夏と呼ばれる季節に入った。
テレビの中の気象予報士は「連続の真夏日を更新」「熱中症に注意」「観測史上最高気温を記録」のような言葉を毎日毎日繰り返しまくし立てている。
実際、暑い日々が続いていた。
教室の窓を開け放していても授業中は熱気がこもりやすく、集中力が落ちやすい。
体育で外に出る時など特に辛く、太陽の日差しが容赦なく体力を削ぎ落とし、疲労を加速させていく。
普段の授業はもちろん、夏休みに入る前には体育祭といった行事もあるため、僕を含めまわりの皆は忙しい日々を送っていた。



さんとは教室で会話を交わすことはあまりなかった、けれどそれ以外の場所で時々、話をした。
互いに独りの時に、誰もいない廊下で。
僕が初めてその人に出会った、あのコンビニエンスストアで。
学校の屋上という場所に足を踏み入れた事がないという彼女の言葉を聞いて、こっそりと二人で立ち入り禁止の札がついたチェーンを跨いで階段を上り、そこから外の景色を眺めたりもした。
僕は友人に彼女のことを話しはしなかったし、あの人と接触を持つのは状況が許す時だけだった。
さんと僕がこうして会話をしている事など、誰も知らないだろうし気にもかけないだろう。
夏の時間は始まり、少しずつ緩やかに、けれど確実に過ぎていく。
ある日の放課後、日直だった僕は日誌を担任の元へ届けに向かった。
彼女と鉢合わせたのは、丁度用事を済ませ職員室を出たところだった。

「あ、荒井くん。どうしたの? 呼び出しくらったとか?」
「……違いますよ。今日は僕、日直でしたから、日誌を出しに来たんです」
「ふーん、じゃあまあ、そういう事にしておいてあげよう」

わざと信じていないような口ぶりを作りながら彼女は揶揄うような笑みを浮かべた。
僕もそれに合わせて 「本当ですってば」 、と返しながらふと、ようやく最近になって名字を間違えずに呼んでくれるようになりましたね、と内心で呟いた。

「それじゃ、今日はもう帰るの?」
「ええ、そのつもりです。さんは、これからまだ何か?」
「わたしは今日は、もう片付けしたら終わりなんだけどね。帰る前に、図書室に行ってみようかなと思って」
「……図書室、ですか」
「うん。ちょっと覗いてみたくて。……ほら、此処の学校大きいし、図書室も広そうだなーと思って。他の先生方に訊いてみたら、時間がある時にでも行ってみればいいって言ってもらったから」
「それで、これから?」
「うん。覗いて、気が済んだら帰るけどね」

そうですか、と僕は肯いて、続けた。

「では、僕がご案内しましょうか?」
「え、いいの?」
「ええ。……棟が違うので、少しだけ歩くんですよ。一度ついてきて頂いた方が判りやすいでしょうし」
「……じゃあ、お願いしようかな」

僕たちは其々実習生控え室や教室に戻り、そのまま直ぐ帰宅できるように荷物をまとめてきた。
職員室近くの昇降口で待ち合わせ、其処から目的の場所へと向かう。
放課後の校舎内、傾きかけた陽が窓ガラスを透過して、オレンジがかった光を床に投げ出している。
時折何年生ともつかない生徒らが、体育祭の練習のためか体育館やグラウンドへの行き帰りらしく何度もすれ違う。
僕は大した競技にも出ないため、そういった練習とは無縁だった事に感謝した。
もしそうでなかったら、今みたいな時間は作れなかっただろう。
棟と棟の繋ぎ目となる通路に差し掛かったところで、彼女は窓の外を指差した。

「荒井くん、あっちの建物は何年生が使ってるの?」

さんの示した方向を見て、 「あれは旧校舎ですよ」 と僕は回答した。
今は使われておらず、そしてこの夏に取り壊される予定なのだと聞いている。
そのことを伝えると、「そうなんだ」と彼女は再び旧校舎を仰ぎ見た。

「どうりで出入りする人が居ないと思った。随分と年季も入ってるみたいだし」
「今は、立ち入り禁止になっている筈ですよ。床なんかも脆くなっていて危険ですし。……そうでなくても入るべきではないでしょうね、あそこには」
「何で?」
「…………さんは、旧校舎が怖くはないんですか」
「お化けでも出るの、其処」

まあ、旧校舎だけに限らないのですが、この学校は。
そう思っただけで口には出さず、僕は曖昧に言葉を濁しながらも質問を重ねた。

「そういった類の話は平気な方ですか?」
「怖いのは、ちょっと……あんまり得意じゃないなぁ。……そうそう、この間、大学で提出する実験のレポートがあってね。ゼミ室に籠って実験してたら、帰りが夜中の十二時とかになっちゃって。他の研究室とか誰もいないからもうキャンパス内真っ暗で、あの時は怖かったなあ」

