どうしよう。
わたしは棒立ちになりながら目を細め、固まっていた。
眼前にあるのが、完全にゲームや映画のオープニングみたいな光景なのだ。
流れていく鈍色の雲。
時折その切れ目から、陽が差しては景色に幾筋かの光を落としていく。
陽の光に照らされた先、その白く広大な街が印象的だった。階層状になっている。
今自分が居るこの建物それ自体だって、城とでも言うべき佇まいなのだ。
これはドラクエか、それともFFか。
頭の中ではカメラが遠景からゆっくりと自分の方へ、そしてそのまま後方へと舐めるように映像を映し出していく様が浮かんでいた。
完全にオープニングデモである。どうしよう。全力でこんな世界が広がっているとは思わなかったのだ。
「…………」
「震えているようだが」
寒いのではないか、とボロミアさんが続けた。
そりゃあ、震えの一つも出るでしょうよ。
思ったけれど、わたしは首を振って否定した。実際少しばかり風が吹きつけていたが、耐えられない程でもない。
ふと、今は何月かと訊ねると、「三月の初旬だ」という。
わたしが今までを過ごしていた暦とほぼ変わりないが、それが何か意味を成すのかどうか、今はまだ判断がつかない。
取り敢えず、それについては今深く追求する必要はないだろう。
「……ボロミア、さん」
覚えたての人の名を確かめる調子で辿りながら、わたしは隣に立つ男の人を呼んだ。
「もう一度、ここの場所の名前を教えてもらっていいですか?」
何度でも、と彼は肯いてそのまま続けた。
その単語、ゴンドール、白の都ミナス・ティリスという名詞をわたしは口の中で反芻した。やはり思い当たりはない。
再び眼前に広がる街を見遥かす。美しい街だと思った。
しかしわたしはこの地を知らない。ボロミアさんにしたって日本を知る様子はなく、わたし達は互いに互いの国を知らない。
なるほど、わたしは本当に全く知らないところに来てしまったようだ。どういうわけかは別にしても。
「…………」
「……どうされた?」
わたしが黙ったまま彼を見ていると、向こうの方からそう訊ねてくる。
今のわたしはさぞかし難しい表情になっていることだろう。
そんなことを頭の隅っこの方でちらと思いながら、脳内の中央では別のことを考える。
そもそもここは何なのだろう。
ひとまず日本ではないのはよく解った。
それは百歩譲って納得するにしても、大体ここは現代なのだろうか。
そう思ったのは、目の前の人の格好がなんとなく中世だとか、そんな気配を感じさせるものだったからだ。
そうなるといよいよドラクエやFFみたいになってしまうが、わたしは当たり障りのない言い方で訊ねてみることにした。
「ボロミアさん、今年って何年ですか」
「そなたの国とは数え方が違うかもしれないが、中つ国の暦で言うなら第三紀三千……」
彼はそこで言葉を切った。わたしの膝が折れてしまったからだろう。
「大丈夫か」と心配そうにこちらを覗き込むのを片手で制しながらも、突っ込まずにはいられない。
まさかの三千オーバーである。予想外がきた。
ここは過去どころか未来か。未来なのか。流石にその発想はなかった。
というか、だいさんきって何。ジュラ紀とかそういう系?
「いやいや、 『 こっちの暦で 』 ってことは、西暦にすればやっぱり変わってくるかもしれないし……」
「……、少し落ち着いた方がよい。風もまだ冷たい、中へ戻ろう」
そう言ってボロミアさんは、わたしを立たせてくれた。
改めてその人を見上げる。
この人は、本当に好意でわたしを助けてくれたのだろうか。彼と、この世界を何処まで信じていいものだろうか。
色々と思うところはあるし、まだ全力で信頼を置くには早いようにも思う。
しかしひとまず、これだけは言っておくべきだと判断した。
「ボロミアさん」
「……何だ」
「ありがとうございます」
彼は刹那、わたしが何を言ったのかわからなかったような顔をしていた。
構わずそのまま続けた。
「まだよく判りませんけど、わたし、助けてもらったんですよね? ……なのに、御礼もまだ言ってませんでした。遅れましたけど、改めて言わせてください」
ありがとうございました、と頭を下げる。
すぐに「いや」、と声が降ってきた。
「礼には及ばん。……ところで、ここが中つ国だということは」
「信じないといけないみたいですね」
内心、溜息をつく。
つまりわたしは、ある日突然この 『 中つ国 』 と呼ばれる世界に放り出されたことになる。
それにさしあたって、わたしには少々困る理由があった。
「それで、あの。……わたしには帰る術があるのかどうか、まだよく判らないんですが」
「ふむ。私もそのことを心配していた」
「……ボロミアさんも、わたしが帰る方法はご存じないんですよね」
「申し訳ないのだが」
