下駄箱の並ぶガランとした空間に、夕暮れの風が抜ける。
開け放たれた玄関の扉、昇降口。その向こうから遠く、学校の生徒の声が時折音として届いている。
普段の部活動に加え、体育祭の練習が徐々に始まる今の時期は学校全体が活気づいていると言っていい。
いつもなら既に帰宅している筈のクラスメイト達も、まだ大半が残っているようだった。
自分のクラスの靴箱を見ると、通学靴が入ったままのものが多く目に付く。
最近は皆、其々放課後にやるべき事があるようで、それは僕の友人達も同じだった。
帰りの通学路を共にする日が一時的に減り、自分の為すべき事を終えてから各自独りで帰宅するというパターン。
今日も、そんな日々の一部だった。
僕のように綱引きくらいにしか出場しない者には特に練習など必要なかったし、図書室も今日は図書委員会が会合に使用するという事で開放されていなかった。
だから早々に帰路につくために自分はこうして今、此処にいる。
赤みがかった陽の光が当たるコンクリートの床に外靴を置く。
もうこの一日が終わってしまう、その事を思うと茫然とした感覚がふつふつと沸き上がった。
明日で、僕のクラスに来ていたあの人の教育実習は幕を閉じることになる。
どうにもならないことを考えると頭の中が形をとらない何かで重たくなり、立ち上がるのさえ億劫に感じられた。
僕以外誰もいない下駄箱の前、寂とした空気だけがただ其処に在る。
しばらくの間、僕は上り框にかばんを下ろしたまま何処を見るでもなく座り込んでいた。
相変わらず、自分がどうするべきかも判らないまま、時間だけが流れるように過ぎていく。
「――は」、と僕は声に出して自嘲した。
どうするべきかなんて、本当なら考えるまでもない事だ。
僕はただ、最初から最後まで彼女の受持つクラスの生徒で在り続ける。
それだけでいい事だった、それ以上何かを欲するなど望むべくもない。
仮にそうしたところで、さんは困ってしまうだろう。
彼女から見ればまだ子供でしかない僕に出来るのは、笑ってその人をこの場所から見送る事だけだ。
何を思い悩む必要があるのだろう。
僕は頭を振ると重い腰を上げ、そのまま校門を出た。
空はまだ明るく、昼間の熱気の名残が辺りにまだ漂っている。
見慣れた通学路、見慣れた風景、見慣れた夏と言う時間。
その中に此れまでは組み込まれていなかったにも拘わらず、今は存在しているものがあるとするなら、それは。
帰途につく途中にあるコンビニエンスストアのガラス窓越しに、僕は目を滑らせた。
窓際に際した雑誌のコーナーには数人の立ち読み客がいつものように視線を自分の手元近くに落としている。
その中の一人、見知った顔の人を少しばかり見つめていると、向こうはふ、と顔を上げた。
それまでほとんど無表情にページを繰っていた彼女の表情が、パッと綻ぶように笑みで彩られる。
――笑顔を向けられているというのに、何故、こんなふうに胸が痛むのだろう。
そんな事を思う間にも、さんは読んでいた雑誌をラックの中に戻すとそのまま早足にコンビニのドアを潜り、僕の傍へやってきた。
「荒井くん、今帰り?」
「ええ。さんも、今日はもう……?」
「うん、図書室も閉まってたしね。……今日はもう荒井くんと会えないと思ってたよ」
そう言って彼女は笑みを形作る。
こういう時はどんな言葉を返せばいいのだろう、見当がつかずに黙って微笑むのに留めた。
ここ最近、自分のあまり気の利かないところを呪ってばかりいるように思う。
もっと上手く僕自身の思うところを伝えられる人間であったなら、どんなにか良かっただろう。
そう思うと、また胸の奥にジクジクと痛みを引き起こす液体のようなものが広がったけれど、其れを無視して口を開きかけた。
何でもいい、何か他愛のない、些細な話題でも持ち出そうかと。
そうしていつもと変わらないお喋りに興じて、別れて、いつもと変わらない一日の幕引きをしようかと。
しかしそれより先に、口を開いたのは彼女の方からだった。
「ね、荒井くん」
「……はい?」
僕は開きかけの口を元に戻してから、一呼吸置いて返事をする。さんはそのまま続けた。
「今、時間大丈夫かな?」
店は大通りから少し道を外れた、目に付きにくい場所にあった。
こじんまりとした静かな和菓子の店。
