甲板に出ると、風が吹き抜けていく。
身に着けている黒装束がそれになびき、思わず顔を隠しているマスクを外して思いきり空気を吸い込みたくなる。
とても気持ちのいい風だった。
エドガーさんを置き去りに艦内を駆け抜けた後、シャドウさんは部屋に戻っていった。
今日は一日ずっと自室(というか、わたしの部屋なんだけど)から出てこないつもりだろう。
わたしも彼の元に戻って、これからの事を考えたり話したりしないといけない。そう考えていた。
ただ、その前にどうしても外の空気が吸いたくなった。
シャドウさんには「少ししてからそちらに伺います」とだけ伝えて、それからこうして、此処にやって来ている。この場所なら、そうそう誰かに会う確率は高くない。
手動操縦が必要になればセッツァーさんが舵を取りにくるけれど、わたしが居る今この時間にニアミスする可能性はやっぱり低いだろう。それにもし、誰かに遭遇したとしても今のわたしはシャドウさん、言葉少なに応対すれば何事もないはずだ。
わたしは艇の壁のへりに両腕を置いて、風に吹かれながらシャドウさんの事を考えた。
思えば、わたしの方はそういったラクめの対応で済むものの、彼の方は人との接触が大変そうだ。
話し掛けられたりしたら切り返しに難儀しそうだし……。
今日は確か、シャドウさんやわたしが何かに借り出される予定はなかったはずだ。
もし仮に声が掛かったとしても、適当に理由をつけて断れば無理強いされる事もないだろう。
引き篭もっているに越した事はない、彼の方は、特に。
思いながら景色を眺める。雲海と空の薄い青が途切れることなく続いていた。
シャドウさんて、視力いいんだな。
ぽつりとそう思う。視界がすべてクリアで、近いところも遠いところもはっきり見える。
少なくともわたしよりは目がいいようだ。
彼の目には、こんなふうに世界が映ってるんだ。ふと、そんな言葉を自分の中で呟いてみる。
決して霞みがかっていたり色彩が薄れていたりしない。わたしから見えている世界と、何も変わりはしなかった。そんな当たり前のことが何故だか嬉しい事のように感じられて、ふっと嘆息する。
直ぐに緩みかけた顔を引き締めて、それにしても、とわたしは小さく独り言を呟いてみる。
出てくるのはシャドウさんの声で、わたしの声ではない。
……未だに出てくる声が普段と違う事に慣れなくて、やっぱり変な感じだ。
入れ替わってみると、自分の身体との違いというのが際立って見えてくる。
歩いたり走ったりしてみると、シャドウさんの身体は思った以上に動きやすいのが判った。
体重自体はわたしよりはあるだろうけど、不思議とそれを感じない。この甲板へと上がる階段を上った際も、次の一段へと持ち上げる足が軽いものに思えた。筋力がある事を示しているのかもしれない。それに、背が高いことも個人的には気に入っている。
ああ、それに、顔を覆っているこの黒布も、着けてみると然程息苦しくない事が意外と言えば意外だった。
最初こそ気分的には重苦しいような気がしたものの、呼吸自体はまったく問題ない(当たり前と言えば当たり前だけれど)。実は結構、通気性は抜群であるらしい。
その他諸々、色んな面を考慮すれば、シャドウさんの身体は使わせてもらう分には申し分ない。
ただ、それを逆に考えるとどうだろう。
わたしは朝食の仕度をしている時に少しだけ思った事をもう一度考えた。
シャドウさんは、わたしの身体に不自由を感じていないだろうか。
わたしがこの身体で快適さを覚えるという事は、シャドウさんの方はそうではないという可能性が高い気が、する。
今朝方、「目を覚ましたばかりの彼」というのを想像してみる。
朝起きた時にわたしが自分の異変に困ったのと同じように、シャドウさんの方も困っただろうなぁ、と思う。いや、困ってるシャドウさんて想像し難いけど。
やっぱり無言で 「……」 なふき出しを空中に飛ばしながら、それなり冷静に事態把握に徹したんだろうか。
彼の場合、そういう予想図しか出てこないのだけれど。しかし。
自分がわたしの姿になっているって気付いた時、どんな気持ちだったろうか。
──そういえばわたし、部屋の掃除、ちゃんとしてあったかな。
わ、やだな。シャドウさんにモロに見られてしまった。
こうなるって判っていたら、ちゃんと整理整頓しておいたのに。服だってキッチリ畳んでおいたのに。
……服。シャドウさん、ちゃんと着てくれてたなあ。当たり前だけど。
ていうことは当然ながら着替えをしてくれたワケで……ああ、いやいやいや、そこは流そう。敢えてスルー。強制スルー。考えるなわたし。
悶々としていると、折角の気持ちいい風と景色が台無しになりそうになる。
わたしは頭を振ると、もう一度空を見やった。何気に結構時間が経ってしまったような気がする。
気持ちを新たにして、そうしてそれから、シャドウさんのところへ戻ろう。そう思いながら、目を遥か彼方の方向へとやった。
何か黒い点のようなものが、視野に入った。
?
