昼休みを告げるチャイムが鳴って五分と経っていなかったけれど、既に食堂は混雑の兆しを見せ始めている。
僕は辺りを見渡した。
食堂内の半分方の席がもう埋まっているが、これでもまだいい方だ。
あと少し遅れていたなら、椅子を確保するのに大変な労力を強いられる事になっていただろう。
四時限目終了時刻をオーバーしてキリのよい所まで授業を進め通してしまう先生の教科だったらこうはいかない。

普段は友人と教室内で食べる事が多いのだけれど、弁当を用意してくれる母は昨日から町内会の旅行に出ていた。
一泊だけのものなので明日からはまた準備をしてくれるだろう。
今日は久々に校内の食堂を使う事にし、早々に食事するスペースを陣取るため、先に券売機へと向かう。
見たような後姿がひとつ、其処に在る。
その人はメニューの書かれた札を眺めていて、まだ少し迷っているかのようだった。
あまり此処で時間をかけるのは得策ではないというのに。

「何にするかは決まりましたか」

思わず声を掛ける。
振り返った彼女は表情一つ変えないままで、「一応は」、と言った。

「そう云うそちらこそ何にするのかな、荒谷くん?」
「……荒井です、先生」
「おっと。……ごめんごめん、わたし、人の名前を覚えるのがどうも苦手で」

そう言いながら頭をかく。
この人は果たして本当に 「教師」 という職に就くために実習に来たのだろうか。
先生と呼ばれる人が生徒の名前を覚えられないというのはあまり宜しくない。
お節介ながら、そんな事を僕は心配した。
そもそも先生になりたいがためではなく、単に経験を得るため、時には大学での単位を取得するためだけに教育実習に訪れる人間も居るという話を聞いた事がある。
彼女の場合がどうなのかは知らないし、そしてまだたった数日しか彼女と関わっていない僕が言うような事ではない。
けれどもしかし、さんが教師になるというのは少なくとも今の姿からは想像しにくいような気がした。

「ああ、券、買うんだよね? どうぞお先に」
「いえ、先生こそどうぞ。その次に買いますので」
「そう? ではお言葉に甘えて。……あ、一つ訊いてもいいかな」
「何でしょう」
「荒井くんは此処のすき焼き丼って美味しいと思う? さっき、メニュー見て悩んでたら、話し掛けてきた人がいてね。大プッシュされたんだけど」
「……誰に勧められたんですか」
「んーー……、あ、あそこに並んでる。あの背の高い子」

そっと彼女が指した先を見ると、既に券を購入し終えて受け取りへと並ぶ列の中にそれらしい男子生徒を見つける。
どこか澄ました顔をしながら前に並んでいた女生徒に気安く声を掛けている姿はあまり快いものではなかった。

「……あんな人の言う事など聞くものではありません、僕は今日の日替わりをおすすめします。栄養バランスもいいですし」
「あんな人って、あの人に失礼だよ? ……まあ、個性的な子ではあったけど」
「何か言われたんですか」
「んー、五百円くれって言われたかな」
「……………何ですって?」
「えーと。何かね。訊きもしないのに色んな事ペラペラ喋った挙句、今日万札しかないから五百円貸してくれないか、みたいな事を口走ってた気がするんだよね。適当にスルーしたけど。……でも結局食券は買えたみたいだね、お友達にでも貸してもらったのかな」

さんは呑気にもそう言ったが、僕は呆れた。
初対面の人に対してそんな事を云うものだろうか。
その男子生徒の足元、上履きにあしらわれた学年を表す色のワンポイントを見ると上級生であるらしかったけれど、正直言ってああいうタイプは嫌いだ。
おまけに、でくのぼうのように無駄に背ばかり高い。ますますもって不快だ。
…………背。
ふと、コンビニで彼女を見掛けていた頃から気になっていた事が頭を掠めて、僕は恐る恐るさんの方を見た。
この人の身長は、果たしてどのくらいなのだろうか。
並んでみると僕とそう大差があるわけではない、しかし、今まであまり考えないようにしてきた事だった。
僕は普段俯きがちなので、目視で何センチか損をしているかもしれない。
胸を張って背を正せば、彼女よりも少しは背が高く見えるだろうか。

