ。帰り道を見失った娘の微笑みには、深い沈黙が満ちている。
は、自分の世界を愛していた。
暗がりの一室、ピアノのある部屋に彼女はいた。
鍵盤の前に座り込むが、ひどく傷付いているように見えた。しかし俺には、どうする事も出来なかった。
……一体、何がしてやれたというのだ。この、血に塗れた自分の手に、何が。
触れれば、其処から彼女が砂のように崩れ、ほどけてしまうような気さえした。何もしてやる事が出来ない。
触れる事も、何がしかの言葉を掛ける事も、自分には、何も。
もし何か出来る事があるとするなら、それは。
それは、一体誰の記憶に残されていた曲だっただろうか。
……思い出す必要はない。ただ、ほんの幾ばくかでも、黒髪の娘の心の慰めになれば、それでよかったのだ。
旋律の尾がやがて夜の時間に消えた時、はようやく沈黙の裏に隠していたものを言葉にした。
それでもほんの一欠片に過ぎなかっただろう。これまで感じ得ていた事の、多くのうちのたった一つでしか。
彼女はこの世界を愛し、そしてまた自分の世界をも愛していた。
しかし娘の故郷はどうあれ、が思っている程、この世界が優しくなどない事を俺は知っている。
だからせめて、自分が傍に居てやれる間は、彼女の見ている夢が破られる事のないようにと思うのだ。『 優しい世界 』 だという、この荒廃していく世界の夢を。そうする事で、の心の均衡は保たれるだろう。
シャドウさん、またあのピアノの曲を聴かせてほしいんです。この旅が終わった後、もう一度、聴かせてもらえませんか?
黒髪の娘の言葉は、平穏と安寧に満ちている。
この世界を愛しているからか、或いは、もう既に知っていて、その上でそうなのだろうか。
此処が、絶望と喪失と虚無に溢れていて、それでも眩しくて仕方がない世界であることを。
……どちらでも構わない、ただ彼女がこの先、光ある未来を生きる事を望む。
のその問いかけに、俺は肯いてやることは出来ないが、それでも。
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