でも正直言うと、単位落として卒業出来ないとかの方が今は怖いかな。
そんな事を彼女は口にして笑った。
さんは俗に言う 「怖い話」 に深く興味があるタイプではないのかもしれない。
なら、不必要にこの学校にまつわる諸処を伝えることもないだろう。
そんな事を考えているうちに図書室へと辿りつく。
さんは扉をくぐるなり、感嘆の声を漏らした。

「わたしの居た高校の図書室の比じゃないなあ」

ぽつりとこぼすように一言、彼女が呟いたのも無理はない。
僕も小、中学校で見てきたそれとは比較にならないその空間の広大さに初めて訪れた時は驚いたのを覚えている。
僕は簡単に、どの辺りにどういったジャンルの本があるのかを説明した後、「ぐるっと回ってみる」という彼女と離れ別の本棚の列をあてもなく見て歩いた。
僕自身図書室は週に一、二度は訪れる。
最近は課題を解く際の参考資料ばかり借り出していて、小説や物語を綴ったものに手を出していなかったのを思い出す。
以前から気になっていた作家の棚を見ると、特に読みたいと思っていたものが其処に在った。
手に取りその場でページを捲り始める。
どのくらい経った頃か、ふっと、目の前に手の平が現れひらひらと踊った。

「ごめんね、夢中になってたみたいだから邪魔したくなかったんだけど」

さんは少し申し訳なさそうにしながら両手を合わせ謝るポーズをした。
いえ、と口にしながら慌てて僕は時計を見た。
思ったよりも時は過ぎ、既に図書室内の人の数は目に見えて減り始めている。

「すみません、僕の方こそ本にのめり込んでしまって」
「ううん。ええとね、荒井くんは何時くらいに帰るのかなって。だんだん遅くなってきたから、聞くだけ聞いておこうかと思って」
「……さんに合わせますよ。夏でまだ幾らか外は明るいとはいえ、油断してると直ぐ暗くなりますから、」

さんが宜しければ、途中までお送りしますよ。
僕としてはかなり勇気を持ってそう言葉にしたつもりだった。けれど彼女は特に何も感じなかったらしい。
「じゃあ、あと十分くらいしたら出ようか」
とだけ言い、それから僕の手にしていた本に興味を示したのかタイトルを覗きこんできた。

「あ、これ、現代文の教科書に載ってた小説じゃないっけ?」
「……ええ、そうです。教科書で一部を読んでから、続きが気になってしまって。前から借りようと思っていたものなんです」
「わたしもこの話好きだけど、借りたことはなかったな。読んだら感想聞かせてね?」
「そうですね、お伝えします。……まだ初めの章の途中ですが、今の部分も充分面白いですよ。さんも次に借り出されては如何ですか」
「それは出来るかどうか判らないなぁ」
「何故ですか」
「だってほら、わたし、あと一週間で教育実習終わるし」

現実は、突然その人の言葉で冷たく翳る。

「……読む時間が取れるかどうか微妙なとこだし、だから、荒井くんの感想だけでも聞いておきたいなと思って。もし此処で読めなくても、後で本屋さんとかで手に入れる事も出来るしね」
「…………わかりました」

ならば、今日帰宅したら直ぐにでも続きを読んでしまおう。そして明日一番に彼女に感想を伝えたい。
そう考えながら本の背表紙に挟み込まれた栞の紐を読破したページに入れて閉じる。
不意にさんが、今までとはまた違った柔らかな笑みをふわりと浮かべた。

「……荒井くんはいい子だなあ」
「何ですか、急に」
「だって、色々優しくしてくれるし。素直だし。すごくいい子」

そう言って彼女は手を此方に伸ばす。
何をするのか予想がつかずそのままでいると、頭の上にその手が置かれ、撫でられた。

「……こ、子供扱いしないでください」
「わたしから見れば子供だよ、荒井くん」
「と、とにかくっ」
「もうー、さっき洗ってきたから手、きれいだってば」
「そういう事ではなくてですね、その」

僕が口の中でもごもごと言葉を詰まらせている間に彼女は手を引っ込め、同時に帰宅時間を知らせるチャイムが響く。
窓の外には夏の夜の色が、既に色濃く立ち込め始めていた。




次の日の僕は朝から少し体調が思わしくなく、心配性の母に念のため病院に行くよう勧められた。
医師は、疲れが溜まっているだけだろうという診断を下した。
確かに期末テストも近く勉強疲れもあるかもしれないが、夕べ深夜まで図書室で借りた本を読んでいて寝不足なこともある。
僕はあらかじめ用意してきた鞄を手に、病院から直に登校することにした。
この程度で一日分の授業を聞き逃すわけにはいかない。
今からでは学校に着くのは正午より少し前になるが、午前最後の授業に途中からなら参加できるだろう。
その思いで暑く纏わりついてくる空気の中、陽に照りつけられながら歩く。

