その人を初めて見かけたのは、いつの事だっただろうか。
時間の記憶は定かではなかったけれど、しかし場所だけは 「此処」 だと確信が持てた。
学校近くのコンビニエンスストア。
ガラスの向こうに見慣れた通学路の景色が望める、雑誌の立ち並ぶコーナー。
時間帯によっては立ち読み目的の学園の生徒で埋め尽くされるその場所に、彼女はいた。
ご多分に漏れず、彼女も一冊の雑誌を手にしており、時折ページを繰っている。
この時はどちらかといえば客の入りはまばらで、其処に立っているのは彼女と僕だけだった。
平日の朝、登校にはまだ少し早い時間。
けれどあと十分も経てば、昼食を事前に求めてやって来る者で店内は溢れかえる事だろう。
僕は、彼女から一歩分だけ離れて雑誌に目を落としていた。
近付き過ぎるのも離れ過ぎるのもおかしなものだ、僕もその人と同じものを読んでいるのだから。
向こうはこちらの事に気付いているのかいないのか、ただ静かに紙上の文字を目で追っている。
彼女は僕の事など気にも留めていないだろうし、そもそも知らないのだろうと思った。
此方が向こうを知っていても、必ずしも向こうは此方を同じように知っているとは限らない。
『 』
水拭きした後のまっさらな黒板に、その名はチョークの白文字で浮かび上がっていた。
僅かにクセのある文字を綴る間、生徒に後ろ背を向けるその人がどことなく恥ずかしそうにしていたのを覚えている。
担任教師に促されるままに自己紹介をした時も口ごもりがちで、あまり人前に出るのを好まないように見えたものだ。
引っ込み思案なのかもしれない。
新しく下ろしたばかりらしい白いシャツに袖を通している彼女は「先生」と呼ぶよりも、「先輩」のように幾分歳の近い目上の人への呼びかけの方が似合いそうだと思った。
それも無理のない事かもしれない、彼女は 「教育実習生」 として僕のクラスにやって来たのだから。
言葉少ない挨拶の中に、他県の大学四年に在籍しているという内容の言葉があった。
順当に考えて、僕より五、六歳ほど上と思ってよいのだろう。
数年前までは彼女も高校生として登校をしていたはずだ。
それが今、こうして教育実習生として僕たちのクラスへと姿を現している。
クラスでの自己紹介の時のことを思い出していると、隣でその人は雑誌を読み終えたらしく本を元の所に戻していた。
次いで、他の本を端から端までザッと目を滑らせる。
他にこれといった興味あるものがなかったのか、ゆっくりと他のコーナーへと歩いて行った。僕の方を見もしなかった。
最もそれが普通の事だろうし、視線を送られても僕も困るので、特にどうと思う事もなかった。
やはり、あの人は僕があのクラスに居る事にも気付いていないのだろう。
一クラスの人数といっても相当なものだし、まだ実習が始まって一日しか経過していない。
それで顔を覚えていたなら大したものだ。
僕は思考を変える事にし、今までほとんど内容を辿っていなかった雑誌に再び向き合った。
暫くの後、腕時計を見る。
ちらほらと店にも客の数が増え始めていて、直に混むかもしれないと判断する。
買うものは特になかったので雑誌を戻し出口に向かう際、彼女がレジで会計を済ませているのが視界に入った。
昼食だろうか、小サイズのレジ袋を受け取り、あちらも出口へと向かいやって来る。
彼女の方が先に扉を出るようだったので、僕はその後に続こうとした。
そのまま行ってしまうだろうと思ったけれど、彼女はこちらをチラと見やると、扉を手で支えたまま僕が出るのを待ってくれた。
礼の意味で少し頭を下げると、にこ、とその人の口の端っこが小さく持ち上がった。
女性に笑顔を向けられるという経験はあまり多くない。
こちらも社交辞令程度に笑みを返せば良いのだろうが、僕にはそれ程の器用さはなかった。
そのまま扉の隙間を滑り抜けようとして、彼女に少しだけぶつかってしまう。
「「あ」」
声がハモったのは、彼女のレジ袋が地面に落下したためだ。
拾おうとしゃがみ込むのも、僕とその人のタイミングはほぼ同じに重なった。
「……すみません」
「こっちこそ」
そう簡潔な言葉を交わす。
レジ袋の中のものは転がり出る事もなく袋の中に収まったままだったので、そのまま拾い上げるだけで良かった。
白く透けるビニールの中にはやはり昼の食事にと買ったらしいパンやヨーグルトなどが詰まっている。
