「……校長先生」
「さんっ……!?」
坂上君の呟きに、僕の驚愕の声が重なりました。
現れたのは、見紛う筈もないさんの姿だったのです。
実習生として此処を訪れた時から十数年の時が経過しているというのに、その人の造作は然程変わりありませんでした。
髪の長さや着ているものをそのまま僕の記憶と同じにしたなら、僕の知る彼女とほとんど大差はないでしょう。
けれど何故、今、この人がこの場に居合わせているのか。
僕にはそれを理解する事が出来ず、ただ呆然と立ち尽くすばかりだったのです。
「さんと父が初めて顔を合わせたのは、僕が死んでから一月ほど経った頃でした」
こちらの世界の僕が、そっと目の前にいるその人を見つめます。
さんは父に促され室内に足を踏み入れましたが、他に先客がいることを全く知らなかったようです。
坂上君の存在に気付くと、その風貌に思わず身を固くした様子でした。それを何故か、父が安心させるように手で制しています。
この世界の僕の言葉が、続いていました。
「実習を終えて大学に戻られたさんと僕は、何度か、手紙のやり取りをしていました。……父が、僕の死後も届き続ける彼女の手紙に気付いて、さんに僕のことを知らせたんです。すぐに、彼女は駆けつけて来てくれました」
つい先程目を通したばかりの父の日記を、僕は振り返ります。
そこにはほんの何度か、彼女の名が現れる事があったのです。
墓参りを案内した時のことや、その後のこと。わざわざ遠くから足を運んでくださった事へ対する礼状と、さんからの返事。
普通であればそこで途絶えていたであろう父と彼女の繋がりです。
しかし驚くべきことに、彼らの交流はか細いものながら、今なお続けられていたというのです。
「……僕にも、その経緯について詳しくはわかりません。僕はずっと父の元にいたわけではありませんから……」
一度だけ目を瞬くと、彼は僅かに言葉を詰まらせました。
それでも義務付けられたかのように、語るのを放棄する事はありませんでした。
「糸のように細い、切れてしまいそうな二人の繋がりだったようです。……でもそれは、今日という日のために父が準備したものだったんです」
「今日?」
「―― 最後の人形の生贄が、捧げられる日です」
こちらの世界の僕は、坂上君を見て言いました。
相変わらずの白い顔、其処に浮かぶ歯噛みの表情で、坂上君は父を睨んでいます。
そんな視線を受けてもにこやかに笑う父は、既に僕の知る父さんとは違う人のように思えました。
「もしかしたら、そろそろ来るかもしれないと思っていたよ」
父は、僕の父と同じ声でそう発しました。
「生贄になった連中の何人かは、死ぬ間際にこの校長室に忍び込む。だから、私は待つことにしたんだ……」
「……あの、校長先生……?」
事態がまったく呑み込めないらしいさんが戸惑ったように訊ねかけていましたが、やんわりと父はそれを宥めました。
「もうすぐなんだ。もうすぐ昭二と会えるから、少しだけ待っていてもらえないかな、さん」
「でも、荒井くんは……もう……」
「悪魔との契約に、成功したんだよ」
そう言い切った父の言葉に、思わず息を呑みます。
日記に綴られていた内容が脳裏をよぎり、僕は息をするのも忘れて父を凝視しました。
別の世界の父さんの、その眼差しの中にある暗い歓喜は、密やかな狂気の光は、一体いつから其処に在ったのでしょうか。
さんもその事に気付いたように顔を強張らせ、思わず一歩後退ります。
父は、構わず続けていました。
「毎年一人ずつ子供の魂を捧げれば、十三年経った時、昭二を模った人形に魂が宿って、昭二は甦ることが出来る。……そして今年は、丁度その最後の年なんだよ」
父の目は、やわらかに細められある一点を見つめていました。
ふと、その視線が坂上君に移されます。
微かに震えている彼を見る目は変わらず笑んでいて、僕はこの世界の父が、既に正気ではない事を知ったのです。
そしていつの間にかその手には、何処から取り出したのかゴルフクラブが握られていました。
僕もさんも坂上君も凍りつきました。一刹那、時間が止まったような感覚さえ覚えます。
「父は、この学校に入学した生徒の中から一人ずつ、生け贄を捧げ続けてきました」
ただ一人、こちらの世界の僕だけが、彼の言葉だけが淡々としていて、何処までも流れていくようでした。
