――僕は、別の世界の僕が自分の場所へ還るのを見届けると、校長室に戻りました。
此処からは、僕が話を続けましょう。
この、人形の話の世界に存在する荒井昭二が。
……父が悪魔に魂を持っていかれそうになった時、僕は部屋を飛び出していました。
僕は、父がこのまま永遠に光の差さない世界を彷徨うことになるなど、とても耐えられなかったのです。
悪魔と契約を交わすというのは、そういう事です。
父の望んだ形で願いが叶えられるわけでもなく、更には自身を死に追いやられ、次なる場所へ行くことも許されずに、ずっと悪魔の元にその魂を縛り付けられる…………。
そんな事を、僕には許せる筈もありませんでした。
僕は、父さんがどれほど優しく穏やかな人かを知っています。
一人息子で、母も亡くしてしまってからというもの、僕にどれだけの愛情を注いでくれたのかもわかるつもりです。
僕は、父さんのことがとても好きでした。
だから僕は、父の解放を望みました。
父さん、もう泣かないで。もう罪を犯さなくてもいいんです。
僕はここに居ます、僕は感謝しています。こんなに愛してくれたことを、こんなにまでしてくれたことを。
だからどうか、もう悲しまないで。僕はずっと、しあわせだったのですから。
悪魔によってずっと耳を塞がれていたために届かなかった僕の声を、父は、今度こそ受け取ってくれたのです。
僕は伝え得る限りの言葉を父に贈り、そっとその背を押しました。
きっと父さんは、光の差す方へ向かう事が出来るのだと信じて。
僕は父を見送り、もう一人の別世界の僕を見送って。
そして、此処へと戻ってきたのです。
校長室はひっそりと静まりかえり、先程までの出来事がまるで無かったかのようでした。
しかしそうではないのを示すように室内は荒れ果て、壊れた人形は其処に転がり続けています。
そして其処には、立ち尽くしたままのさんが独りぽつんと残っていました。
もう、とうに立ち去られたものとばかり思っていたのですが。
僕はその背を見つめます。
最後くらい、出来ることなら別れの挨拶がしたかったのです。
僕は何の前触れもなく死んでしまって、さんとは手紙のやり取りをしたきりになっていましたから。
……けれど、今の僕は一言で言ってしまえば幽霊なのです。
貴方を怖がらせてもいけないと思いましたから、さんのその後ろ姿を見守るだけに留めようと。そう、思っていたんです。
不意に、さんがピクリと肩を震わせました。まるで何かの気配を感じ取ったかのような、そんな仕草です。
……まさか、そんな筈はない。
そう思いました。僕のことは、誰の目にも映らないのですから。だから、貴方にも僕の事はわかるまいと思っていたのです。
けれど、しかし、貴方はこちらを振り向きました。
そして、はっきりと僕を捉えたのです。視線と視線がかち合い、僕はドキッとしました。
自分の姿は誰にも見えない。そう思っていたのに、掛けられた声はそれを否定するのに充分なものでした。
「荒井くん?」
「…………さん? 僕が、見えるのですか?」
「うん。何だか、そうみたい」
特段驚いた様子でもなく貴方はそう告げます。
そして、口の端と端とを微かに持ち上げたのです。
初めて会った頃と何も変わらない、さんのいつもの笑い方でした。
「また会えたね」
「……そう、ですね」
「久しぶり」
「ええ」
「……さっき、 『 僕も一緒 』 だって言ってくれたのは荒井くん?」
貴方はそんな事を訊ねてきます。
僕は、もう一人の僕がさんを助けてくれたことを聞いて、知っていました。
だから正確には、さんが指すのは別世界の僕のことです。ですが其れを説明するには、あまりにも話が長すぎました。
「半分正解、とだけ言っておきましょうか」
「また、そういう難解な事を言う……。荒井くん、初めて会った頃からそんなところあったよね」
そう言って貴方は口を少しだけ尖らせました。
まるで十数年前の時間が巻き戻ったかのような、そんな錯覚を覚えそうな瞬間。
不意に、何か痛みにさえ似た感覚が僕の胸に広がります。
どうしてかは解かりませんが、荒井昭二という存在がとうに失われてしまった筈のこの世界で、さんは再び僕を見つけ出してくれたのです。
またこうして、貴方と会話を交わす事が出来ている。
時間が経ってしまったにも拘らず、あの頃の夏の時間を今になって取り戻せたその事実に、僕は不覚にも涙をこぼしそうになりました。
けれどそれを堪え、代わりに僕は無理矢理に少しだけ笑ってみせます。
取り繕うように、貴方に訊ね返しました。
「……坂上君は、先に帰ったんでしょうか」
「さっきまで一緒だった子のこと? うん、先に帰したよ。早く此処から居なくなった方が良さそうだったから」
