最初に気付いたのは、誰かが蹲っているという事でした。
学生服のズボンに、半袖のワイシャツ。僕と同じ、学校の生徒の男子です。
彼は膝を抱え、そこに顔を埋めていました。切り揃えられた前髪が、交差する両腕の上にパラッと掛かっています。
目に焼き付いたのは、その腕の白さでした。
そこに掛かる黒髪とは対照的に、白磁のような色を持っています。なんて病的なまでの白さなのでしょうか。
僕は立ち尽くしたまま、ただ目の前の人物を見下ろしています。
身じろぎひとつしない彼は、自分の知っている誰かにひどく似ているような気がしました。
沈黙を守りながら座り込んでいる彼は、ただ静かに其処に佇んでいるのです。
僕と、彼しかいませんでした。この空間には。
自分達の他には音も色も光もないかのような不思議な場所に、いつしか自分は存在していました。
夢?
……そうですね。夢であったなら。
いえ、夢であってほしいと、その時の僕も思いました。願ったと言ってもいいでしょう。
彼の姿は、自分の中にあった一つの記憶を刺激し、そしてそれは僕の心臓をドンと強く叩いたのです。
今思えば、この時すでに、僕は目の前の人物が誰なのかを解っていたのでしょう。そして其れが、何を意味するのかも。
だから、僕は無意識に何も気付かない振りをしました。
これは夢で、きっと直ぐに自分は目覚めるのだと信じました。そう、何の意味も為さないただの夢。
これから自分は此処を抜け出し、ゆっくりと緩慢な目覚めを迎えるのです。
見慣れた天井の木目、鳴り続けている目覚まし時計の規則的な電子音、ベッドに残る眠りと温もりの残滓、窓から差し込んでくるやわらかな朝の陽の光。
全てがきっと、いつもと変わらず自分を受け入れてくれる筈でした。
だから僕は、何も気付かない振りをしてこのまま目を覚ましたいと願い、意識を無理矢理にこじ開けようとしました。
……けれど、駄目でした。
躊躇する事なくそれを願えば、僕はこの夢を振り払う事が出来たかもしれません。
なのに、僕の中に一瞬、躊躇いが生じてしまったのです。
……どうしてかなんて、解りません。
その時 僕はもうこの夢に、……いえ、この世界に引き寄せられていたのかもしれません。
それを証明するかのように、そして同時に、やっと僕の気配に気がついたかのように、目の前の誰かはゆっくりと顔を持ち上げました。
彼は、僕自身でした。
――またか!
僕は自分の背に、ドッと汗が噴き出すのを感じました。
急激な寒気に眩暈がしそうです。
一時に、蓋をしていた幾つもの記憶の断片が、目まぐるしく頭の中を行き交い溢れ出しそうになります。
歪み狂ったあの世界を、その世界のもうひとりの自分を。僕は前に見ていましたから。
身勝手な自分を、その世界に巻き込んでしまった大切な人のことを。僕は鮮明に覚えていましたから。
僕には、わかってしまったのです。目の前に存在するこの荒井昭二が、また違った別の世界の自分である事を。
故に、僕は恐れました。
今そこで蹲る彼が、そして彼の織り成す世界がまた狂ったものである事を恐れ、危惧を覚えずにはいられなかったのです。
無意識に身構えます。これから何が起こるのかなど、見当もつかないことでした。
彼が、目の前の僕が、一体どのような人物なのかもわからないのです。
僕は、もうひとりの僕の事を警戒し、待ち受けようとしました。
……けれど、そうする必要はありませんでした。
彼は、ただ静かに此方を見上げています。
その目に宿る光の、なんて虚ろで弱々しいことでしょうか。
其処に、僕が予想した負の感情に塗りたくられた色は、何一つ含まれていなかったのです。
その事に一瞬、毒気を抜かれたような気分になります。
けれど油断は出来ません。僕は彼の事を、まだ何一つ知らないのですから。
そう思った時、不意に、向こうが口を開きました。充分な息が出てこないかのように、ひどくか細い声でした。