「はいじゃあ、荒井くんの番。どうぞ」

言って券売機の前を譲ってくれた彼女の手の中の食券には、 「日替わり」 と印字されているのがチラリと見えた。




受け取り列に並ぶ間、幾つかの話題が挙がる。
今日の今まで、そして午後の予定の授業の事に始まって、とりとめもない事を互いに少しずつ話した。
食膳を手にする頃には食堂内の人の入りはピークに達しかけていて、空席も残り少なくなっている。
丁度二人分の空きがある端のスペースを見つけると、さんの方から 「あそこが空いてる」 と示してくれた事に少し安心する。
此処で離ればなれになるのも寂しいものだ、向こうはそんな事を考えもしていないかもしれないけれど。
席につきすぐさま一口目を食べた彼女は
「あ、結構おいしい」、と云った。

「どんなものかなと思ってたけど普通に美味しいね、此処のごはん」
「……先生は、高校生の頃は食堂のお世話にならなかったんですか?」

弁当持参派だったのか、それとも購買やコンビニで買って食べていたのだろうかと思いそう訊ねる。
一度も此処に赴いた事がないのだろうか、そういえば先程もメニューについて訊ねられたが。
しかしさんからの答えは予想とは違ったものだった。

「だってわたし、此処の高校出身じゃないから」
「――そう、なんですか?」

少し驚いて訊き返す。
教育実習に来る学校というのは、その実習生の母校というのが相場なのだと耳にした事があった。
彼女もてっきりこの学校の出だとばかり思っていたのだが。
その事を伝えるとさんも 「わたしもそう聞いてたんだけどね」 と話す。

「教育実習って、必ず学校側は受け入れてくれるわけじゃないんだって。何か理由があれば拒否される事もあるみたい。行事の関係とか、何やかんやでね。……で、たまたまわたしも拒絶されて」
先生の場合も学校行事か何かの関係で……ですか」
「いや。何だか、学校建て直すんだって。前に少し大きい地震来た時、壁崩れてたし。それで丁度直すらしいんだけど、その期間の仮校舎を何処にするのかとかがまだ決定してなくてバタバタしてるみたいで。それで、どうしようかなって思ってたら、大学のゼミの教授が此処出身で、実習校にってお世話してくれて」

昼食を口に運びながらそんな話をした。
そう云えば彼女の在学中という大学はかなり遠くの県だったことを思い出す。
聞けば、この辺りに足を踏み入れるのは初めてなので、地理もほとんど判らないという。

「こちらに来るのは、いろいろ不安だったんじゃないんですか」
「うん。そうだね。……でも、ほんの何週間かだけだから」

何気なくさんはそう言った。
その事が、微かに僕の胸を軋ませた。ほんの何週間かだけだから。
けれど其れを深くは考えず、心の端っこの方に押しやって僕は話を続けた。
トレイ上の食事が減らないでくれればいいのにと思った。その分長く、この人と会話を続けることが出来る。
けれど当然そういう訳にもいかない。
食器の内容物が空になれば、早く退けと言わんばかりの空き席待ちの生徒の目が突き刺さってくる。

「さてと。荒井くんは教室戻るのかな」
「はい。帰りのホームルームで、また」
「うん、じゃあね」

返却口にトレイを返した後、彼女と簡潔な言葉を交わす。
さんは職員室へ向かうのだろうか、人の波を器用に抜け先に姿を消そうとした。
ほんの何週間かだけだから。
何のきっかけもなく突然、その言葉が再び僕の中で浮上する。
今日の放課後に、と思っていた事を僕は今実行してしまう事にし、一旦離れた彼女との距離を埋めた。

……さん」

他の生徒がこちらを見ていないのを確認して、 「先生」 をつけずにその人を呼んだ。
何? と立ち止まりこちらを見る彼女に、僕はポケットに入れていたものを取り出して見せた。
探していたのはこのカード、でしたよね。そう言って彼女に差し出すと、向こうは驚嘆の声を上げた。

「ナンバー6と9! すごい、初めて生で見たー!」
「どうぞ。差し上げます」
「いいの? わーありがとう!!」

子供のような笑顔で彼女は喜んだ。
心底嬉しそうな様子を見ると、穏やかな性質の何かがゆっくりと僕の中を満たしていく。入手したかいがあった。
その笑顔のままでその人は言った、
「これって、前話してたお友達のダブりを貰ってきてくれたの?」 と。

僕は僅かな沈黙の後、
「……ええ。そうです」と肯いた。
運よく余っていたものを譲ってもらえましたので。続けると、「そうなんだ」とさんは何度か肯く。

「その子にありがとうって伝えてね」
「判りました、言っておきますよ」
「それと」
「はい」
「荒井くんも、ありがとうね」
「…………いえ」

僕はそれだけしか言えず、先に教室に戻りますとだけ残して廊下を駆けた。
自分で買い集めたカードなのだというのは僕はきっと話さないだろうと思った。
今日も、明日も明後日も。その後も永遠に、ずっと。






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