「……僕の部屋を少しだけ整理した時に、父さんはたまたま、僕の日記を見つけてしまったんです。その時に、僕がさんを慕っていたのを知って…………」
「そして、貴方が生き返った暁には、さんとも再会出来るように……?」
続きとなるその先を繋げると、彼は顔を伏せ肯きました。
その直ぐ傍で、父はゴルフクラブを振り上げています。
細い銀のフォルムが伸び、白い光を鈍く反射させたそれは今にも振り下ろされんばかりです。
そしてその矛先は、人形の生贄だという坂上君に他なりませんでした。
「怖いことは何もないんだ。お前が死んでも、すぐに生まれ変われるのだから……」
「そんな……僕は僕だ! 死んでたまるか!!」
生気のない様子からは想像がつかない程の声量で、坂上君は叫びました。
構わず父がクラブを振るのを何とかかわしながらも、その脚は今にも崩れ落ちそうです。
「止めてください! 校長先生!!」
眼前の光景に思わず叫ぶさんに向かって、しかし父は優しく微笑んでいました。
「もうすぐ、会えるぞ…………昭二」
「荒井くんはこんな事望みません!! 止めてください!」
さんがそう続けていましたが、父には聞こえていないようでした。
そうしてまた二度、三度と凶器は振り回されます。
実体はない筈の僕たち、それでも父の傍に立つもう一人の僕の髪が、風圧で揺れたように見えました。
それでも尚、彼はただジッと立ち尽くしているだけなのです。
僕は思わずその肩を掴みます。精神体同士だと触れ合えるらしく、僕の手は透けることなく彼を捕らえていました。
「どうしてそんな冷静でいられるんですか!? 早くどうにかしなければ、このままでは皆……!」
「届かないんです」
「え?」
「……父に、何度も伝えようとしたんです。誰も殺さないでほしいと。父にこれ以上罪を重ねてほしくないと。僕はもう休みたいと。
…………でも、父に、声が届かないんです。何度も、人形の生贄の儀式を止めさせようとしました。
生贄となる人達にも、それを伝えようと…………。坂上君にも……。
七不思議の集会に、僕はこっそりと参加して……人形の話をしたんです。父を止めてほしかったんです。
もし、彼が本当に生贄になってしまったら……僕は…………」
顔を伏せ、そこまでを途切れ途切れに言う彼の向こうで、父のゴルフクラブは再び振り下ろされようとしています。
不意に、この世界の僕が顔を上げるのを見て、思わず息を呑みました。
その目からは涙がボロボロとこぼれ落ちていたのです。
今までずっと其れを塞き止めていた何かが決壊したかのように、後から後からそれは溢れ続けています。
突然、彼は父の前に躍り出たかと思うと、流れる涙もそのままに絶叫します。
まるで血を吐くかのような、悲痛の色に満ちた叫びでした。
「もうやめて、やめてください! 父さん!! 僕はもういいんです、だからもうやめて! 父さん! 父さん!!」
彼の声が響き渡ります。
ハッとしたようにさんがキョロキョロと辺りを見回していましたが、父は止まることはありませんでした。
振り下ろされた其れはもうひとりの僕をすり抜け、坂上君を襲います。
坂上君が洋服ダンスを背後に、そのままクラブの一撃を間一髪で何とか避けます。
指が取っ手に引っ掛かったのか そのままタンスは開け放たれ、偶然凶器はタンスの中のものを直撃しました。
その瞬間、父の表情が一変したのです。
真っ青になりながら僕の、いえ、この世界の僕の名を呼び、わなわなと身体を震わせています。
その手から落ちたゴルフクラブ、その先端に付いていた赤黒いものが床を汚し、高い金属音を奏でました。
「う…………っ」
父の視線の先を辿り、僕は思わず呻き声を漏らさずにはいられませんでした。
そのタンスの中に居たものは、割れた頭から壊れたポンプのように赤い液体を吐き出していたのです。
弱々しい勢いでしたがそれは緩慢に続いていて、そしてまるで喘ぐように小刻みに胸が上下しています。
露出した何本もの血管のような管が、それに合わせて痙攣するように動きを刻みました。
ゼイゼイと何処か湿った呼吸音が続く中で、その物体は得体の知れない粘膜を全身に纏わせ、力無くタンスの板に身をもたれさせています。
