大柄な背の人だな、と思った。
体躯もそれに見合ったもので、わたしの一回りも二回りも大きいだろう。
こう言うとただ屈強そうな印象になるかもしれないが、実際のところそれだけでもない。
鋭さを備えた目の奥には深い碧の瞳が置かれていて、それがとてもきれいな色なのだ。
初対面だというのについその色に見入ってしまって、
「何か?」と向こうに訊ねられてしまう有様だった。

「えっと……きれいな色の目をしていらっしゃったので、つい」

不躾を詫び、ひとまず頭を下げておく。
向こうはといえば、一瞬呆気に取られたような顔になった。初めて交わす言葉としては、予想外のものだったのだろう。
わたしもわたしで、うっかり思ったままを口にしてしまう程度には、そこそこ混乱しているらしい。
仕方ないのだ。現在進行形で、まだ状況が何一つ掴めていないのだから。
わたしは改めて、目の前の男の人を見た。
さっきの呆気に取られ顔は既になく、寧ろ小さく笑んだように思える。苦笑だったかもしれないが、何とも判断はつかない。
端正な顔立ちをしていたので、目元が微かに細まって笑みの形になると、一層それが引き立ってみえた。

「そうか、褒められたようだな」
「あの、えっと……」

どうしよう。何を話したものか、いまいち勝手がわからない。
口籠っていると、向こうが「おや」というように瞬いた。

「……あまり食べていないようだが」
テーブル上の膳を一瞥して続けた。
「食欲がないのか?」
「ええと……、まあ」
「毒など入っていないぞ?」

わたしが漠然と考えていた事を、向こうはあっさりと言ってのける。
もっとも本当のところ、本気でそういうのを心配していたわけでもない。
自分の置かれている状況が全く呑み込めない今、目の前に差し出されたものを安易に受け入れることに抵抗がある。
ただそれだけのことだった。
その人はといえば、冗談のつもりで言った言葉だったのかもしれない。
わたしが沈黙したのを一瞬不思議そうに見て、それから表情を少しだけ和らげた。
彼は卓上の白いパンに手を伸ばすと一千切りし、躊躇いなく自分の口の中に放り込んだ。
わたしの目の前でごく普通に咀嚼し、飲み下し、嚥下する。

「これで安心したか」

そう言って彼は、こちらの方を見た。
……不思議な声だ、と唐突に思う。初めて会う人の筈なのに、何処か安心出来る声なのだ。
わたしは取り敢えず二、三度肯いておく。
少し言葉を重ねたおかげか、幾らかは落ち着いてきた気もする。
ついでにお腹も改めて空いてきたのだが、しかし今は食事どころではない。
知りたいことが山程あるのだ、そして其れは、向こうも同じようだった。

「名乗りが遅れたな、失礼した。――私はボロミア、ゴンドールの執政デネソールの長子だ。そちらの名を伺いたい」
「……です。あ、名字がで、名の方が、です。」

わたしはひとまずそう名乗った。
名乗ったはいいが、幾つか解せない単語の羅列があった。果たして突っ込むべきだろうか。
彼は顎のあたりに手をやりながら「ふむ」と軽く息をつく。

「不思議な響きの名だ。余程遠くの地からの来訪か……」

問いかけと言うよりは独り言に近かった。
そんな向こうの呟きに、わたしは曖昧に首を傾げてみせる。
わたしからすれば名前にしろ何にしろ、向こうの方が不思議以外の何物でもない。

「生まれは何処になるのか聞かせてはもらえぬか」
「えっと……それって国名から、ということでしょうか」
「そうだな」
「はあ。日本なんですが……」
「ニホン?」

怪訝な顔をされた。
ジャパン、と言い直しても反応は変わらず、聞いた事すらないというのがはっきりと判る表情を浮かべている。
……どうにも、納得がいかない。
そもそも食事を運んでくれた女の人といいこの人といい、滑らかにナチュラルな日本語を喋っているではないか。
それだというのに、どういうことだろう。これではまるっきり映画の吹替音声ではないか。
わたしは真っ直ぐこの人を見てみる。
年の頃は四十くらいだろうか。身なりは何処となく立派な佇まいで、今のところそれなりの接し方をしてくれている。
果たしてこの人は信用できる人だろうか。今はまだ、よく分からない。
色々思ったが、取り敢えず知りたいことをまず絞り、彼に訊ねてみることにする。

「あの。……ボロミアさん」
「何だ」
「此処は、何処なんでしょう」
「――ゴンドールのミナス・ティリス、という言葉に聞き覚えはあるか」
「いえ。それって地名ですか?」