「……どうして、こんなところに来てしまったんですか」
「気が付いたら、此処にいたんです」
僕は、そう答えました。
(自分相手なのですから丁寧語でなくてもいいように思いましたが、あちらのやり方に自然と合わせていました)
答えながら、僕は内心首を傾げます。
其処に居る自分は、以前出会ったあの、歪んだ僕とはまるで違うのです。
その性格はまだ詳しくはわかりかねますが、姿は何処か憔悴したように疲れ果てた印象を受けます。
僕は、疑問を覚えました。
どうして同じ自分である筈なのに、皆こんなにも違うのでしょう。
どうして僕は、こうして別の世界の自分に二度も出会ってしまったのでしょう。
そんな僕の胸の内を読み取ったかのように、彼は徐に続けました。
「……貴方にとって別の世界に足を踏み入れるのは、今回が初めてではないのですね」
「何故、それを……?」
「此処にこうして長いこと居ると、いろいろ解ることもあるんですよ」
そう言って、向こうは微かに表情を和らげました。
笑っていたのでしょうが、ひどく寂そうな、悲しそうな笑い方に見えます。
それも気に掛かりましたが、 『 此処 』 とは一体何の事なのでしょう。
わからない事ばかりが増えていきますが、僅かな間をおいて彼は再度、声を発しました。
「――あの。幾つか、訊いてもいいでしょうか」
「……どうぞ」
僕があの忌まわしい殺人クラブの世界を見てきた事を、彼は既に知っているようでした。
けれど、全てを解しているわけでもないのでしょう。
僕も向こうの事をまだよく知りませんでしたから。其れを紐解くためにも、質問を受ける事にしたのです。
彼は、少し躊躇したかのようでしたが、それでも問いました。
「そちらの世界での貴方の家族は、皆、元気でやっていますか?」 と。何という事はない質問です。
肯き、直ぐに僕は答えました。
「ええ……皆、それなりに。父も母も、それから兄も」
「……そちらでは、貴方に兄がいるのですね」
「この世界では、違うのですか?」
僕は訊ね返しました。
以前の世界では、僕は知っている人達が皆、大きくその性格を変え豹変しているのを目の当たりにしました。
けれど、それ以外に違う部分があるかどうかなど確かめる術もありませんでしたし、そもそも考えもしなかったのです。
家族構成までもが、もしや別の世界では違っている?
彼は静かな声で、とうとうとその答えを告げました。
「確かに僕にも兄はいたようですが、生まれる前に流産してしまったと聞いています。……母も、僕が七つの頃に亡くなりました。僕の家には、父さんと僕しか居ないんです。―――――貴方の世界は、そうではないんですね」
彼の目が伏せられます。
感情の読み取れない細く消え入りそうな声は、語尾が微かに震えていました。
僕は急に、うすら寒いような気分になってきました。
以前の世界もこの世界も、自分が知るのとは確実に異なった並行世界のようです。一体その分岐点は何処にあるのでしょう。
……考えても、解る筈もありません。
僕は、いつしか自分が活路を見出す事の叶わない、出口のない迷路に投げ出されたような気がしてゾッとしたのです。
そんな事を思ううちに、蹲ったままの彼は再び顔を上げます。
僕は、目を合わせたくありませんでした。どんな顔で彼を見返せばいいのか判らなかったのです。けれど。
「良かった」、という声が聞こえた気がして、僕は耳を疑いました。
見れば、思い浮かべたものとは違う別の感情が、もう一人の僕の中にありました。
彼は、心から安堵したように微笑んでいたのです。そしてもう一度同じ言葉を繰り返し、続けました。
「良かった。……貴方は、そちらの世界でしあわせなんですね」
返す言葉もないまま、僕はただ自分を見つめていました。
今回のこのもう一人の僕は、ひどく穏やかな性質のようです。
もし立場が逆であったなら、僕は相手に対し、羨望や嫉妬の類を抱いたかもしれないのに……。