彼は本当にすまなそうに目を伏せた。
ふつうならば「来られた」となれば「戻れる」わけだが、どう考えても今はふつうの状況ではなく、この等式が成り立つ保証もない。
しかし、こうしているうちにも時間は流れている。
わたしはわたしの部屋の心配をした。
冷蔵庫の中のものは腐ってしまうだろうし、ポストの郵便物やチラシは溜まり放題になってしまう。
それにこのままでは大学の卒業式にも出られない。どうしよう、予約しておいた貸衣装のキャンセル料だって多分戻ってこない。
いや、それより何より、家族とはどう連絡すればいいのだ。
突然音信不通になったわたしを案じて、一人暮らし先に足を踏み入れられたならば、それは非常にまずい。
人様に見せられないようなものだってあるのだ、色々とまずい、大変にまずい、色んな意味で死んでしまう。
「ボロミアさん」
「……?」
「困りました」
「それはわかっている!!」
何が面白かったのか、真顔で言ったわたしの言葉に彼は少しふき出した。
「わ、笑うとこじゃないですよ! 本気で真剣に困ってるんですから!」
「ごほん。……いや、失礼した」
「うう、せめて家族に無事だって伝えられたら……。携帯があったらなあ」
「けいたい?」
「携帯電話……あ、いえ、何でもないです」
たぶん言っても伝わらないだろう。
そう思い適当に濁したのだが、直後、ボロミアさんが意外なことを言った。
「ああ、そう言えば荷物を預かっている」
「え?」
「を拾った時に肩に掛かっていたものがある。失礼ながら、中身は検めさせてもらったが」
肩に掛かっていたというと、愛用しているショルダーバッグだろうか。
服も靴も腕時計も普段のままでこちらにあるということは、鞄も同様にわたしについてきた可能性がある。
返してもらえるかと訊くと、「もちろんだ」と彼は肯き、とにかく部屋に戻ることにしようと促される。
言われるままに踵を返しかけて、一度後方を振り返った。
陽の差す白い街並みや遠くの山の稜線、変わらず流れ続ける灰色の雲。
ふと、奇異を感じた。
今まで見たことのないはずの景色、それらの何処にそう感じるものがあったのかは分からない。
わたしは頭を捻ったけれど、今は分からなくていいような気もして、すぐにボロミアさんの後を追った。
「兄上、こちらにおいででしたか」
長い長い螺旋状の階段、それをあと少しで下り切るというところで声が掛けられた。
前方、幾らか離れたところにすらりと背の高い男の人が立っている。
その人の手にあるのは大いに見覚えがあるものだった。
「ああ、ファラミアか。彼女にその荷を返してやりたいと思っていたところだ。つい先程目を覚ましたのだが少しは話を聞いてある、名はというそうだ。――、これは私の弟でファラミアという」
「はい、あの、はじめまして」
わたしは階段を下り切って頭を下げた。顔を上げると目が合った。
兄弟というだけあって、ボロミアさんに似た整った顔立ちをしている。
口元に微かな笑みを湛えながらも、目は何処か笑っていないような気がしたけれど。
「お初にお目に掛かる。そなたの荷を許可なく検分させて頂いたこと、どうか許されたい」
「いえ、構いません。……ありがとうございます」
弟さんから手渡されたバッグを受け取る。
いつもの重量が腕の中に収まる。その重みが、幾らかの安堵をわたしにもたらした。
携帯が入っているかどうか判らないけれど、まあ、そもそも圏外だろうなと今になって思う。
そうこうしているうちに、ボロミアさんが弟さんに聞き捨てならない事を告げていた。
「彼女はしばらく私の庇護の元に置こうと思う。そなたも気に掛けてやってほしい」
「承知しました」
思わずボロミアさんの方を直視してしまう。そうするのに十分な言葉だった。
それから一言二言を交わして弟さんは「それではまた、後程」と礼をし立ち去った。
再び二人だけになり、わたしは彼を恐る恐る見上げる。
「……ボロミアさん、あの」
「どうされた」
「ええと……、わたし、ここに居るのはご迷惑じゃないですか?」
「そのように考える必要はない。拾った手前、面倒はみるつもりだ。安心されよ。もっとも、遠い異国から来た身ともあれば、ここでの生活はいささか不自由もあるかもしれないが」
「いえ……、そんなこと」
わたしは言葉を濁した。何を言っていいのか、よく判らない。
しかし徐々に、この人なら信頼してもいいのではないか、と思い始めていたのは確かだった。
今この場を放り出されても困るのだ、ならば、今はありがたい申し出として受け取っておくべきなのだろう。
わたしは目の前の大きな人に向かって、もう一度深く頭を下げた。
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