「なら、さんは何故まだ此処に残っているのですか」
「…………」
さんは沈黙を落としました。
その目がそっと床を滑り、朽ち落ちた砂山、そして壊れたあの人形の元へと彷徨います。
僕は下唇を噛みました。沸き立っていた胸に冷たいものが広がります。
何を浮き足立っていたのでしょう、何をおいても、僕には、まず最初にしなくてはならない事があったというのに。
僕は問いかけの答えを待たず、腰を深く折り、さんに頭を下げました。
「……お詫びが遅くなりました。今回のこと、本当に申し訳なく思っています。僕や父のことに、さんをここまで巻き込んでしまって……」
「校長先生は……」
「僕が先程、見送りました。……もう、此処には……」
「…………そう」
口の端を引き結んだ貴方が、一瞬顔を伏せます。
僕の父はこれまで生贄になってきた人達に加え、坂上君や貴方をも、今回のことに巻き込んでしまったのです。
父のしてきた事は、許されない行為でした。そのことを、僕は詫びなければならなかったのです。
僕はもう一度、繰り返しました。
「父に代わって伝えます。……本当に、申し訳ありませんでした」
「……荒井くん」
「……はい」
「わたしからも、校長先生に伝えたい事があるから……、代わりに、荒井くんに聞いてもらっていい?」
さんはそう言って僕を見つめます。
僕は肯きました。父が僕のために犯してきた罪を、許してもらえるとは思っていませんでした。
だから僕は、どんな感情をぶつけられても構わないと。どんな罵りでも憎しみでも受けようと。そう、思っていたのです。
けれど目の前の人が発したその内容は、僕の想像とは違っていました。
「あの時のわたしの言葉を覚えていてくださって、ありがとうございました」 。
貴方は確かに、そう音を辿ったのです。
「……あの時?」
「校長先生、わたしが荒井くんのお墓参りに行った時のこと、覚えていてくれたから……」
刹那、僕は、貴方が父さんと初めて顔を合わせた時のことを思い出しました。
僕の墓参りで、それまで塞ぎがちだった父が、それでも気丈に、いつもの優しい父に戻ってさんを迎えていた時の事です(二人とも気付かなかったでしょうが、僕はあの時傍に居て、父とさんを見ていましたから)。
言葉少なに、けれどぽつりぽつりと、貴方が僕との学校での出来事を父に聞かせてくれたのを覚えています。
そんな中、帰り際にこぼした貴方の言葉。
「『 また荒井くんに会いたい 』 って、覚えててくれて……。今までずっと年賀状くらいでしかやり取りがなかったから、一週間前に新幹線の往復切符入りで手紙が来た時は吃驚したけど。でも、本当に会わせてもらえた。荒井くんに」
そう言って、さんは微笑みます。
貴方も、本当の父の事を覚えていてくれたのです。僕はそれだけでも充分でした。
不意に、壁掛けの時計の針が音を立てます。気付けば時間は過ぎ、昼下がりになろうとしていました。
「……さんも早く此処を立ち去った方がいいでしょう。万が一、誰かに見つかれば面倒です」
僕はそう告げました。
それに従ってくれる事を願いましたが、さんはそれには曖昧に肯き、そして僕の方を見据えます。
「荒井くんは、これからどうするの?」
「僕は……」
一瞬、返すべき言葉が見つからずに口籠ります。
けれど、直ぐに僕は言いました。
「……やっと僕は、休むことが出来そうです」 と。
「僕には、僕の行くべき場所がありますから……、さんともお別れです。折角会えたばかりのところ、とても残念ですが」
そう、言葉にしたつもりでした。
決して、声が震えないように。決して、その 『 嘘 』 がわかってしまわないように。
ごく自然に聞こえるように、そう言ったつもりでした。
けれどさんは、驚くべきことを口にしたのです。
「荒井くん。……一日だけ、わたしと一緒にいようよ」
「……えっ?」
「だって。十年以上振りに会えたのにもうさよならとか、寂しいよ。荒井くんは、わたしと話したい事とか、あんまりない?」
「それは……」
「わたしは、いっぱいあるよ。それこそ一日なんかじゃ全然、足りないくらいね」
微笑みを残しながら、さんはそう続けました。
思いもしないその申し出に、僕は呆気にとられて貴方を見つめます。
「さん……、いけませんよ」 。ひとまず僕は、そう返しましたけれども。
「霊というのは、優しくされると却ってその人に災いをもたらす事もあるそうですから。無暗にそんな事を言ってはいけません」
僕はそう言いました。
真面目に、真剣に告げたつもりです。
なのに貴方ときたら、一瞬ぽかんとしたような顔になったかと思えば、その直後大笑いし始めるのです。