そんな僕の思いを知らない彼は、柔らかく目を細めています。
心の中で僕は頭を振り、考えていた事を無理矢理に隅の方に追いやりました。更なる問いかけが、僕に向けられていたからです。
その名前はごく自然に、彼の口から零れ出ました。
「さんは、お元気ですか」
「ええ、……もう数週間前に実習を終えて大学に戻られましたが、元気そうです。先日、手紙を頂きましたよ。時間があれば、文化祭に来たいと書かれていました」
きっと、この世界の僕もさんを慕っているのでしょう。
僕はありのままを伝えたのですが、彼は一瞬だけ不思議そうに、けれど直ぐに何か納得したように肯きました。
「ああ、そうですよね。……さんは大学生でしたね」 。
そんな事を呟く様に言う彼を、僕は訝りました。こちらでの彼女は、そうではないというのでしょうか。
「どういう事です? ……! まさか、この世界でのあの人に何か……!」
語気が自然強まる僕に対し、彼はゆっくりと頭を振ります。
いいえ、と呟くように言葉は繋がり、そっと懐かしむように改めてその人の名を辿りました。
「こちらでも、さんは元気でいますよ。少なくとも、最後にその姿を見た時までは」
「……………」
僕は、何を最初に問うべきかわかりませんでした。
目の前にいる自分は、やはり何処かしらおかしいように思えてならなかったのです。
此処がどんな世界なのか、まだ何も知り得ません。けれど、何故か胸騒ぎがしてならなかったのです。
ふと見れば、ずっと蹲ったままだったもう一人の自分は、いつの間にか立ち上がっていました。
其処にあった柔らかな笑みは消えています。ひどく辛そうな顔をしていました。
同時に、何かを決意したように、強い意志さえ感じられる顔をしていました。
「貴方に、お願いがあります」
言葉が、投げ掛けられました。その続きを僕は待ち受け、受け取ります。
「どうか、力を貸してください。……もう、僕には何の術もありません。ただ見守る事しか出来ないのです。僕は…………、僕は、あの人を助けたいんです、だから、どうか……!」
「あの人? 一体どういう事なんです、この世界では何が起きているんですか? それに、もう術はないというのは……」
「…………だって、僕はもう――」
薄く伏せられた目蓋を見て、僕は息を飲みました。
目の前の自分は、まるでその姿を水に溶かし込んだかのように、身体が薄く透けていたのです。
揺らめく様な一瞬の間、その目蓋が再び開かれた時には彼の身体は元通りになったように見えましたけれど。
静かに僕は、この世界の僕の事をようやくひとつ、知ったのです。
絞り出されるようだった先程の言葉の続きは、ぽつりと、呟きにも似た響きで紡がれました。
「死んでしまったんです。もう、十年以上も前に」
遠くから、力いっぱいに鳴く蝉達の声。
気付けば、僕たちはあの色のない空間から抜け出していました。
周囲を見回します。何処かで見掛けたような室内でした。
少し余裕のある間取り、机と応接用らしいソファにテーブル、いくつかの戸棚に洋服ダンス。
壁掛けの時計がカタンと音を立て、新たな時間を刻みました。
「此処は……」
「見覚えは、ありませんか」
「…………校長室、ですね」
僕が言うと、この世界の僕は小さく肯きました。
その目は遠く、窓の向こうを見ています。
日差しは既に高く、外には夏の白い陽光が降り注いでいました。
空は青く、校庭に植えられた木々の緑が煌めきます。鮮やかな色が、そこに溢れていました。
「どうして、こんな所に出てしまったんでしょうか」
「…………」
訊ねる意味を込めてそう言ってみたのですが、彼は微かに目を伏せるだけでした。
答えたくないわけではなく、最初の言葉が見つからないだけだったのかもしれません。
僕は其れを促すわけでもなく、そっと辺りを見回しました。
鳴き続けている蝉の声だけが相変わらず耳に届いていましたが、それ以外は寂として、音というものがほとんどありません。
