ドアの隙間から、そっと外の様子を窺う。
誰も居ないことを確認して、部屋を出る。ドアを閉めると、わたしは通路を歩き始めた。
ふと、手袋の裾を捲ってみる。
朝のうちにシャドウさんがわたしの自室から持ってきてくれていた腕時計を、手首に付けてある。
それは、もうじき午前十一時になる事を告げていた。


ブリッジでの一騒動の後、皆それぞれに解散した。
わたしはシャドウさんと一緒に部屋に戻りかけて、けれど先の闘いで破損した上の服を替えさせて貰う事にした。シャドウさんの部屋の前で彼と一旦別れる。朝は手伝ってもらったけれど、着方はもう判っているから一人で着替えられる。
服には血糊が残っていたので後でちゃんと洗う事に決め、ひとまず血が固まりきらないうちに洗面台の流水でざっと洗い流す。水を切って、ハンガーに掛けた。
それから上だけを着替えて、部屋を出たところだ。

あの魔物との一件で、微かに艇内全体に漂っていた不穏な空気も今では和らいだ気がする。遠くから誰かの笑いを含んだ話し声、何処かの町で流れていた流行りのものらしい音楽。

わたしはもう一度時間を確認しかけて、止めた。ついいつもの癖で何気なく手首を見てしまう。手袋の端っこを捲くらなければ見えないというのに。
とにかく、シャドウさんのいるわたしの部屋へ行こう。遅くなってはいけない、もしかしたら彼も時計を見て待っているかもしれない、朝のうちに彼自身の荷物の中から持ち出していったあの懐中時計を取り出して。


……いつの間にか、お昼になろうとしているんだな、というのを改めて思う。
今日は朝からいろいろワタワタしているけれど、あっという間のような、逆にジリジリと遅く過ぎていくような微妙な時間の感覚だ。ともあれ、まだ半日と経っていないけれど、もう何も起こって欲しくないと切実に思う。
午後は、本当に部屋に引き篭もっていよう。
おとなしくしていればそれ相応、何事もなく過ごせる。はず、たぶん。
そんな事を口の中で呟いて、ふと、気付く。そう遠くないところから、パタパタと軽い足音が近付いている事に。
わたしが前方を見やると、不意に角の向こう側から見知った顔が覗いた。

「あ、シャドウのおじさん」

可愛らしい声が掛かる。リルムだ。両腕に何か小さな包みをいくつか抱えている。
ふわふわした金髪を揺らしながら、彼女はこちらに歩み寄ってきた。

「さっき、外でおっきいモンスターと闘ったって聞いたけど、大丈夫だったんだよね? 怪我は?」
「…………たいした事は、ない」

簡潔にそう答える。もう終わった事だし、詳しく話す必要もない。
リルムはふぅん、と軽く息をつくと、 「じゃあ、これ」 と言いながら両手の中の包みを一つ、こちらに差し出す。何だろう。とりあえず受け取ってみる。

「さっき──たぶん、その魔物とおじさん達が闘ってた時かな。飛空艇がすごく揺れたから、リルムふらついて壁にぶつかっちゃって。だから、もしかしたら中身、砕けちゃってるかもしれないけど」
「……中は、何だ?」
「クッキー。リルム、こう見えてもお菓子作るの得意なんだ。一人で作ったんだよ。今、みんなに配ってるとこ」

なるほど、クッキーか。
わたしはリボンとセロファンで包装された包みをまじまじと見た。
これはシャドウさんにと渡されたものなんだから、しっかり彼に届けてあげなくてはいけないな。

「あ、シャドウのおじさん、と仲良しでしょ? 後でにも渡しておいて。今部屋に届けに言ったら 『 少し具合が悪いから後にして欲しい 』 って言われちゃって」
「…………そうか」
「リルム様のすっごく美味しいクッキーだからって、独り占めしちゃ駄目だよ」

そう言って彼女はもう一つ、クッキーの包みをくれた。
『 具合が悪い 』 、か。……シャドウさん、わたしのフリをするのを回避したな。もっとも、姿がわたしときては、対応に困るのも目に見えてるけど。特に相手がこの子ときては。
まぁそれは仕方が無い、大目に見てあげる事としよう。なんて思っていると、
「じゃあね」 とだけ言い残してリルムはパタパタと駆け出し始める。まだお礼を言っていない。