頭から垂れ流しているその赤と粘膜の黄緑色、二つの混ざり合ったものが床にいくつかの飛沫を散らし、今なおその腕の先から、ぽたぽたと雫が滴り落ちていました。
美しい顔立ちの人形でした。
しかし頭部を叩き割られ、脳髄を晒したその姿は無残で今やおぞましく、僕はゾッとせずにはいられません。
その生きた人形こそが、こちらの僕が甦るための憑代だったのでしょう。
後ろからそっとタンスの中を覗き込んだ坂上君が、その光景に思わずその場で嘔吐し始め、さんも口元を手で押さえます。
もうひとりの僕も悲しそうに、その人形を見つめていました。
タンスの中の人形は、まるで黒曜石のような瞳でその場にいる皆を見つめているように思えました。
その目からは、こちらの僕に感応したように大粒の涙がこぼれ、頬に幾筋もの跡を引きます。
震えながらその粘液に塗れた身体を起こす父は、既にその人形がもう憑代として機能出来ないことを悟ったのでしょうか。
不意に振り返ると、凄まじい勢いで坂上君に掴みかかります。初めて見る、父の憤怒の形相でした。
父は坂上君に向かって殺してやると喚きました。
あの人形が駄目になったために、こちらの僕が生き返ることはもはや不可能なのだという事実、それを坂上君にぶつけようとしたのです。けれど。
「わが契約は終了せり」
突然の事でした。
気味の悪い、地を這うような声がその場に響いたかと思った瞬間、父が絶叫を上げたのです。
見ればその胸が裂け、夥しい量の血が溢れ出しています。
その血がまるで魔法のように宙に吸い込まれていく様は、まるきり出来の悪いホラー映画か何かのようでした。
出血するにつれ急速に血の気の失せていく父の顔を見ていることがどうしても出来ず、僕は顔を伏せました。
「父さん!!」
こちらの世界の僕が叫ぶと同時に、彼は床を蹴り、ふっとこの空間から消えていました。
やがて静寂が訪れた時に顔を上げると、父の立っていた場所には朽ち落ちたような砂の山だけが残っています。
もうひとりの僕の姿もありませんでした。父を追って、何処かへ行ってしまったのでしょうか。
僕の他には、坂上君とさんだけが残されていました。
二人はようやく初めて、ゆっくりと互いを見合わせました。
気付けば、坂上君の幽霊のようだった相貌はみるみるうちに消え失せ、血色も良くなり始めています。
人形の生贄という枷から解放されたためでしょう。
さんが怪我はないかと尋ね、坂上君がそれに応えます。
僕はそんな二人の様子を見て、僅かに息を漏らしました。
こちらの父がああなってしまった事、それを眼前にしながら僕は、何もすることが出来ませんでした。
……時間が、なかったのです。僕はこの世界のことを何一つ知らなかった。だから対処のしようがなかったのです。
言い訳めいたことを思いましたが、それでも、僕が何も出来なかったのは変わらない事実です。
僕は、この世界の僕と父のことを考えました。
彼らはどうなってしまったのだろうと、そればかりが頭の中を渦巻きます。
……だから、 「そいつ」 に直ぐに気付くことが出来なかったのです。
「危ない!!」
いきなり、坂上君が顔色を変えたかと思うとさんを突き飛ばしたのです。
何が起こったのかわかりませんでした。
それはさんも同じことだったのでしょう。
そのまま床に倒れ込み、しかしすぐさま振り返ります。そして、目を疑ったようでした。
あろうことか、さっきまで洋服ダンスの中でぐったりとしていた人形が、坂上君の首を両手で絞めていたのです。
立ち位置からすれば、さんがそうなっていたところを坂上君が庇ったのでした。
人形はケタケタと笑っていました。
半分方が血に塗れ、同時に涙の跡も鮮明に残ったその顔で楽しそうに笑っているのです。
坂上君が苦しそうにもがきます。その指が何かを掴もうと伸ばされます。
けれど駄目です、届きません、何も掴むことなく空しくその手は宙を切るばかりなのです。
僕になす術はありませんでした。
この精神だけの身体では何も触れられず、人形を止めることはおろか、坂上君を引っ張る事さえ叶わないのです。
その事をひどくもどかしく思わずにはいられません。
このままでは二人ともどうなってしまうか明白な事でした。
今この時こそ、僕が何かをしなくてはならないのに、それなのに僕は……!