窓の外、此処から見えるだけでも校庭には人一人見つけられませんでしたし、授業中であれば聞こえてくる筈の、何処かのクラスの朗読や体育での掛け声といったものは、何一つ聞き取る事が出来ないのです。
今が何月の何日なのか、正確なところは判りませんが、夏休みなのでしょうか。
校内全体がシンとしていて、それが却って、何か悪い事の前触れであるかのように思えてなりませんでした。
「……静かすぎて、怖いくらいですね」
「もうじき、静かではなくなりますよ。何人か、此処にやって来る筈ですから」
彼は、目を再び窓の外にやりながらそう言いました。
その先を追っても、人らしい姿は何処にも見当たりませんでしたが。
僕は、改めてこちらの世界の僕を見据えました。
その身体は今、実体があるかのように見えるのですが、彼の姿は他の人にはどのように映るのでしょう。
僕は疑問に思いました。訊ねると、「自分は、普通の人には見えない」のだと言います。
「では、僕はどうなのでしょうか」
「……貴方の事も、おそらく皆には見えないでしょう。貴方の身体は、そちらの世界にありますから」
つまり、今の僕は精神だけが、此処へとやって来ているという事なのでしょうか。
(それにしては、寒暖を感じたり汗をかいたりする事が出来るように思うのですが)(まあ、其れも、そんな気がするだけなのかもしれませんが)
僕は、以前の殺人クラブの世界を思い返します。
あの時の自分は、 「これは夢なのだ」 と最初思っていて、そしてあの世界の僕の視点を見ていました。
あれは、向こうの自分の身体を半分借りていたからなのだろうと解釈します。
こちらでもそう出来れば良かったのでしょうが、それは無理な相談でした。
目の前の自分には、既に身体がありませんでしたから。
「――どうして、貴方は亡くなったのですか」
「脳溢血です。……丁度、今頃の季節でした。夏休みに入って、友達と一緒に街に出かけて……その帰りに倒れたんです」
「…………」
「最初は、自分が死んだことに気が付きませんでした。いつも通りに自分の部屋で目覚めて、朝食の準備をしなくてはと思ったのを覚えています。休みの間は、僕が食事の用意をする決まりでしたから。……でも、自室から一階に下りた時、何かおかしいというのが判りました。父さんに何度声を掛けても、返事をしてくれませんでしたし。……客間に棺が置かれていて、その中に横たわっているのが自分だとわかった時、ようやく気付いたんです。僕は死んでしまったんだって」
もう十数年前の話です、と彼は言いました。
「僕は、その事実を受け入れました。……いろいろと、やり残した事は勿論ありました。友人達ともっと思い出を作りたかった、まだ出会ったばかりだったさんとたくさん話をしたかった。何より、父さんを置いていってしまう事を申し訳なく思いました。――皆と、もっと一緒に居たかった」
静かに話す彼の言葉を、僕は黙って聞いていました。
僕の世界とこの世界で、どんな点が相違しているのか。それはまだ、正確には把握しかねます。
けれどひとまず其れはさておき、彼がさんと既に出会っている事を考えます。
時間軸で言うなら、丁度今の僕が過ごしている時間、高二の夏に彼は亡くなったのでしょう。
そしてそれから十数年の時が、こちらでは流れているという事です。
友人達は既に社会人となり、さんは僕の知らない時間を歩み、父は家の中で長い時間を過ごしてきた事になります。
それも、たった独りきりで。
僕は、胸が締め付けられるような思いがしました。しかし、
「……何故、貴方は未だにこの場所に留まり続けているのですか」
僕は、訝りを言葉に出さずにはいられませんでした。
彼の言う事を信じるなら、未練はあったにせよ彼は死を受け入れている筈でした。
自縛霊のように此処に居続ける理由などないというのに、十年以上もの時が流れてなお、どうして彼は、この場所に身を置き続けているのでしょう。
