気がつけば、セミの声が聞こえている。
僕は教科書から目を外すと、窓の外へと視線をさまよわせた。
今朝は布団の中でまどろんでいた頃から大粒の雨が落ちていて、それは確か、この古典の授業が始まる時まで続いていたはずだった。
いつの間に止んだのだろう。外の世界には雲間から顔を出した太陽の光が溢れていた。
校舎のすぐ傍に植えられた樹々、その濡れた緑が、日差しをいっぱいに受けてきらきらと煌めいている。
あまりに眩しく、輝かしいほどに。あまりに光に満ちていて、直視できないほどに。

……気が滅入るような、いい天気だ。

クラスメイトが朗読する古典の教科書に目を戻しながら、そう思った。
夏の陽光が降り注ぐ外界とは裏腹に、僕のこころの中は淀んでいた。
さんが教育実習を終えるまで、あと三日を切ったのだ。
あの図書室で交わした短い会話と時間、あれから後も僕と彼女は何も変わらず、ホームルームで毎日顔を合わせる。
時たま、あまり人が周りにいない時には小さな話をしたりする。笑い合ったりもする。
お互い、きっと、そんな瞬間を楽しいものと感じている。

けれど、それだけだった。
……いや、だけ、などと言うべきではないのかもしれない。
あまり快活とは言えない僕にとって、女の人とそういった関係を保てている事自体、今でも信じ難いところがあったのだから。
ただ、それ以上へと物事が運ぶわけでもなかったし、それ以下に成り下がる事もなかった。
チリチリと自分の中で導火線のようなものが焼けていく感覚だけはあったものの、それをどうする事も出来ずに僕は時が過ぎていくのを見つめている。何処かで焦燥があったにも拘わらず、別の何処かで呆然としている自分がいる。
どうしていいのか判らない自分を、ただひたすらに持て余している。

離れた席の男子が古文の一節を読み終えると、先生は次の席の生徒を指した。
いつの間にか誰かが開放したらしい窓から、微かな風が流れる。
夏の訪れた世界、この四角い空間に閉ざされた教室内を通り過ぎていくその流れに、新たな朗読の声が乗る。
テキストではある古物語の中で、一組の男女が互いへの思慕を綴る場面が描かれていた。
恋愛を主題に据えたものにはあまり深く立ち入ったことがなく、こういった教科書の中のものでは、今まで文章の成り立ち方や単語の意味の方を気に掛けながら読むことが多かった。
けれどふと、この二人はどんな感情を込めて句を詠んでいたのだろうと考える。
一体どんな想いを胸に潜めていたのだろう、自分の感情を嬉しく思っただろうか、それとも苦しいものと感じただろうか。
辛くはなかっただろうか、会えずに悲しい思いをしたりはしなかっただろうか……。

「?」

ポンポン、と軽く肩を叩かれたことでふと我に返り、ぴくりと背が跳ねた。
見れば、後ろの席の女の子がこちらに何かを差し出しながら、片方の手の人差し指を口の前で立てながら目配せしていた。
僕は壇上の先生に見つからないよう注意しながらそれを受け取る。
色紙らしく、しっかりした硬い厚紙の質感が手の中に収まった。
紙面の中は、半分方がもう既に文字で埋まっていた。
右下には目を引くイラストがひとつあり、漫画のようなタッチで描かれた女の人が可愛らしく笑んでいる。
特徴から見る限り、さんをデフォルメしたものだと一目でわかった。
女子の誰か、絵の上手い生徒が描いたのだろうけれど、よく出来ている。僕は少しその絵が気に入った。
その周囲には小さく一言一言、クラスメイトからの言葉が書かれている。

『 教育実習おつかれさまでした 』
『 授業楽しかったです 』
『 いい先生になってください 』 ――。

なるほど、もうじき此処を去るさんへ贈るための色紙を作ろうとしているらしい。
席順に回されてきた其れを、僕は少しの間眺めた。皆、本心からかどうか怪しい文言を平気で書き連ねている。
しかし僕は心からの言葉を贈りたい。何て書いたらいいのだろうか。
考えてみたけれど、たった一言に集約するのは難しかった。
けれど僕の順番で色紙を回す流れが長く止まってしまうのも不自然だ。
迷った末に、ボールペンで

『 またお会いできる日を楽しみにしています  荒井 』

と書き、先生の様子を窺いながら前の席の生徒へそれを回した。
色紙が僕の手を離れてから、やはり別の言葉の方が良かったかもしれないと、少し後悔した。




さんは、いつ大学の方へ戻られるんですか」
「実習が終わる次の日の午前中には、帰ろうかなって思ってるよ」

僕の質問に、彼女はあっさりとそう答えた。
色紙に文字を綴った日の放課後のことだった。
考える素振りもなかったので、おそらく以前からそういう段取りにしようと決めていたのだろう。
この人は実習が終わってしまえば、すぐに元いた場所へと帰ってしまうのだ。
そしてきっと、此処には二度と戻ってこない。