疑問符が頭に浮かぶうちに、どんどん其れは大きくなる。こちらに向かって来ている?
わたしはぎょっとした。
それが近付いてくるあまりの速さに驚愕する。速い。下の皆に伝えに行くのにはとても間に合わない。
焦った。
そうこうしているうちに、その未確認飛行物体はあっという間に目の前に迫ってくる。
現れたそれは、竜のような姿の異形のモンスターだった。
取り敢えず、もう一回くらい焦っておこうかと思う。
わたしは改めて焦った。
どう見積もっても見た目、中ボスクラスである。
今このブリッジにはわたしだけ。一人で戦うのには少し、いやかなりというか激しく厳しい。
しかもまだ慣れないシャドウさんの身体という状況。大変よろしくない。などといっている場合ではない。
わたしはモンスターと向き合った。
こちらが動くのは攻撃か防御に値する行動のみ。それしか今は出来ない。大声で誰かを呼ばずともこの大きな気配は伝わる者には伝わるはずだ。
さて、ひとまずやっぱりリレイズしておいた方が良さそうだが、そこから先どう持って行くか。
誰かが気付いて駆けつけて来てくれるまで持てばいいのだけれど──
ジリ、と構えを取ろうとしたところで急に向こうは攻撃を放ってきた。
奇怪な叫び声のようなそれが耳に突き刺さったのを認識した瞬間、わたしの目の前に現れたのはぼろきれを纏った骸骨だ。
抱えている身の丈ほどもある大鎌がギラリと鈍く光った。
ちょ、いきなり 『 デス 』 とかひどい!
完全に初見殺しだ。あと数秒の時間があれば昨日のアレクソウルの時のようにギリギリで発動出来るのに、今からじゃリレイズはとても間に合わない!
思わず飛び退るが、意味は無い。死神は何の表情も無いまま、あっさりと鎌を振り下ろそうとした。
が。
瞬間、ピィンと高い音がして身の回りに障壁のようなものが出来る。
下ろされた鎌はその壁に当たるとガラスのように粉々に砕け散り、死神もまた同じように散り姿を消した。
何が起こったか直ぐには判らない。
ただふと見下ろした手、手袋の下に嵌っている一つの指輪が微かにチリ、と熱く感じられた。
……これのおかげ、だろうか?
考える暇も無く、デスが不発と理解したらしいモンスターは次の攻撃をしてきた。
ざあと強い風音と共に、何か空気の刃のようなものが投げ付けられる。エアロガらしいが、当たったらさぞかし痛いに違いない。
冗談じゃない。わたしは避けようとして、跳躍した。
次の瞬間、信じられないくらいの高さまでジャンプしている自分に驚く。
驚いてから「そういえばシャドウさんの身体なんだった」と気付くけれど、少し遅かった。
彼の身体に慣れていないわたしは、着地が上手く出来ずに甲板の上に尻餅をついた。
肌を切り裂くような風が再び舞い、体勢を崩していたわたしは為す術もなく床の上を転がってしまう。
起き上がった時にはあちこちに痛みを感じていたけれど、とにかく、起き上がった。思った以上に向こうは素早い。
このままでは駄目だ。このままじゃやられる。このままじゃ……
「!!」
ハッと声の方を見ると、シャドウさんがいつの間にかブリッジに駆け上がって来ていた。
彼は敵を認めると、何処からか取り出した其れをいち早く一気に広げた。
中に封じられていた術が、シャドウさんの声(実際にはわたしの声だけど)と共に発動する。
「火遁!!」
巻物から出る炎は、何処にそれだけの力があったのかと思えるほど大きなものになってモンスターに襲い掛かった。
シャドウさんが居れば何とか倒せるかもしれない。
そう考えた瞬間、ヌル、と何か温みのあるものが手の皮膚に感じられた。
わたしはそこを見やる。ゆるゆると流れ出すその感覚。
腕に切り傷がいつの間にかあって、そこから出血している。
さっき風を受けた時のエアロガだろうか。とにかく……血だ。借り物の黒装束が、ゆっくりと湿った色に染まっていく。
血だ。──血だ。
液体の赤が滲み、やがて指の先からぽたりと床板に滴った。
わたしはそれを認識した瞬間、急に強く痛み出したその傷よりも何よりも、腹の底から沸き上がるような怒りでブチ切れそうになった。
シャドウさんの身体に傷を付けやがった!!