向こうは、そっとその口を開きました。
「それは」、と次の声が繋がろうというその時、不意に出入り口のドアが開かれたのです。
僕はドキッとしましたが、そこからそっと身を滑り込ませてきた訪問者の顔を見て、思わず声を上げていました。
「坂上……君……!?」
後ろ手に静かにドアを閉め、辺りを窺っているその男子生徒は見覚えのあるものでした。
日野さんに頼まれて赴いた新聞部の部室、集められた六人、旧校舎を取り壊すにあたってのとある企画、その取材者として現れた一人の一年生。
それは紛れもなく坂上君という、最近知り合ったばかりの後輩だったのです。
しかし、その容貌は目を疑うようなものでした。
僕の知る彼の面影は確かに残っているのですが、まるで幽霊のように生気が感じられなくなっているのです。
顔は青いのを通り越して白く、身体は痩せこけ、元からであるらしい癖の強い黒髪はひどく乱れボサボサでした。
光の乏しいその目がどろんと泳ぎ、こちらを一瞥したように思います。けれどやはり、僕やもうひとりの僕の事は見えないようです。
坂上君はキョロキョロと何かを探すように部屋の中を調べ始めました。
その動作も力が入らないように緩慢で、よろよろと危なっかしくて仕方ありません。
僕は半ば呆然として、その挙動を見つめていました。
「一体……どうしたって言うんですか、坂上君……」
「彼は、最後のひとりなんです」
静かな声が、その場に響きました。
坂上君には言葉も届かないらしく、ただ両足を引き摺るようにして歩き回っています。
もうひとりの僕と彼がぶつかりましたが、その身体はスッとすり抜け、どちらも何事もなかったかのように其処に存在していました。
「最後?」
「ええ。――貴方も、坂上君と面識はあるんですね?」
「七不思議の集会で、初めて会いました。その後も会えば、少し話すことはありましたが……」
「貴方は、集会に招かれたのですね」
「そうです。それが何か……?」
「……僕も、そうやって普通に出会えていれば良かったのですが」
目の前の僕は、またあの辛そうな顔をしました。
その視線は坂上君に向けられています。
丁度、机を探ろうとしていた彼を静かに見守るその顔、其処にあるのが何という感情なのか、僕にはまだそれを掴みきる事が叶いませんでした。
「全てを、話してください」
僕が言うと、この世界の僕はこちらをそっと捉えました。
「こちらで、何があったのかを教えてください。今、此処では何が起こっているんですか」
「……始まりは、僕が死んだ時からでした」
鍵の掛かっているらしい机の引き出しを坂上君がガタガタやっていましたが、それを背後にしながら彼は語り始めました。
彼は、自分が死んだことを悟ってから少しの間だけ、家の中に留まっていたと言います。
独りぼっちになってしまった父を心配しての事だったということ。
それから、生きていた時と同じように、夜になってから床に就いたということ。
自分がどうすればいいのか判らなかったものの、そうすれば目覚めた時には、自分が次に行くべき場所へ行けるような気がしたそうです。
「……けれど、そうはならなかったんです」
彼がそう言った直後、ガシャンと硝子の砕ける音が響きました。
見れば、坂上君が震えながら床の上のポートレートを見つめています。机の上にあったものを落としてしまったようでした。
何を見てそんなに戦いているのかと思い、僕はそれを覗き込みます。
其処にあったのは見覚えある写真でした。
僕がこの高校に入学した際に記念に撮った一枚で、父と一緒に写ったものです。
こちらの世界の僕も、まったく同じものを撮ってもらっていたのでしょう。
「父は、僕のことをずっと忘れられないでいました」
印画紙の中のその人を見つめながら、彼はぽつりと呟きました。
そして、ふと気になったとでも言うように此方を見やると、