店内の奥、一つしか置かれていないテーブルには幸い先客もおらず、僕たちは二人で腰を下ろす事が出来た。
「……もっと若い人向けのお店の方が良かったかな」
「いえ。僕はこういう所、結構好きですよ。それにさんは、此処に来てみたかったんでしょう?」
「うん、この前ここ通った時からちょっと気になってて。……えーと、先週地上波でやってた邦画、荒井くんは観た?」
「金曜日のですよね、ええ、観ました」
「あ、じゃあ。冒頭に出てくる主人公が立ち寄ってたお店の感じ、覚えてる? なんとなく此処、雰囲気が似てるなぁって思ってたんだけど」
「そう言われてみれば……そうですね」
僕は小さく首を動かして周りを振り仰いだ。何処となくブラウン管を通してみた場面に似た空気がある。
彼女の言葉を肯定すると、
「やっぱりそうだよね! わー、わかってくれる人が居た!」
そう言って彼女は両拳を握って小さくガッツポーズをした。その様子につい苦笑してしまいそうになる。
こういう時のさんは、僕よりずっと年上の女性なのだとは思い難かったから。
「だから一回来てみたいなーって思ってたんだけど、独りだとなかなか入りにくくて。今日は荒井くんとタイミング良く会えて良かった、付き合ってくれてありがとうね」
独りより二人の方が楽しいし。
そう繋げて彼女はにこにこした。
一軒くらいは、ここの県で何か美味しいものを食べておきたいと思っていたのだと彼女は言う。
明後日には此処を発つさんにとって、こうした場所で時間を過ごすのはきっと最初で最後のことなのかもしれない。
その時間の中に自分と言う存在を加えてくれた事を僕は嬉しく思う。
例え彼女にそれ以上の他意がないのだとしても。
小さな事を幾つか話した。
先程の邦画の話の続き、一転して体育祭についての事、彼女の高校時代はどういった競技や種目を担当したか。
図書室にもう訪れる事はないだろうという話、先日僕が読んだ本の感想に加えて他に推薦したい著者、逆にさんの薦めるもの。
近く映像化される予定の小説、その原作についての思うところ――。
目の前に置かれた冷しぜんざいを互いにゆっくりと味わいながら、取りとめもなく話した。
出来るだけ今日の事を憶えていようと思った、そして僕は未来にそれを持っていこう。
それだけなら彼女に迷惑をかける事もない、僕だって少しは、ほんの少しくらいは、自分の裡を埋める事が出来るだろうから。
「――じゃあ、大学戻ったらその作者の本、探してみようかなぁ。……ああ、それでね、荒井くん」
「はい」
そんな何気ない会話の流れの中だったので、僕は相槌を打ちさんの言葉の続きを何も構えずに待った。
彼女は言った。
「ありがとうね、その、色々」
「さっきも聞きましたよ、それは」
「うん? ……ああ、このお店に付き合ってくれたのとは別の話。今まで色々とありがとうってこと」
「……何ですか、突然」
僕は少しだけ首を傾げてみせた。
向こうはと言えば、再び 「うん」 と一度肯いて見せてから、ゆっくりと木べらのスプーンで陶器の中の小豆を掻き回している。
掬い上げた暗赤色の粒を口に入れ咀嚼し、嚥下してから、ごくいつもの調子で続きを告げた。
「教育実習に来るのが、最初はすごく怖かった」 と。
僕は自分のスプーンを動かすのも忘れて口を噤み、黙って目の前の人を見る。
「正直、本当は実習来るのすごく不安だった。……だって全然知らない土地で、全然知らない学校で壇上に上がって、何十人て視線に晒されるわけだから」
それが怖かった、と彼女は続けた。我ながら情けない事なんだけど、とも。
「だったら教育実習になんて来なければいいって話だろうけど、でも自分で決めた事だったから。とにかく最後まで頑張ろうと思ってはいたんだけど……どんな時間を過ごす事になるのかっていうの考えると、楽しみっていうよりどうしても怖いっていうのの方が強かったよ」
僕は最初の頃のさんの様子を思い出した。
担任に紹介されてクラスメイトの注目を浴びる時の薄く赤みの差した顔。
彼女の担当した教科の授業内でも同じ様子で上手く口が回らないことがあったし、本人もあまり人前に出るのは得意ではないのだと話していた。
その気持ちは僕もわかる。