僕は何故そんなに笑われなくてはならないのか全く解りませんでした。
「な、なんです、何がそんなに可笑しいんですかっ」
「はは。だって、災いふっかけようと思ってる人がそんな事言うわけないもん」
「……………」
「それに荒井くんは、そんな事しないでしょ?」
そう言って笑う貴方は、そのまま右手を差し出しました。
僕は戸惑いながら、その手を取っていいものか逡巡します。
焦れたさんが僕の手を掴もうとして、けれどその指は、僕の輪郭に触れることなく透り抜けてしまいました。
一瞬残念そうな顔をしたさんでしたが、直ぐに何もなかったかのように両の腕を広げます。
まるで抱擁し合う時のような形で、その人は僕を待ち受けてくれたのです。
「荒井くん、少しの間だけだよ。……わたしと一緒においでよ」
貴方がもう一度繰り返します。
時間が、緩やかに過ぎていくような気がしました。
やがて僕が肯きを返した時、校舎内に定時を知らしめるチャイムが鳴り出します。
夏休みの誰もいない校内に木霊するそれは、まるで僕が短い高校生活を送ったこの学校との別れを告げるものであるかのように、いつまでも何処までも響き渡っていました。
こうして僕は、さんの傍に存在するようになりました。
積もる話は幾らでもありましたから、一日など短い時間でした。
一日の筈が三日になり、一週間に伸び、やがて一月が過ぎようという頃まで僕は貴方と共に過ごしてきました。
見る人が見れば、きっと僕はさんに憑依しているように見えるのでしょう。
実際、さんが街中を歩いていた時、ぎょっとしたような視線をこちらに送ってくる人がいたくらいですから(そのことを話すと、 「わたしと荒井くんは、ただ一緒に居るだけなのにね」 と言って、貴方は声を上げて笑っていましたけれど)。
さんはそのことを本当にどうとも思っていないようでした。
「気にしなさ過ぎではないのですか」 と言うと、 「荒井くんが気にし過ぎなんだよ」 と返される始末です。
でも僕は、やっぱり貴方が気にしなさ過ぎだと思うのですけれどね。
僕たちは、いろんな話をしました。
さんとの会話は、声に出さなくとも心と心で交わす事が可能でした。
実際、人目につきそうな場所ではそのようにして話をするようにしていましたし、貴方の部屋で二人だけの時は、普通に声に出しての会話を楽しみました。
さんが実習を終えた後から、大学を卒業するまでのこと。
それからのこと、これまでに貴方が観た新作の映画の話、好きな音楽や本のこと、他にも、いろんなことを。
そうして、時々、僕の事を。
夏も終わろうという八月の終わり、その日の夜、床に就きながらもまだ寝入っていなかった貴方が僕の方を見ていました。
僕は、いつか言わなくてはいけないと思っていたことをこの時、さんに告げたのです。
貴方は少しの間ただ黙っていて、ジッと僕を見つめていました。
「……もう、行かなきゃいけないの?」
「本当は一日だけの筈だったじゃないですか」
「一ヶ月も一緒にいたんだから、一年になったってそう変わらないんじゃない?」
「どういう理屈ですか、どんどん期間が伸びてますよ……」
僕は苦笑しましたが、いつまでもさんに迷惑は掛けられないと思い首を振りました。
こうして、貴方とずっといられたらという甘い願望がなかったわけではありません。
けれど、いつかは離れなければならないのです。長い時間を過ごした後では、きっと想像を絶するような孤独感に苛まれるでしょう。
ならば、早いうちの方がいいのだと、僕は自分に言い聞かせました。
「残念ですが、もう、あまり時間はないのです」
「…………そっか」
身体を横たえたままで、さんは呟きます。
暗がりの中で、その表情はあまり変化がないように見えました。
これでいいんだ、と僕は思おうとしましたが、貴方はそのまま続けたのです。
「……寂しいな」 、と。
僕はそれを聞いた瞬間、自分でも驚くほどの感情が溢れ出すのを感じました。
さんが目を瞬き、そっとその手が僕の方へと伸ばされます。
相変わらず触れることは叶いませんが、けれど貴方の温度は感じられました。
さんのその指先が濡れているのを見て、初めて僕は、自分が涙を流している事を知ったのです。
「荒井くん?」
「…………あっ、……っ」
僕は泣くのを堪えようとしましたが、もはや止めることは出来ませんでした。
噴き出した思いは、とめどなく僕を溺れさせました。嗚咽を繰り返し、子供のようにしゃくり上げます。
そんな僕の涙をさんは何度も拭おうとしてくれていました。
「どうしたの?」
「もう…………独りは嫌なんです、怖いんです、辛いんです、寂しいんです……っ」
僕は頭を抱えそう貴方に訴えました。