気付けば、さんが落ちていたゴルフクラブを拾い上げています。
けれどその手は何かを躊躇するように震え、目の前の坂上君と人形を見つめていました。
「荒井くん……」
その口から零れたのはこちらの僕を呼ぶ声です。
違う、と僕は首を振りました。
さっきまでこの場にいたもうひとりの僕が、目の前の人形に宿ったわけではない。それだけは解っていました。
今この人形の中に誰かがいるのだとしたら、それは僕たちとは関係ない、全く別の何かなのです。
それを、さんに伝えたい。
僕は、さんの手に僕のそれを重ねました。
姿も見えず、声も届かず、触れることも叶わない筈の別の世界の僕と貴方です。
不思議なことでした。僕の手はすり抜けることなく、さんの手にしっかりと重ね合わされたのです。
僕は、貴方に言いました。
「さん、力を貸してください。大丈夫、僕も一緒です。あの人形をもう止めてあげましょう」
あれは、荒井昭二ではないのですから。
貴方は、息を呑んでこちらを見ました。
僕を正確に捉えているかどうかはわかりませんでしたが、しかし、確かに肯いてくれたのです。
今や抵抗する力さえ失いかけている坂上君、その背後で笑い続けている人形に向かって、僕たちはゴルフクラブを振り上げました。
今はもう、その役目も傍に居てくれた人も失ってしまった悲しい人形を終わらせるために。
まるでスローモーションのように崩れ落ちていく人形の最期を見届けながら、僕はその頭が再び叩き割られる直前のさんの言葉の意味を考えていました。
貴方が辿ったその音の、ごめんね、という意味を。
「坂上君とさんを助けてくれて、ありがとうございました」
こちらの僕は、静かに微笑んでそう言いました。
僕たちは初めて出会った、あの何もない空間に戻ってきたのです。
僕は改めて彼を見ました。つい先程、消えた時と同じようにふっと姿を現した彼を。
「……貴方のお父さんの後を追って、行ってしまったのかと思っていましたが」
「ええ……。悪魔に、父の魂を渡すことなど、耐えられませんでしたから」
彼は、否定せずにそう続けます。
聞けば、あの人形が父の一撃で損傷した瞬間に 「荒井昭二の魂をあの人形に定着させる」 という契約は破棄されたのだといいます。
定着させる本体が駄目になった時点での破却だったのでしょう。
しかしそれだけに留まらず、契約を行った父にその代償がはね返り、あまつさえあの壊れかけの人形に悪魔は、こちらの僕でも何でもないものの魂を放り込んでいった……。
「あんな契約など無効です。……父は、悪魔になど連れていかれはしません。それだけは確かです」
「そう、ですか……」
僕は、父の事を思いました。
こちらの父さんは、こちらの僕を失ってその悲しみにあまりに、あんな終わりを迎えたのです。
けれど、彼の言う事が本当ならば。
これまで生贄となった人達には申し訳ない事でしたが、ほんの少し救われたような気がしてホッとしているのも事実でした。
僕は、ふと今になって気になって、目の前の僕に問いました。
「……貴方は、僕の世界でも父が校長かどうかを訊ねましたよね。あれは、どういう意味だったんですか?」
「そのままの意味です。……他の世界では、父が校長を務めていない場合もありますから」
特に表情を変えるでもなく、彼はそう答えました。
僕はハッとしました。
彼が、 「此処にいればいろいろと解ることもあるのだ」 と言っていたのを思い出したのです。
何時でもなく何処でもないかのようなこの空間で彼は、もしや、他に存在する世界を今までにも見てきたのではないか。
彼は、またも否定せずに肯きました。
「……平行世界というのは、僕たちが考えている以上にたくさんあるようですね。僕は死んで、不安定な存在となってしまってからというもの、そんな世界を何度か見ることがありました」
遠くを見るようにしながら、彼は言葉を繋げていきます。
「そして僕に兄弟がなく貴方に兄がいるように、それぞれにいろんな違いがあるようです。それは僕の世界のように、既に僕が命を失ってしまった世界であったり……。或いは、貴方が以前見たような、あの七不思議の集会に集った皆さんがある一つのクラブに籍を置いている世界であったり」
「…………」
「そして、或いは」
ふと言葉を切り、一拍置いてから彼は続けました。
「……僕たちが、さんに出会わない世界であったり」
「そんな…………」
そう僕が思わず何か言い掛けるのを、彼は首を振り、制して続けます。
「そういう世界もある、という事です。僕はまだ、ほんの幾つかの世界しか見ていませんから」
「…………」
「どのパターンが正しいとか間違っているとか、そういう事ではないのだと思います。僕たちは自分の世界で生きていく事しか出来ないのですから。けれど他にもきっと、僕たちの知り得ないような世界がある気がしてならないのです。……ですから、貴方は貴方の世界で」
――どうか、幸せに。
そう言って微笑む彼は、静かに片手を差し出しました。
僕もそれに応えます。握り合った手と手、そこから感じられる温度は、きっともう一人の僕の体温です。
ほのかな温みは、まるで春の日差しのようなあたたかさでした。
そうして、いつしか僕は目を覚ましました。
本当は彼と話したいことがもっとたくさんあったのですが、彼には次に行くべき場所があるのだという事でした。
僕も、自分の世界を生きる途中でしたから。彼の元を離れ、こうしていつもの朝を迎えるのです。
着替えを済ませ、自室から出て階下へ下りると、既にテーブルで父さんは新聞を読んでいました。
ふと、インクの文字を辿っていた目がこちらに向けられ、やわらかく細まります。
「おはよう、昭二」
いつもの温厚な父のその顔が、一瞬別の世界で見た父と重なります。
あの世界での父と僕が、もしも生まれ変わる事が出来たなら……。
貴方たちこそ、どうか、幸せに。
そう願いながら僕は口を開きます。
「おはよう、父さん」
今日初めて交わす、父さんとの朝の挨拶でした。
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