目を開ければ、いつもと変わりない時間がそこにあるはずだった。
いつも通りの朝、少し気だるい寝覚め、ただそこにあるだけの天井、寝返りを打った時に付くベッドのシーツの起伏。
見慣れた日常が当然のように存在していて、夢から意識を取り戻したわたしを出迎えてくれる。
これまで生きてきた中で、それが覆った例は一度たりともない。
だから、これからもそうなのだろうと漠然と信じていた。

目蓋を閉じたまま眠りと目覚めの間をゆるゆると行ったり来たりしながら、今日は何をしようか、というのを考える。
特に予定のない日だった。
大学の四年に在籍し、それも暦は既に三月を数えている。
卒業論文も提出を終えていて、卒業式までの十数日、時間はほぼ自由である。
冬の寒さも緩んできていたから、歩いてほんの少し遠出をするのもいいと思う。
散歩がてら街まで出てブラブラして、そのまま大学の方へ赴き、最後に食料の買い出しをして帰ってこようか。
うとうとと緩やかな朝をまどろみながら、わたしはのんびりとそんな想像をした。
きっといつも通り、平和な一日になることだろう。


想像というのは、時として大きく覆される。
ゆっくり寝台上に起き上がって大欠伸をひとつしようとした頃にようやくふと、自分が全く見知らぬ場所にいる事に気付く。
声も出なかった。
ベッドの上にいるのは確かだ。しかし、明らかに慣れ親しんだ自分の寝床ではない。
黙ってぐるりと見回してみても、まるで要領を得ない。
小奇麗に整えられた一室は、やはり身に覚えのない空気に満ちている。
どこかしら落ち着いた印象はあるものの、あまり物もなく生活感は感じられない。
まったく知らない小部屋の中でただひとり、自分という存在だけがぽつりとここにある。



疑問符が頭の上に浮かんでいるのがよく分かる。
沈黙のままに、今度は自分自身を見下ろしてみる。
床に入る前に脱いだはずの服を何故か着ていて、それ以外には特に持ち物も見当たらない。
足先から自分をひとつひとつ辿って、わたしはふと、愛用の腕時計を巻いているのに気付いて反射的に盤面を見た。
時間は、狂っていなければいつも目を覚ますのとほぼ同じ時刻を示している。
もう一度周囲を見回そうとして、今度は足元にわたしの靴が置かれているのを見つける。
わたしは少しだけ考えて、しかしそのままそろりと足を下ろした。室内で靴を履いて歩くのには抵抗がある。
床がひやりとして冷たい。なんとなく忍び足で歩く。

窓らしいものは見当たらない。
外の様子を窺うことは出来なかったので自然、目は部屋の扉に向けられた。
そっと近付いて、その向こうに耳を欹ててみる。微かに人の気配がした。話し声らしきものが聞こえるのだ。
果たして開けていいものかどうか判断に迷うが、このままでは埒が明かない。
意を決して扉に手を掛けた瞬間、ノックがあった。
控えめな調子だったにも関わらず、一瞬ギクリとする。
刹那、棒立ちになったわたしの額を開かれた扉が直撃した。

「ぶっっ!!」

今日、初めてわたしが発した声がこれである。
何と言うか、色んな意味でひどいと思う。誰も得をしないコントではないか。
思わずしゃがみ込んで呻いたけれど、すぐに近くからの視線があることに気付いてふと顔を上げる。
片手に膳のようなものを持った吃驚顔の女性が立っていて、ぎょっとしたようにわたしを見下ろしている。
しかし、わたしの方こそぎょっとした。
どう見てもその人の丸くなっている目は青色、髪は栗色で、顔立ちも西欧人のものなのだ。
どういう状況だろうと改めて思うが、ひとまず何か聞き出すより他にない。言葉が通じればの話だが。
そう思ったけれど、地味に今の直撃を受けた額がジンジンと痛んだ。

「痛たたた……」
「ご、ごめんなさい! ドアの目の前にいらっしゃるとは思わなくて」

思わず呻くと、向こうは慌ててそう詫びの言葉を口にする。
それを聞いて内心、おお、と思った。
なかなかどうして、流暢な日本語なのである。
良かったと心底思う。わたしの英語と第二外国語の成績は、単位取得ギリギリレベルなのだ。
そんなことを考えている間にも、向こうはわたしの手を取り立たせてくれた。

「気分はお悪くありませんか」
「えーと……一応、大丈夫です」、そう答えれば、彼女は安堵したように微かに笑んだ。
「良かった。食事は、ここに置いておきますね」
「はい、あの、……どうも」
「いいえ。――私はこれで失礼します。あなたが目を覚ましたと、ボロミア様にご報告しなくては」

そう言いながら足早に部屋から出て行こうとする。
わたしは思わず拾いきれなかった単語の欠片を繰り返した。

「ぼ……、何ですか?」
「ボロミア様です」
「ぼろ、み……?」

たどたどしく言うわたしにその女性は、
「あなたをここまで連れてきてくださった方です」、とそれだけ言い残して部屋を出ていった。
残されたわたしはといえば、相変わらず疑問符しかない。
わたしをここまで連れてきたとはどういう意味だろう。
そういえば、ここが何処なのかというのを訊くタイミングも逃してしまった。後で教えてもらえればいいのだけれど。

しかし、何が起きているのだろう。
わたしは自分のことを振り返った。
何か日常が覆されるような、そんなフラグを立てるような真似をしでかしただろうか?
……まるで心当たりがなかった。
今の今までそれなりに普通に生きてきただけで、唐突に見知らぬところに投げ出されるような覚えはない。

わたしは首を傾げ、またもや辺りをただ見回した。行き着いた先は小さなテーブルの上である。
わたしは彼女が置いていったテーブルの上の膳を見下ろした。
果たしてこれは、あっさりと頂いてしまってよいものだろうか。
悪意はこれといって感じられなかったように思う。
けれど、事態を判断するには時期尚早だろう。
例えば、何か一服盛られていないとも限らないではないか。この、あまりに奇妙な状況からすれば。
「食欲がない」とでも言って遠慮しようか。
わたしはそんなことを思った。
お腹が鳴り始めた頃には、その信念も揺らぐことにはなったのだけれど。
これからへの漠然とした不安よりも、今この瞬間、空腹が理性を打ち破ってしまわないかどうかの方が心配だった。






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