必要以上に自分を見ないでほしい、放っておいてほしいと今まで生きてきた上で何度思ったことだろう。
「だから、最初の頃はちょっと気が滅入ってたりしてたんだけど。……でも、今は来て良かったって思う。クラスの皆も仲良くしてくれたし、何より荒井くんがやさしくしてくれたし」
「…………、いえ、その。僕は」
「うん? 僕は?」
「その……」
さんが僕の言葉をゆっくり促したけれど、意味を連ねる文章を構成することがなかなか出来ない。
口の中でもごもごしている僕を見て、彼女は少しニヤニヤしている。今の自分の様子を愉しんでいるのだ。
折角この僕が、こうして一生懸命伝えたい事を紡ごうとしているというのに。
壇上に上がる時と、僕といる時とでのこの違いときたら。
「……何でもありません!」
「あれ、怒った?」
「怒ってなんか」
いません、と繋げようとしてそのまま音をのみ込んだ。
さんの片腕が此方に伸ばされている。
一瞬動きを止めると、その隙にその人は手のひらを僕の頭の上に置いてしまった。
先日の時と同じようにその手にやわらかく撫でられる。
言葉が口をついて出るまでの準備が整わずに、僕は口だけを酸欠の金魚のようにパクパクさせた。
「可愛いなあ、荒井くん」
「だ、だから、子供扱いしないでくださいっ」
「ああ、それは失礼」
然程反省する様子もないまま、そう言って僕の上から手を退ける。
相変わらず向こうはニヤニヤしていて少し憮然としたが、僕も何だか自分の滑稽具合がおかしくなってしまい、少しばかり失笑した。
この人の前では、僕はきっとずっと子供のままなのだろう。
会えなくなれば、例え記憶の中に留めてもらう事が出来たとしても、今の僕しか覚えていてもらえないだろうから。
そう思うと少し寂しい気持ちになる。
出来る事なら、これから成長を迎えるであろう自分の姿も見てほしかった、憶えていてほしかった。
そんな未練がましい思いを浮かべているうちに、彼女はちらと腕時計に目を落とした。
「遅くまで付き合わせちゃったね。そろそろ出る?」
「……はい」
名残惜しかったが断るわけにもいかない。
ふと卓上を見ると、いつの間にか伝票は彼女が手にしている。
僕が口を開く間もなく、会計を済ませてしまうまでそう時間は掛からなかったように思う。
支払い終えた彼女は 「僕が払う」 と言っても代金を受け取ろうとはしなかった。
「荒井くんに付き合わせたのはこっちだから、気にしないで」
「いえ、そういう訳には」
「こういう時くらい先生に奢らせてくれてもいいんじゃないかな、荒井くん」
「でも」
「……うーん、じゃあわかった。こういう事にしようか」
言い募る僕に、さんはある提案をした。
「今回はわたしに奢らせて? それで、『 今度 』 の時は、荒井くんが奢ってくれる。それでどう?」
「…… 『 今度 』 ?」
「うん」
それであいこになると思うけど、と返答を待つその人の口の端は、いつものようにやわらかく持ち上げられている。
不意に、自分の中の何処かで 「急がなくてもいいんだ」 、という言葉が囁かれた。
自分の声でもあるように思えたし、知っている誰かの声であるようにも思えた。
何を思い詰めていたのだろう、まだ何もかも、始まりを迎えたばかりだというのに。
ややあって、僕は 「わかりました」 と肯いた。
「その時は僕が持ちますからね。……次は、何処で何を食べたいか考えておいてもらえますか?」
「うん。そうだね、じゃあ今度は荒井くん、うちの大学祭の時にでも遊びにおいでよ。いろいろ向こうのお店とか連れてくから」
「ああ、いいですね。今から楽しみにしていますよ」
さんが何処まで本気で言っているかは判らなかったが、そんな事はどうでもよかった。
彼女がそう口にしてくれるだけで充分だった。
僕たちは互いにそんな未来の予定を組み立て合いながら和菓子店を出た。
陽が落ちてようやく気温が下がってきたらしい、頬を撫でる風が心地良い。
僕はそっと空を見上げながら空気を吸い込んでみる。
濃紺に染まり始めた世界に吹く風は、鮮やかな夏の匂いに満ちていた。
次の日の帰りのホームルーム。
淡々と連絡事項を告げ終えた担任は、最後にさんの実習が無事終了したことを知らせた。
次いでクラス委員の女生徒が事前に用意していた寄せ書きの色紙と共にささやかな花束を彼女に渡す。