「リルム!」

気付いた時にはそう名を呼んでしまっていて、あ、しまった、と遅れて思う。
呼ばれた方は呼ばれた方で、少しビックリしているように見えた。
こんなふうにシャドウさんが彼女を呼び止める事などないから当然だ。

「……なに?」

きょとんとした表情でこちらを見上げてくる。
ミスった。どうしようか。
シャドウさんが「ありがとう」なんて言うの聞いたこと無いし、やっぱり此処は無言で受け取ったままやり過ごすのが一番彼らしい気はする。でも礼も言わずにこのまま貰いっぱなしというのも、何だかスッキリしない。どうしよう。
わたしはほんの少し考えて、言葉で礼を伝えるのは無理だと判断した。
なので、別の方法を取る事にする。

リルムのすぐ傍まで行く。向こうは目を大きくしながらこっちを見上げた。
片手をそっと彼女の上に下ろすと、向こうはピクッと身じろぎする。けれど、逃げ出しはしなかった。
わたしはリルムの頭をそっと一度だけ撫でると、同じようにそっと手を引っ込めた。
そのまま黙って彼女の脇を通り過ぎる。
後ろで、リルムがこちらを振り返るような気配。
視線が背中に向けられている気がしたけれど、わたしはもうそちらを見ず、シャドウさんの居る部屋へと向かった。

途中、手の中にある二つの包みに目を落とす。
結ばれたセロファンが光を反射して、虹色に光って見えた。





午前の出来事一連がうそのように、午後からの時間は何事も無く過ぎた。
シャドウさんとわたしと、それからインターセプターとで、部屋の中に籠もる。
彼の賢い犬はわたし達のことを理解したようで、わたしやシャドウさんに対する態度も普段と何も変わらなかった。
言葉少なに、シャドウさんとこれからの事について話す。
もしこのまま入れ替わったまま何日も過ごす事になったらどうするか、或いは最悪の場合はどうするべきか。元に戻る方法に何か思い当たりはないか、当座の課題となる事は、その他諸々。
遅々として、話は進まなかった。
そもそも偶発的に起こってしまった事なので、必ず戻れる保障というものがない。解決点が見出せない。だから、どうしても話す内容は「このままだったら如何するか」に絞られてしまう。
どう考えても気が軽くなる事がない。お互いに黙しながら時間だけが過ぎ、遂には夜を迎えた。

「はい、これがの分、こっちはシャドウの分ね。……、具合があまり良くないんでしょう? 大丈夫?」

そう言って夕飯を部屋に届けてくれたのはティナだ。
今朝のマッシュさんとのやり取りや、リルムからの話でわたしは体調が思わしくないという事になっているらしい。
見た目わたしの姿のシャドウさんは、彼女の言葉にもやっぱり肯くのみに留まった。

「すまない、ティナ。後は俺が引き受ける」
「……優しいのね、シャドウ」

シャドウさんにフォローを入れようと告げた言葉に、彼女はふわりと微笑んでそう返してくる。
と、ティナは急に、まじまじとわたしを見上げてくる。
彼女は続けて、言った。

「……気のせいかしら」
「……何がだ」
「今日のシャドウ、何だか普段と違うみたい。いつもよりずっとずっと柔らかい表情をしているように見えるもの」
「…………気のせいだ」

ただ単に思ったままを口にしているだけなのだろうティナは、またいつものように笑んでいる。
けれどこちらはといえば、内心ヒヤリとしていた。何気に、わたし達の事にいち早く気付く可能性があるのは彼女なのではないかと一瞬思う。ティナには何処か、理屈抜きに物事の本質を見抜いてしまうような印象があった。
けれど幸い、それ以上彼女は何も突っ込んではこなかった。
「食器は朝下げてくれればいいから」
と言い残すと、おやすみなさいと続けてティナはその場を後にする。残ったのはわたし達と、あたたかい湯気の立ち昇る夕餉。

「……

囁くほどの小声でシャドウさんがわたしを呼ぶので振り返る。

「疲れただろう、今日は早めに休め。俺の部屋を使って構わん」
「あ、はい」
「それと」

彼は少し区切って、続けた。

「あと数時間ほど経てば、俺たちがこうなって一日が経過する。──眠っている間に入れ替わったのだから、元に戻るとするならば今晩がある意味で節目かもしれん。もし明日になってもこのままなら、覚悟する必要があるぞ」
「う、……はい」