「そちらの世界でも、貴方のお父さんはこの学校の校長ですか?」 と訊ねてきたのです。
僕は小さく、肯きました。
……内緒ですよ。実際に僕の父は、あの学校の校長を務めているのですから。
言う必要もありませんので、皆には特に公にしていませんけれどね。
向こうは微かに顎を引くと、質問の意図を明かす事もないまま、視線を坂上君に移しました。
いつの間にか坂上君は、引き出しの奥から引っ張り出したものを広げています。
厚めの、長く使われているらしい装丁のそれは、どうやら日記帳のようでした。
「あの中に、父はたくさんの事を綴ってきたようです。あれを見れば、此処で何が起きているのかをわかってもらえると思います」 。
もうひとりの僕がそう言うのを受けて、僕は坂上君の隣に立とうとしました。
「貴方には、辛い思いをさせてしまうかもしれません」
彼が僅かな間を置いてそう続けたので、僕はふと動きを止めます。
更に向こうは続けました。
「この世界で、父がどのような行いをしてきたか、それを垣間見ることになりますから。……貴方は、それがどのような事でも耐えられますか」
「ここまで来ておいて、今更そんな事を言うんですか? そんなの、ずるいですよ」
僕は、少しばかり意地悪く言葉を返していました。
彼としては、本来関わる筈のない別の世界の僕を巻き込もうとしていること、其れを申し訳なく思っての改めての言葉だったのでしょう。
けれど、今の僕にとってそんなものは不要でした。
まだ記憶に新しい、かつて見た忌まわしい世界を僕は思います。自分が、大切な人をそこに置いてきてしまった事を思います。
例え違う世界であっても、僕はもう、後悔するような真似などしたくはない。
そう思っていましたから、それを伝えるつもりで彼を見返します。
もうひとりの僕は、僅かに微笑みました。
「……その言い草。やっぱり、世界は違っていても貴方は僕なのですね」
「そうでしょうか。貴方は僕などよりよっぽど穏やかそうですが? 嫌味の一つさえ、言いそうにないように見えますよ」
「さあ、どうでしょう……」
僕たちはほんの幾ばくか、互いを見つめ合いました。
すぐ傍で、坂上君はページを繰り始めています。ふと、その手が止まったので、僕はその頁を覗き込みました。
こちらの僕を失ってから綴られた父の記録は、悲しみに満ちたものでした。
しかし同時に、そこに記されていた内容は俄かには信じがたく、背筋がゾッとするような恐ろしいものを含んでいたのです。
僕は、直ぐにはそれを信じることが出来ませんでした。
「そんな…………」
思わず呻き声をあげた時、校長室のドアノブが静かに音を立てました。
ビクリと反応する坂上君と同じタイミングで、僕はそちらを振り返ります。
ゆっくり開かれた扉、そこに現れたのはこの部屋の主であり、こちらでの僕の父です。
僕のよく知る父とやはり同じ顔をしていましたが、しかし、何処かしら老いを感じさせる印象です。
それが長い間、辛い思いを重ねてきた証なのかと思うと胸がズキリと痛みました。
けれど、その痛みに浸っている暇さえ僕には与えられなかったのです。
凝固したかのように動きを止めていた坂上君を見て父は嗤い、ようこそ 、と口にしました。
その声も視線も、決してあたたかな温度など持ち合わせてはいません。
そんな父の様子にもいささかショックでしたが、事態はなお、僕を混乱へと追い詰めました。
父は、坂上君に向けた声色とは逆に、優しい言葉を廊下に向かって投げ掛けたのです。
次の瞬間、僕は愕然としました。
「さあ。遠慮せずに、此方にどうぞ」
声を掛けられた相手は小さく返事をして、その姿を現します。
僕は発する言葉さえ無く、その人を呆然と見つめました。
こちらの世界のさんは、静かにその視線をこちらに投げ掛けていました。
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