さんは照れくさそうにしながらも其れを受け取り、少しの間色紙を眺めていた。
放課後にその人の後ろ姿を見掛けたのは、職員室に通じる一階廊下でのことだ。
他の生徒の足音や話し声がさざめくように響き渡る通奏低音の中でも、名を呼ぶと彼女は直ぐに気付いてくれた。
「あ、荒井くん。見て見て、いいもの貰っちゃった」
そう言って花束や色紙を示してみせる。
その顔はとても穏やかだった、今日という日をさんがその表情で迎える事が出来て良かった。
そう思っていると、ふと彼女が、あれ、とでも言いたげに此方を見る。
「……荒井くん、ちょっと背、伸びた?」
「え? ……そんな、急に伸びるとは」
「ああ、背筋伸びてるからそう見えたんだね。やっぱりその方がかっこいいよ」
言って、背丈と比べようと彼女は自分の頭のところで止めた手を僕に当て嵌めようとする。
慌てて僕は半歩程下がった。最後の最後にそんな事をするのは勘弁してほしいと思う。
出鼻を挫かれかけたけれど、何とか続けて、言った。
「ええと、今までお疲れさまでした。あの……、大学に戻られてからもどうぞお元気で。それと、これ、……どうぞ」
そう告げて僕はおずおずと一つの封筒を差し出した。
彼女は 「何?」 と訊ねながらも笑みを絶やさずにそれを受け取ってくれる。
「以前にお渡ししたナンバー6と9のキャラの別カードです。その……友人が、こっちのカードもダブりが出てしまったというので貰っておいたんですが、よろしければ」
「わ、本当? 嬉しい!」
こっちのバージョンはなかなか出ないからとうの昔に諦めていたのに、とさんは子供のように喜んでくれた。
「今は手荷物が多いでしょうから、後で見てみてくださいね」 と言い添えると大きく肯いてくれる。
――封の中にカードと共に忍ばせた、僕からの手紙にこの人が気付いてくれるのはいつになるだろうか。
彼女の事だから割と直ぐに目を通してくれるとは思うが。
僕はその事については直ぐに思考を切り替える事にし、別の事を口にした。
「……今日はこのまま帰宅されるんですか?」
「うん。明日には向こう戻るから、荷作りとかしないとね。まあ、そんなに荷物もないんだけど」
「そうですか。……そうでなくても今日は早めに帰る方がよさそうですね」
僕は傍らの窓から覗く空の様子に目をやった。
このところ、六月と言う暦に似つかわしくないような晴天が連日続いていたというのに、今日に限って重たい色の雲がいっぱいに垂れこめている。
雨は落ちていないものの、いつ降り出してもおかしくないような空模様だった。
「さんの実習最後の日だというのに……出来れば今日だけは晴れてほしかったですね」
「まあ、こればっかりは仕方ないね。それにわたしは結構こういう天気好きだよ、何か起こりそうな感じで」
彼女は本当にそう思っているようで、外を仰いで何処か嬉しそうにした。
直ぐに此方に向き直り、改めて僕を見据えた。
「さてと、実習生として荒井くんと会うのはこれが最後だね」
「……そうですね」
「楽しかったよ」
「……良かったです」
「じゃあ、はい」
彼女は片手を僕に差し出した。
頭を撫でる時とは違い、下の方でその手が僕に何かを求めている。
一瞬どうすればいいのか判らなかったものの、次の刹那には彼女の意図を理解していた。
僕は自身の片手をその手に添えて軽く握った。
やわらかな手の平がそれに応え握り返してくれる。僕たちは短い握手を交わした。
「実習に来て良かったよ。荒井くんに会えて、良かった」
「――僕も同じように思っていました」
あなたに会えて、本当に良かった。
僕たちは小さく微笑んだ。
職員室で先生方に挨拶してから帰ると言うさんを僕は見送った。
明日には彼女は居なくなる、けれどそれは今まで僕が悲観してきた程の事ではないのだと思う事が出来た。
会おうと思えば会えるのだ。そう考えると、前を向く事が出来るのではないかという気さえしてくる。
僕がひとまず自分の教室へ戻ろうと踵を返しかけた、その時の事だった。
「おおい、荒井!」
何処かで聞いた事があるような声は遠く背後から掛けられたものだ。
振り返れば、眼鏡を掛けた男子生徒がぶんぶんと手を振っていた。