わたしも消えそうな声で応える。
寝て起きたらシャドウさんになっていた、という事が今日のわたしに起こったのだから、今度は寝て起きたら元に戻っていた、という事も無いとは言い切れない。逆に戻っていない可能性も勿論充分過ぎるほどあるけれど、ひとまずは今晩がヤマと言えばヤマだろう。
シャドウさんも口には出さずとも、わたしの身体では色々不便もあって疲れただろうなと思う。
わたしは今まで居たわたしの部屋から、シャドウさんの部屋に移ることにした。
インターセプターは予想したとおり、シャドウさんと共にわたしの部屋に残るようだ。わたしは屈んでその頭を一撫でした。

「おやすみ、インターセプター。……おやすみなさい、シャドウさん」
「……ああ」

わたしとシャドウさんの声が小さく交差し、空気に消える。
彼に見送られながら、夕食のトレイを手にわたしはシャドウさんの部屋へ向かった。



身体が替わっても、食べ物の味の感じ方はあまり変わらないらしい。
シャドウさんになっているのだから、もしかしたらお酒がとても美味に思えるかもしれない。そう思ってティナが気を利かして付けてくれたらしい食前酒を口に含んでみたが、特別どうというワケでもなかった。
同時に、付け合せにほんの一欠けら皿の端っこに載ってきた少し甘く味付けてある人参のバター煮は美味しく感じられた。受け止め方は、中身本人に委ねられるものという事だろうか。もし感じ方が違っていたらちょっと面白いと思ったのだが。

固いバケットを口に放り込みながら、わたしはなんとなく、部屋の中を改めて見回した。

朝見たときと変わらず、殺風景な部屋が、其処にある。
物もあまり無く、わたし独りが居るには少し広いような気さえする。
此処でいつもシャドウさんは眠ったり、食事をしたり、時間を過ごしているんだなと考えてみる。
そんな彼の空間にわたしが居てもいいものだろうか。ふっと頭の中で思ってしまうけれど、今は事情が事情なので仕方がないと納得してみる。


取り敢えず食事を済ませて一息つく。
時計を見ると、午後八時を過ぎようとしているところだ。
普段なら色々細々とやる事もあるけれど、今日に限ってはシャドウさんの言うとおり早めに休んだ方が良さそうだ。起きていても元に戻れるかどうかで悶々しそうだし、シャドウさんの部屋なんだと思うと何だかソワソワして落ち着かないし……。
ここは、さっさと眠ってしまった方がいい。

…………あ。そういえば。
今後このままだったらどうするか、とかシャドウさんと一応話をしたものの、あえて触れられなかった話題があったのに今ふと思い至る。
え、えーと、お風呂はどうすればいいのかな。一日程度なら我慢するって事も出来るだろうけど、もしこれが本当に明日以降も戻らなかったらそうもいかないし……。
それにシャドウさんの身体だからこそ、清潔に保っておきたい。
終始目瞑って全身洗うって出来るかな。
向こうはシャドウさんなので、まあ適当に何とかやり過ごしてくれそうな気がするけれど問題はこっちだなあ、と思う。どうしよう。

少し考え込んだ後、今日は水タオルで無難な範囲に限って身体を拭いておくだけにしておく。
寝支度を整えて、上着を脱ぐ。今朝目覚めた時のような、アンダーウェアだけの格好になってベッドの中に入る。明かりを消すと、静かに闇が舞い降りた。


不思議な感じだった。
身体を横たえると、シャドウさんの匂いが微かにする。それを感じると明日への漠然とした不安は静かに消えた。それどころかふつふつと、安らいだような気持ちが何処からか溢れてくる気がした。
目を閉じて、ゆっくりと呼吸を一つする。
思い浮かべたのはやはりと言うべきか、シャドウさんのことだった。
大変な一日ではあった。けれど、その一日の最後の時間だけは、静かな眠りを得られていればいい、今のわたしがそうであるように。
そうぼんやりと、思った。


きっと寝入るのには少し時間が掛かるだろうなぁと想像していたのに反し、あっさりとわたしは眠ってしまったらしかった。
確かに少し、疲れていたのかもしれない。夢も見なかったような気がする。
暫くして気付いた時にはまた、夜の色が薄れ始めた時分の頃だ。


目を開ける。
天井を見る。
上半身を起こす。
部屋の中を見る。
ベッド下に黒いもの……インターセプターが丸くなっているのを知る。


わたしは自分を見下ろした。
どうも寝心地が微妙に良くないと思ったら、服を着たままベッドに入ったらしい。
……寝にくかったんじゃないかな、シャドウさん。まぁそれは、ともかくとして。
わたしが目を覚ましたのに気付いて、インターセプターがむくりと身体を起こす。彼に向かって、わたしは手を差し出した。