普段の自分だったら(何それ美味しいの?)くらいは内心で思ったかもしれないが、流石にそれどころではない。
言うと、ボロミアさんは少し考える素振りを見せた。
彼がこの部屋に入ってきた時、一緒に持ってきた書物類が幾らかベッドの上に無造作に積まれていたのだけれど、ボロミアさんはその中から一冊を取り出した。
表紙をめくったページに挟み込まれていたものをその場に広げる。地図のようだった。

「今私たちが居るのはこの辺りになる」

そう言って彼はある一点を指で示したが、わたしは別のことが気になった。
地図の形がまったくと言っていいほど見覚えのないものなのだ。
世界地図ではなく、自国のある箇所だけをズームした簡易タイプ?
何故わたしがそういった場所に居るのかは別にしても、これではますます分からない。

「すみません、ペンか何かありませんか?」

わたしはボロミアさんの許可をもらって、その地図をひっくり返した裏面に大雑把にも程がある世界地図を描いた。
日本の部分に斜線をたくさん引いて塗りつぶす。
矢印を引っ張って 『 この辺 』 と住んでいた大体のところに書き添えた。

「わたしが住んでいたところはこの辺りなんですが」

そう言って向こうの様子を窺ってみる。
ボロミアさんはと言えば、黙って図面とわたしとを往復して見てくるのだ。
「……いとも変わった客人のようだな」
しばらくの後、彼はぽつりとそうこぼすのに留めたが。
――さて。
わたしは思った。さて、困った。結局何がどうなっているのか、何も分からない。
おそらく、ボロミアさんもそう思っているのに違いない。
会話は一応成立しているものの、噛み合っていると言えるのだろうか。微妙なところだが、しかし今はこの人に頼る以外にないのだ。
ふと、取り敢えず帰りたいなと思う。
しかし帰れるのだろうか。寧ろ、どうやって帰ればいいのだろうか。

「……ひとまず、帰りたいなと思うんですが」
「どうやって?」
「どうすればいいと思います?」

わたしはそう返した。こちらの方が訊きたいことだ、それは。
そもそも自分がどうしてここにいるのかも知らないというのに。
思って、はたと気付いた。そういえば、それをまず最初に訊いておくべきだった。

「やだな、何で初めに訊かなかったんだろう……。あの、どうしてわたし、ここに連れてこられたんでしょうか」
「倒れていたからだ」
「わたしが? 何処で?」
「森の中でだ。あんな所に居てはオークの餌食だ、だから私が連れ帰った」

……ちょっと何を言っているのか分からないです。
正直、内心ではそう呟かずにいられない。
わたしは確かに夕べ、自室でベッドに横になって眠っただけのはずだ、それがどうしたらそうなるのだ。
顔に言いたいことが出ていたらしい、ボロミアさんはまた一つ、ゆっくりと長い息を吐き出した。

「どうやら、もっと詳しい話を聞く必要がありそうだな」
「はあ」
「では、殿」
「殿!? ……あの、呼び捨てで結構ですよ」
「承知した。では、何故あの森にいたのかもそうだが……、何でも構わない、話したいことを話してほしい」
「……何から、お話しましょうか」

果たしてどこから喋ったものか、見当もつかない。
しかしとにかく、取り敢えずは口を開くことから始めることにした。
朝食を取るのは、まだしばらく先になりそうだ。
そう思った途端にお腹の虫が再び喚き始めそうになって、それを鎮めるのに多少苦労したけれど、まあとにかく。



「つまり……何も分からぬと?」
「はい。それに、倒れていたっていうのも……。だってわたしは自分の部屋で眠りについて、気がついたらこの部屋だったんですから」
頭を振って続けた。
「本当にここ、日本じゃないんですか?」
「……この中つ国には、少なくともそのような名の国は存在しない」
「困ったなあ。今日は街をぶらっと回ってから大学の研究室に寄って、それから買い出しに行こうと思ってたんですよ」

せっかく立てていた予定が狂っちゃいました。
言うと、ボロミアさんはまじまじとわたしを見た。
「随分と落ち着いているようだが」、一区切りして、言葉を繋げた。

「恐怖はないのか? 見知らぬ地に突然投げ出されたというのに」
「怖いといえば、怖いんですけど……」

ただ、何処かまだ現実味に乏しい。
ここが日本ではない、というのだってこの人がそう言っているだけに過ぎない。
本当はこの部屋の外には、わたしの見知った景色が存在するかもしれないではないか。
まだ自分の中では、この場所がボロミアさんの言う別の国であるという確証が何一つ持てないのだ。
恐る恐る、オブラートに包んだ言い方でそう告げれば、向こうはあっさり「そうか」と肯く。
少なくとも今のところ、目の前の人は相応の振舞いをしてくれており、食事の提供もある。
最低限の身の保証はある。そう思ってもいいだろうか。
となると、とわたしは考えてみる。
ひとまず次に、証拠が欲しいと思う。
ここが見知らぬ場所なのだと認めざるを得ないような、そんな証拠が必要だった。






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