同学年ではない、上級生だ。早歩きに近付いてくる間に僕はその人が誰なのかを思い出した。
去年僕がサッカー部に所属していた頃、何度か彼が出入りするのを見ている。
彼自身がサッカー部員というわけではない、確か新聞部の取材だと言って、先輩達にインタビューしていた筈だ。
名前は、そう、
「……日野さん?」
「おお、覚えていてくれたか。嬉しいねぇ、去年会ったっきりだっていうのに。いい後輩を持ったよ俺は」
そう親しげに言う日野さんは人の良さそうな笑みを浮かべ、僕の背を叩いた。
僕と彼自身は、その取材の際にほんの少し言葉を交わしただけに過ぎない。
そう親交が深くもない相手にするには馴れ馴れしいとも取れる行動だったが、彼がやるとそう気分を害するものでもなかった。
「お久しぶりです。どうしたんですか、僕に何か用事でも?」
「まぁ、な。……なあ荒井。お前、この後何か予定はあるか」
「いえ、今日は特には」
「そうか、じゃあ一つ頼まれてくれないか」
「……何でしょう」
無下に嫌だと言う訳にもいかない。
僕がひとまずその内容を聞く姿勢を見せると、一つ上の先輩は嬉しそうにした。
「実はな、今度新聞部で 『 学校の七不思議の特集 』 を組むことになったんだよ。旧校舎が夏休みに取り壊されるのは知ってるだろう? その記念企画でさ。要は、高校の中で語り継がれてる怖い話を取材するんだ。そういうのを知ってる奴らを集めてな。……で、今日がその取材の日なんだが、俺のミスでその怖い話をしてくれるメンバーの頭数が足りなくなっちまったんだ。そこで」
日野さんは大げさな仕草で僕を指した。
「首尾よく俺の目の前に現れてくれた荒井に白羽の矢が立ったわけだ。……なぁ、急で悪いんだが引き受けてくれないか? お前ならそういう話の一つや二つ知ってるだろ? 頼むよ」
何が首尾よくなのだろうと思わないではなかった。
けれど両手を合わせながら頭を下げるこの上級生に拒絶を示すのも気が引ける。
確かにそういう類の話を幾つか僕は持ち合わせている。
それに今の僕は機嫌が良かった事もあり、少し考えた後にその申し出を承諾する事にした。
僕でよいのでしたら、と告げると向こうはホッとしたように顔を上げた。
「助かるよ。じゃあ、直ぐにでも新聞部に向かってくれるか、俺の後輩がもうじき取材に行く筈だから」
「日野さんは?」
「ああ、本当なら俺も後輩と一緒に話を聞く予定だったんだが、担任に急用で呼び出されちまってな。終わり次第俺も顔を出したいと思ってるんだが」
参ったよ、という表情で彼は頭を掻いた。
日野さんも日野さんなりに忙しく毎日を過ごしているようだ。
とにかく引き受けた以上、僕はこれからその新聞部の部室に向かうべきなのだろう。
先輩と別れると、一旦鞄を取りに自分の教室に戻り、それから目的地へと赴く。
ふと棟と棟の繋がる部分、そう、ついこの間さんと歩いたばかりの通路から望める外の景色を見た。
相変わらず鈍い色をした雲が頭上に居座り続けている。
その背景も相まってか、旧校舎はいつもにも増して不穏な空気を纏っているように感じられた。
僕も天気が崩れる前に帰った方が良かったかもしれないと思うが、今更すぎる事だった。
せめて、その取材とやらがそう長引かなければいいのだけれど。
そう思いながら室名のついた札に 『 新聞部 』 と書かれた部屋の前に立つ。
話を聞けば僕以外にも取材される人が来る事になっているらしいが、中からは音一つ聞こえてこない。
まだ誰も来ていないのだろうか。
何故か一瞬、背筋をぞくりとしたものが通り抜けた。
……気のせいだろうか?
僕は独り頭を捻った。どうしてだろう。この場所に立ち入る事を躊躇っている自分がいる。
……いや、きっと僕は取材されるという慣れない立場に緊張しているだけなのだろう。
そう考えた僕は、さっき別れたばかりの人のことを思った。
去り際にくれた彼女の言葉を思い返すだけで、勇気が出るような気がした。
僕があの色紙に書いた言葉に対する、その人からの応酬。
――わたしも次に会える時を楽しみにしてるよ。
「僕も楽しみにしています、さん」
僕は呟くとそっとドアノブに手を掛け、その扉を開いた。
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