「おはよう。……わたしが誰だか、判る?」


言うと、向こうは一声上げてからわたしの手をその舌で舐めた。
──元に、戻っていた。
思わず大きく息を吐く。そうしてから改めて回りを見て、枕元に何かが置かれている事に気付く。
手に取ってみると、ほんの少しの重さが掌の中に沈む。
シャドウさんの懐中時計だ。

一瞬何気なく「開けてみたい」と思う。
けれど、思っただけだった。開ける事はおろか、本来ならわたしが手にするべきものでない事もなんとなく、判っていた。
それより、シャドウさんはまだ眠っているだろうか。それとも目覚めて、今の状況を把握している頃だろうか。
どちらにしても、これを届けに行かなくてはならない。

「よし、シャドウさんのとこに行こっか、インターセプター」

また一つ声を上げて返事をしてくれる彼と連れ立って、わたしは自分の部屋のドアを開けた。






ここから先は、後日談。

「……
「何ですか、シャドウさん」
「ここ数日、リルムが毎日のように俺に菓子ばかりを持ってくるんだが」
「へえ。良かったじゃあないですか。リルム、お菓子作るの上手ですよね。この前のあのクッキー、シャドウさんも食べたでしょう?」

わたしが笑んでそれだけ言うと、シャドウさんは少しの間を置いて、言った。

「…………何をした?」
「え? 何もしてませんけど?」
「…………」

彼は、それ以上は何も言わずに何やら覆面の中で息をついた。

「ああ、そういえば。……シャドウさんからも、セリスに何か言ってくださいよ。最近わたしが朝食当番の時、全然手伝いに来てくれなくなって。 『 前みたいに手伝いに来てよ 』 って言っても 『 だって邪魔したら悪いもの 』 って、そればっかりで」
「…………」

そんな会話をしていると、ずりずりと這うように……というか正に這って、ほふく前進のようにやってきたのはロックである。
顔が青く頬はこけ、げっそりとしている。

………俺に一体何の恨みがあるってんだ…………」
「………何の話?」
「今日のメシだっ!! 何だってあんなにキノコばっかりなんだよ!? 飯から汁物におかず、箸休めまでとことんキノコばっかじゃないかっ」
「だってサマサの村の人達がたくさん譲ってくれたんだもん。新鮮なうちに食べたいじゃない」

そうわたしが答える間にもロックはへたりと顔を床に突っ伏しかける。

「ああ……キノコが俺に襲い掛かってくる……」
「あ、まだ半分くらい在庫あるから、明日も朝昼晩キノコ料理出るからね」

何とか最後の力を振り絞って顔を上げようとしていたロックの頭はゴン、と床に落ちた。それきり暫く動く事は無かった。

「おや、ロックは何故こんなところで寝ているんだい」
「さあ、たまには此処の床板の感触を味わいたいんじゃないんですか?」

さらりとそう返してから、振り返ってぎゃあと思う。

「あ……、エ、エドガーさんどうしたんですか」

言いながらシャドウさんを恐る恐る窺う。今のところは傍目、特に変化はないけれど……。
内心少々ビクつきながらエドガーさんに向き直る。

「いや、君に渡したいものがあってね」
「いえ、あの、もう結構です! この間の事は気にしないで下さい、その……」

わたしがワタワタしつつ言い掛ける。
と。
すぐ傍で静かな黒い波動がふっと発動しかけているのをわたしは感知したため、シャドウさんの腕を引っ掴むと脱兎の如くその場から逃げ出した。
ごめんなさい、エドガーさん。そう心の中で呟きながら。



「……ふう」

わたしはシャドウさんと別れた後、自分の部屋に戻った。
あの一件があって以来、部屋の中は常にきれいに整頓することを心がけてある。
今度いつシャドウさんと入れ替わって部屋を見られても大丈夫なように。……それなのに、なかなか片付かないのは。

「これ、どうしたらいいのかなあ……」

わたしは独り、呟いた。
あの日以来、「わたしの機嫌を何か損ねた」のだと思ったらしいエドガーさんからの、お詫びの花束やら贈り物やらが、室内のほぼ半分方を埋めかけている。
わたしの部屋の中がきれいになるのは、しばらく先になりそうな予感がした。






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