そして、決して言うまいと思っていたその事を遂に口にしてしまったのです。
もう、僕は耐えられませんでした。貴方という人と時間を過ごした今、再び独りになることを恐れたのです。
「僕には、……もう、行く場所などありません。……父が、悪魔に魂を持ち去られそうになったあの時、僕には本来、為す術はありませんでした。契約を行った当人以外の関与など、本当ならあり得ない事なのです。……だから、僕は最後の方法を使ったのです」
それは、いちかばちかの選択でした。
僕は、 『 僕が次の場所へと向かう 』 権利を父に譲り渡したのです。
僕はずっと、現世やその境界線を彷徨い続けてきました。
人が死んだ後どうなるのか、死後の世界というものがあるのか、或いは転生して新たにこの世に生れ落ちるのか、どうなるのかは解りません。
けれど、きっと父の魂は向かうべき方向へと旅立ったのです。
僕自身それを望み、そして願ってやまないのです。もう苦しまないでほしい。ただそれだけを。
僕は行き場所を無くしましたが、これまでさんと共に在ったおかげで楽しい時間を過ごすことが出来ていました。
けれど、貴方にずっと身を預けるわけにはいきません。
僕は、さんに迷惑を掛けてはいけないのです。だから……。
思いの丈を吐き出す間、さんは静かに僕の言葉を聞いていてくれました。
やがて全てを口にして、しゃくり上げる喉も落ち着きを見せた時、貴方は指を伸ばすと何を思ったのか、僕の額の辺りでデコピンをしてきたのです(やはりその指は空を切るだけでしたが)。
「……何をするんですか」
「そういう大事な事を今まで黙ってたんだから、お仕置き」
「…………」
「なら、ずっと一緒にいようよ。荒井くん」
「……でも、さんに嫌な思いをさせてしまいます。ですから……」
「わたし、荒井くんのこと好きだよ」
突然の言葉に、僕は言葉を思わず呑み込みました。
カァッと頬に熱が上る中で、全く普段通りに目の前のその人は続けます。
「本当の事言うと、荒井くんのお墓参りも行きたくなかった。荒井くんが死んだなんて信じたくなかったから、そんなのは嘘で、荒井くんは本当はちゃんと元気でずっと離れたあの学校で高校生活を送ってるんだって、離れて会えないけど生きてるんだってそう思い込もうとした。目を背けたかった。……でも、校長先生に送ってもらった、荒井くんの死を知らせる手紙を見なかった事にも出来なかった。校長先生の方がわたしなんかよりずっと悲しかった筈だもの」
貴方はそこまで言うと、僅かに沈黙しました。
そして、ぽつりと、呟きました。
「寂しかったろうね。荒井くんのお父さんも、あの人形も。……荒井くんも」
僕は再び目の奥から涙が溢れ出すのを感じました。
胸が詰まり、喉が苦しく、少しの間僕はただ顎を伝い落ちる水滴をそのままに目を閉じていました。
「でも」 、僕はその先を続けなくてはなりませんでした。
「さんの好意、嬉しく思います。……けれど」
「わたしが死んでしまったら、荒井くんは独りになってしまう?」
僕は、何もいう事が出来ませんでした。
貴方が申し出てくれた事に肯くことが叶うなら、どんなにいいでしょう。
けれど、僕にはまだそうする事が出来ないのです。
いつか遠い未来、貴方が遂に寿命を迎えるその時が来たなら、やはり僕は残されてしまうことでしょう。
その事を思うと、僕は恐れを拭い去ることがどうしても出来ないのです。
ならば、まだ日の浅い今、僕から貴方の元を離れた方が…………。
「荒井くん」
不意に、さんが僕を呼びました。
見れば、貴方はこちらをジッと覗き込んでいます。続けられた言葉は、静かに夜の時間の中に流れていきました。
「わたしが死んだら、荒井くんを迎えに行くよ」
「…………え?」
「わたしだって、荒井くんがいなくなってしまって、寂しかった。わたしも独りはいやだもの。だから、きっと迎えにいく」
「さん……」
「あ。でも、わたし時々寝坊するの、知ってるでしょ? もしその時も寝坊してたら、荒井くんの方から起こしに来てくれる?」
笑ってそう言う貴方は、初めて会った頃からずっと変わらないさんです。
僕は溢れ続ける涙をそのままに、ようやく、肯きを返しました。
僕はもう死んでしまったけれど、貴方となら、これから先も生きていける。
それは僕を想ってくれた人たちの、父さんの、力を貸してくれた別の世界の僕の、そしてさんのおかげなのです。
僕はもう何も持っていなくて、何もあなたたちにお返しすることは出来ないけれど。
せめて抱えられるだけの、今のこの幸福を、僕の大切な人達へ。
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