まじまじと見ようとするわけでもなく目に入ってくるその袋の中に、一つだけ食べ物ではないごくごく小さな包みがある。
僕は、共に立ち上がった彼女にレジ袋を手渡した。
ありがとう、と口にするその人はきっと直ぐにこの場から立ち去ることだろう。
数秒程迷った後、僕は思い切って彼女の名を呼んでみる事にした。
「……先生」
せんせい、という響きがやはり少し合わない気もしたけれど、とにかくそこまで言ってから向こうの様子を見る。
彼女は微かに笑みを残したまま、静かに探るように僕を窺っていた。
どうして僕が彼女の名を知っているのか。
それは向こうもおおよその予測がついているだろうと思った、ただその確信にまで至らないだけの話であって。
なので、彼女の考えているだろう想像を僕は肯定する事にする。
「僕は、先生の受け持ちクラスの生徒なんです。それで……」
「ああ、やっぱりそうなんだ? もしかしたらそうかなって、今丁度思ってた」
彼女の浮かべられた笑みが、それ迄よりも柔らかくほぐれた。
さっきは何も反応を返す事が出来なかった僕も、それにつられて少しだけ笑い返すことが出来た。ほんの少しだけ。
僕は人の目を見て話すのがあまり得意ではない。
直ぐに何だか恥ずかしいような気がしてきて下を向いた。
俯いたその目の先に、彼女の手に下がるレジ袋がある。
「それで、あのう。……先生は、ゲームがお好きなんですか」
問うと、向こうは一瞬きょとんとし、次いで直ぐに思い当ったらしい手元のビニールに目をやった。
慌てて僕の視界から見えなくなるように自分の背に隠す真似をしたが、もう何の意味も為さない行動だった。
レジ袋の中にあった小さなアルミパックは、一目で今流行りのゲームソフトのコレクションカードだと判ったので。
「……もしかして見られたかな?」
「見ようと思って見たわけではないんですが」
「わわっ、えーと、見なかった事にして貰えると助かるなあ」
「それに、さっきご覧になっていた雑誌もそういったものでしたよね。僕も毎月読んでます、アレ」
そこまで告げると、彼女は苦笑いした。
やはり立ち読みを見られていた事には気付いていなかったらしい。
そもそも僕が初めて彼女を見かけた時、少し、ほんの少し、微かな印象を残したのは僕がよく読んでいるゲーム誌を此処で立ち読みしていたからだ。女性がゲームをするのは珍しい事でも何でもなくなってきているものの、しかし僕の周りにはそういった人があまり存在しなかったので目に留まった。
……初めて此処で彼女を見たのは、いつだっただろうか。
つい数日前の事のような気がするのに、はっきりと思い出す事が出来なかった。
「大丈夫ですよ、担任や他の先生方には言いませんから」
「そうして貰えると嬉しいな、このカードも没収されなくて済むし」
「……でも、これから学校という時に買わなくても良かったんじゃないんですか、それ」
「うーん、そうなんだけど、でもどうしても欲しいカードがなかなか出なくて。昨日も買って帰ったんだけど、もう持ってるのと全部被っててね。悔しいから朝一番にリベンジしてやろうと思って」
そんなふうにその人は言った。
思ったよりもずっと砕けていて話しやすく、意外でもあった。
何日か前に見かけた時はこうした会話が出来るなど想像もしなかったのに。
思っていると、あ、と彼女は呟いた。僕を見て、レジ袋の中のカードを示す。
「直ぐにコレに気付いたって事は、もしかして集めてるのかな」
「……僕は集めてはいないんですが、友人が集めてるんです。もうすぐフルコンプだとかで」
「へえ、すごいなあ。……って、悠長に話してる場合でもないね」
彼女は増え始めた通行する学生らにちらと目をやった。
僕も時計を確認する。
あと数十分でホームルームが始まる。余裕を持つならもう教室へ向かっていた方が良さそうだと思われた。
彼女も自身の腕時計を見ると、「ああ、もう行かないと」と小さく言った。
彼女も朝の準備が何かしらあるだろう。僕は頭を下げた。
「すみません、引き留めてしまったので遅くなってしまいましたね」
「ううん、気にしないで――ええと」
僕の胸ポケットの辺りを彼女は覗き込んだ。
見えやすいように小さいプラスチックのネームプレートを示して、言った。
「僕は荒井です。荒井、昭二」
「あらいくん、えっと、席はどの辺?」
「窓際の……後ろから三番目です」
「窓際ね。うん、よし、多分覚えた。――じゃあ、また教室で」