わたしは激昂した。
そしてそれは、他ならぬ自分自身に対してだった。
彼の身体を借りている身だというのに、わたしはその身体に傷を付けてしまった。
シャドウさんの血を流れさせてしまった。その事がどうしようもなく悔しくて腹立たしくて、そして悲しかった。
詠唱するのももどかしく、わたしは自分自身の出せる全ての力を込めて、それをぶつけた。
「ファ イ ガッ!!!」
火遁に加えての炎が空中で盛大に炎上し、上空がぱあっと赤く染まった。
膨れ上がった風圧がわたし達に叩きつけられる。
飛空艇も揺れるほどのそれがようやく収まった時には、もうもうと舞う煙の中にモンスターの姿はなくなっていた。
既に、他にも何人か仲間たちが甲板に集まり始めている。
シャドウさんがこちらに来る前に、わたしは腕の傷に回復魔法を施した。
傷痕もきれいに消えてなくなったけれど、自分の不甲斐なさにわたしは相当にヘコんでいた。
わたしがもっと強ければ、しっかりしていれば、彼の血を流す事なんてなかったのに。
「無事か、」
「…………」
わたしはシャドウさんの顔を見る事が出来なかった。
顔向け出来ないと言うのはこの事だ。どの面下げて彼の前に居れば良いのか皆目、見当がつかない。
「シャドウさん」
わたしは小声で、彼にだけ聞こえる声で、言った。
「ごめんなさい。……ごめん、なさい」
繰り返して、それだけ言った。それ以上は口に出来なかった。
如何に傷が消えていても、血糊の残る腕が負傷した事実を伝えている。
今は入れ替わっているせいでわたしの方が幾分背が高い。縮こまる思いでわたしはシャドウさんに深く頭を下げた。
シャドウさんはわたしを見上げていたけれど、傍らの小さな荷袋の中から出した布でわたしの腕の血を拭った。
そして、彼もまた小さな声で、何かを呟いた。
「──」
「……?」
わたしは言葉が聞き取れなかったので顔を少し上げる。
彼は、何と言ったのだろう。訊ねるように彼を伺う。シャドウさんは黙ってわたしをもう一度見上げた。
再び彼の口が開かれそうになったそこに、何人か下から上がってきていた仲間が声を掛けてくる。
「、シャドウ、さっきのデカい魔物は……」
倒した事を告げると、その中でセッツァーさんがこちらを見て口を開く。
「なあ、シャドウ。さっき確かファイガ使ってたの、お前だよな。もう習得してたのか? 確か今使えるのはとティナだけだった気がしてたんだが」
「……まぐれだ」
一言ボソリと返す。「そういうのって、まぐれってあんのか……?」とセッツァーさんは頭を捻っている。
ギャンブラーはなかなか観察眼が鋭い、気をつけなくては。
などと思っていると、不意に甲板の片隅に何か光を反射するものが落ちているのに気付く。
気になって近付き、拾い上げる。魔石だった。あのモンスターが持っていたものだろうか。
握ってみると、今まで手にした魔石の中でも特に強い力を感じる。
……これがあれば、もっと強くなれるだろうか。
いや、魔法だけに頼っているのではいけない。もっと自分自身が強くならなければ。守られるのではなく、わたしが守る側になる。それぐらい、強くならなくては。
わたしは手にした魔石をぎゅっと固く、握り締めた。
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