「四年生にもなると、ほとんど大学の講義もないんだけどね。卒論にも取り掛からないといけないし、色々とやる事はあるのね」
「…………」
「もう少し時間があれば、この辺りを散策とかしてみたりしたかったんだけど……。ほとんど近場のスーパーとかコンビニくらいしか行った事なかったしね」
「…………」
「ついこの間だと思ったんだけどなぁ、この学校に来たのは」

本当に、その通り。
あなたはつい数週間前に現れ、ほんの僅かな時間を此処で過ごした。
そしてもう間もなく僕の前から姿を消してしまう、あなたがこの場所に居たという空気をきっとほとんど残すことなく。

僕は何を口にするわけでもなく、さんがプリントを机上で整理するのを見ていた。
彼女は図書室が気に入ったらしく、放課後になるとやって来るようになった。
其処で何か書き物をしていたり、本棚の通路を見上げながら歩いたりする。
僕も自然、以前よりも図書室へ足を向ける頻度が増した。そうして彼女と今のように話をする。
静かに傍で本を読んだり、課された宿題を解く。そうしながらそっと、近くにいる人のことを考える。
そうした時間は、あと数日で終わりを迎える。

教育実習生としてのさんが、今しか存在しないのは判っていることだった。
この期間を終えて元の生活に戻れば、そこにいるのはもはや実習生の彼女ではなく、ふつうの学生としてのさんだ。
もう僕とは何の関わりもない人間に成り代わってしまう。
その事を僕は、最初からわかっている筈だった。

「…………ます」
「え? 何?」

無意識に僕の口からこぼれ出た言葉の末端を拾ったらしく、さんが聞き返してくる。
言ったところでどうにもならない事だったけれど、少しでも吐き出してしまわないと胸が潰れてしまいそうだった。
僕は音と共に、息を自身の内側から送り出した。

「……寂しくなります」

ほんの少しでも心の澱が消えればと思ったけれど、何にもならなかった。
さんがすぐ目の前から消えてしまうなんて判っている事の筈だったし、実際、それを僕は理解していた。
けれど、理解することと事実を受け入れることは全く違うことだった。
一言ぽつりと口にした後に沈黙を落とした僕の事を、彼女がどんな眼差しで見るのか判らない。
俯くと前髪が僕の視界を覆ってくれたので、さんの目を見なくて済んだ。
少しだけ間が空いたけれど、長い時間のように思えた。

うん、そうだね。

そんな彼女のいつもと変わらない声が、自分の中を通り過ぎた気がする。
この人の中で、僕は、どんな存在として記憶されるのだろうか。
そしてさんの記憶中の僕は、いつまで彼女の中にその身を置くことが出来るのだろうか。

不意に顎の下に、何かしなやかな感触を感じた。
次の瞬間には自分の意思とは関係なく上を向かされていて、すぐ傍にさんの顔がある事に僕は慌てた。
一瞬のことだったけれど、その人の手が僕の顔をぐいと上げさせていると気付くのに幾らかの時間が必要だった。
幸いその時の図書室には人も少なく、僕もあまりの事に声を上げさえしなかったので誰にも見られはしなかったけれど、それにしても突然何をするのだろうか。
僕がどぎまぎしながら 「な、何ですか」 、と口走りながら後ずさると、彼女はいつもと全く変わらない様子で言った。
「いや、ちょっと、なんとなく」 。
なんとなくで、男子高校生の顔に触れるものだろうか。
そんな僕の言いたい事が表情に出ていたのだろう、ごめんごめんと向こうは手を合わせてきたけれど。

「ね、荒井くん」
「……何でしょう」

僕は今不意打ちされた事もあって、やや警戒気味に言葉を返した。
また何かささやかな悪戯を仕掛けてこないとも限らないのだから。
彼女はそんな僕の事を見つめながら今度は自分の顎に手を当てた。
考え込むように小さく唸り、直ぐに「うん」、と自ら肯いた。続けた。

「ちょっと猫背で俯いてる時の荒井くんもかわいいけど、背筋伸ばして真っ直ぐ目線の荒井くんは格好いいかもしれないよ?」
「……どうして最後は仮定なんですか」
「だって、ちゃんとそういう姿勢してもらわないと判らないから」

そんな事を言って彼女は 「ねえほら、やってみようよ」 と僕の背を擦ろうとでもしたのか手を伸ばしてくる。
自分本位の行動なのか、それとも僕の沈んだ空気をかき消すためのものなのか判断しかねた。
或いは、どちらでもあるのかもしれない。
結構です、と断りを告げその手から逃れながら小さくふざけ合う。
互いに笑い合いながら同時に思った、このささやかな時間も直に、思い出の一欠片になるんだろうと。
また一つジワリと、胸の奥底で染みに似た何かが広がっていった。






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