彼女はそう言い残すと、軽い駆け足で先に学校へと向かった。
繰り返す下り、どことなく記憶力に不安があるように見えたけれど、とにかく。
取り残された僕の目はその後姿を追ったけれど、直ぐに通学の生徒たちに混じって見えなくなった。
学園の生徒たちの波が途切れなく続く道の一点、コンビニエンスストアの前で、僕だけが暫く立ち尽くしていた。
彼女を初めて見かけたのは、いつの事だっただろうか。
昨日の朝、此処でだったか。それとも一昨日の朝、それとも夕方? 或いはもっと前にだろうか。
もう何度も思い出そうとしているのに、やっぱりいつなのか、どうしても思い出す事が出来なかった。
一日は、平坦に過ぎた。
朝のホームルーム、担任教師と共に教室に入ってきた彼女が一瞬こちらを見つけると、微かにその目が細まった気がする。
しかしそれ以外に何があったわけでもない。
普通に学校での一日は始まり、そして普通に終わろうとしている。
僕はその事をどうとも思わなかった。今まであった毎日のうちのひとつと何も変わらない。
これから来る毎日とも何も変わらないだろう。
僕はいつもの日常をこの日も受け入れ、そのまま帰路につこうと廊下を歩いていた。
いつも一緒に帰る友人は委員会があると言っていたので、今日は独りで帰る事になる。
靴箱へ向かう途中で声は掛けられた。
「おーい、荒田くーん」
「…………」
僕は最初、自分が呼ばれているのだと気付かなかった。
だから、足を止める事も振り返る事もなくそのまま歩き続けていた。
しかし声はだんだんと近付いてくる。
「あーらーたーくーん」
「…………」
僕はようやく声の主に気付いてその方向を見た。早足に彼女はこちらへ駆け寄ってくる。
何か小物入れのような、小さなポーチを手にそれを振って見せている。
僕の前で歩みを止めると、彼女は言った。
「ひどいなー、結構たくさん呼んでたのに」
「……先生、僕は荒井ですよ」
「…………わたし、今何て呼んでた?」
「荒田、と」
「…………あー。ごめん」
あまり申し訳なさそうにでもなく、彼女は言った。
次いで、 「今時間は大丈夫か」 と尋ねられる。
特に急いで帰る理由もなかったので 「大丈夫です」 と答えると、彼女は周囲を見回した。
下校時間になってから少し経っているので、行き交う人は多くない。
人が来ないのを確認すると、彼女はポーチから何かを取り出した。
「これ、良ければお友達に」
そう言いながら差し出されたのは何枚かのカードの束だった。今朝話していたコレクションカードだろう。
彼女を見ると、少し残念そうに笑いながら話し始める。
「今までのダブり分のカードなんだけど。……ああ、今朝買ったのにも、欲しいのが入ってなくてね。それも入ってる。希少なのはあんまり無いから、フルコンプ目指してる子が欲しがってるのは無いと思うけど、まあ見せるだけ見せてあげてみて。もしもって事もあるし」
「……いいんですか、頂いても」
「邪魔でなかったらね。欲しいのが入ってなかったら好きにして。返品してもらってもいいし」
誰かに見られないうちにしまって、と言う彼女に促されて僕はカードを受け取った。
十数枚ほどあるだろうか。数枚、箔押し入りのものもある。
友人が集めているのがどのカードか覚えてはいなかったが、見せてみる価値はありそうだった。
僕は彼女にお礼を言い、ふと尋ねてみようという気になった。
「……先生は」
「ああ、教室にいる時以外は先生って付けないで貰えると嬉しいかな。何だか慣れないし、むず痒くて仕方なくて」
「……では、さん。あの、お探しのカードはどういうカードなんですか?」
「ナンバーでいえば……6と9かな。わたしはフルコンプしなくていいんだけど、このナンバーのキャラが好きで」
「でしたら、友人にそのカードのダブりがないか訊いてみますよ。もし運よくあれば、貰ってこれるかもしれませんし」
「あ、そうして貰えると嬉しいな。ありがとうね、荒田くん」
「……荒井です、さん」
僕は溜め息をつきながら苦笑した。
そんな経緯を通して、僕の手の中には彼女から貰ったカードがある。
あの日から何日も経ったのに、友人の手に渡ることなく僕の元に其れはある。
何故か手放したくないと思った。
今日まで僕の手元へと置かれた其れは、これからも僕の傍に存在し続けるような気がした。
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