しかし下駄箱に靴を入れようとしたところで、僕はある事に気がついた。
周囲の箱の中ほとんどに、クラスメイトの上履きが収められている。
腕時計を見て、丁度今に当たる四時間目が体育であることを思い出した。
今日は確かグラウンドでサッカーの筈だ。皆、今頃準備運動でもしているのかもしれない。
僕は靴を履き換えながらどうしようか考えた結果、図書室へ行く事にした。
今からグラウンドに向かう気にも、教室で漫然と時間を過ごす気にもならなかった。
もし図書室が開いていれば……。

施錠されているのではないかと思ったけれど、扉は抵抗なく開いた。
誰もいない図書室、けれど人の気配がないわけではない。
隣の図書準備室に続く戸が開いており、昼間ではあったが電灯も点けられている。
司書の先生がそちらに居るらしかった。見つからない方がいいのかもしれない。

僕は準備室から離れた方へ足を向けようとして、動きを止めた。
長机の並ぶそのスペース、そのうちの一つの端の席。
椅子に掛けながらも、机の上に半ば突っ伏すように身体を預けているその人が居たからだ。

静かに近付き、僕は彼女を見下ろした。
本やノートが開かれ、シャープペンシルを握った姿勢のままでさんは目を閉ざしている。
つい居眠りをしてしまったというのがとても判りやすい。何故今この時間に此処に居るのかは別にしても。
声を掛ければ直ぐに目を覚ますだろうか。
そう思いながらも、黙って僕はその人を見ていた。
窓からの風が、静まり返った空間の中を通り抜けていく。
直射する太陽が入り込まないこの図書室の中で、それはひどく心地良く感じられた。
白いカーテンが、その風に大きく舞い上がる。

荒井くんはいい子だなあ。
何の脈絡もなくその言葉が自分の中に浮かんだ。
ふう、と胸の内で溜め息をつく。高二にもなった男子に、そんな言葉はないでしょう。そう呟きたくもなるというものだ。

「……子供扱いしないでください」

小さく、そう口に出してみる。
彼女は反応しなかった。
屈んで、その人の顔の傍に位置を合わせてみる。眠っている女性に対して失礼な事ではあったが。
自分の腕時計の秒針の音がいやに大きく鳴っている気がしたが、彼女はやはり目を覚ます気配がない。
この人には、関係のない音なのだ。けれど僕にとってはそうではなかった。
こうしてさんと居られるのがあと僅かなのだと知らせる警告音。そう聞こえてならなかった。
あと一週間。
それだけ経過すれば、目の前の人はいなくなる。
僕はまだ、本当の貴女を知らない。貴女もまだ、本当の僕を知らない。時間が、足りない。

「――本当の僕を知っても、」

貴女は、同じように笑って頭を撫でてくれるだろうか。
さんの口元が、微かに笑みの形を作ったように見えたのは僕の錯覚かもしれない。
磁気に引き寄せられるように、僕は顔を彼女に寄せた。
ふわりとまた、僕たちの後ろでカーテンがはためいていた。





ぱち、と目を開けた彼女はガバと身を起こすと
「まずい! 寝てた!」 と口走った。
僕は平静を装い、取り敢えず 「よく眠っていましたね」 と言うとさんはこちらを見上げて言った。

「荒井くん、今何時!?」
「大丈夫ですよ、まだ四時間目終了のチャイム、鳴ってませんから」

そう教えると心底ホッとしたようだった。ああ、焦って損した。などと言いながら時間を確認している。
それからもう一度僕を見て続けた。

「あ……、荒井くん、今日は具合悪いんじゃなかったの?」
「いえ、大したことありませんので出てきたんです。さんこそ、どうして図書室に」
「ああ、担当授業がなかったから、提出書類書こうと思ったんだけど。折角だから、静かで居心地いいところがいいなあと。準備室にいる先生にお願いしたら、あっさりオーケーくれたし」

そう言って隣室を示す。
けれどその目はふとまじまじと、僕を捉えた。

「荒井くん、やっぱり具合悪いんじゃない?」
「……どうしてですか」
「顔、すごく赤いよ? 大丈夫?」

彼女が僕を覗きこんできそうになって、慌てて顔を逸らした。
今の自分を真っ直ぐに見られるのには耐え難かった。
その後何を言ったのかは覚えていない。とにかく僕はその場から逃げるように図書室を後にした。
その時の記憶に残るもののほとんどは何故か、彼女の事ではなかった。
窓の外に広がる空の青。雲の白。同じ色のはためくカーテン。校舎を抜けていく夏色の風。
唯一の例外に、口元に残るその人のやわらかな余韻。
彼女に伝えるべき本の感想を伝え忘れたことに気付いたのは、昼休みを告げるチャイムが鳴り響いた頃。






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