夜が、明ける。
カーテンを閉め切った室内にも、うっすらとその気配は忍び込んできていた。
ベッドから身を起こすと、傍らの鞄、その上に置いてあった腕時計に手を伸ばす。
薄暗くても、時刻を示す針は読み取れた。五時を過ぎている。
起きるには早かったけれど、思い切って床に足を下ろす。
昨日のうちに、ボロミアさんが窓のある部屋にわたしを移してくれていた。
改めて外の景色を確かめようと、カーテンをそっと引っ張ってみる。
ここが何階建てで、何階に位置する場所なのかまだよく分からない。
しかし、それなりの高さはあった。外界が一望出来る。
朝の太陽が顔を出し始めていて、白い石壁に光と影の軌跡がうっすらとできつつあるのが見えた。
急に無性に外の空気が吸いたくなり、部屋の窓が開くかどうかを試してみると、拍子抜けする程あっさりと開く。
顔を外に出してみると、早い朝独特の澄んだ空気がそこにあった。
冷えたそれを肺に入れると、あらためて頭が冴えてくる。
外の世界は静かだった。
シンと張り詰めたような朝の時間、空を見上げれば夜の色がまだ微かに残っていて、昨日とは少し世界が違って見える。
再びのオープニングデモである。時間によってパターンが変わるやつだ。
わたしは独り、息を短く吐き出した。
昨日は寝て起きたら別の世界にいた。
だから、今度は寝て起きたら、元に戻っているのではないかと半ば本気で期待していたのに。
景色を見下ろしながらそう思っていると、ふと、静かな時間の中に誰かの声が響いた気がした。
眼下に視線を移すと、開けた広場のようなところに何人かの人の姿がある。
皆、男の人らしい。少し距離があり、向こうはこちらに気付いていなかったので、そっと彼らを観察してみる。
その人たちの身なりというのか、身に着けているものはいわゆる武器防具というやつらしい。
冗談抜きに本気でゲームの世界みたいになってきたが、そうなるともしかして、魔法も存在するのだろうかと考えてみる。
……魔法か、面白そう。わたしも使えるようになったりしないかな。
ふと、彼らのうちの一人に目が留まった。
大柄な後ろ姿、陽の光を受けて煌めく髪は茶色と金色を混ぜ溶かしたみたいな、きれいな色をしている。
見間違えでなければ、あれは――
不意に、その人物は何の前触れもなくこちらを振り向いた。ボロミアさんだ。
身を隠す暇もなかった。
隠す必要もないかもしれないけれど、「しまった、見られた」という気分になったのは否めない。
遠目とはいえばっちりと目が合ってしまって、わたしはやや狼狽した。
高いところから見下ろすなんて、大変な無礼なのではないだろうか。ボロミアさんの心証を悪くしてしまったのではないだろうか。
すぐにでも頭を下げた方がいいのかもしれない、そんな考えが自分の中を駆け巡る。
けれど次の瞬間、そんな不安は払拭された。
ボロミアさんはわたしに気が付くと刹那、少し驚いたみたいだった。
けれどすぐに、ふっと表情を和らげて、笑った。
そんな反応を想像していなかったので、わたしは硬直した。
何というのか、こちらを安心させてくれるような、そんな力強い笑顔だ。
動揺したけれど、同時に、そうしてくれたことがとても嬉しい。わたしも思わず笑み返していたと思う。
すぐさま頭を下げて、それを戻す。
彼は笑みを残したまま何か肯くような仕草をし、それから他の男の人達と共に門の方へと消えていった。
視界から消えて見えなくなってなお、しばらく、その人がいた空間から目を離すことができなかった。
朝食は美味しく、十分な量があった。
昨日はそう感じる余裕もなかったのに、今日はといえばこの通りである。おまけに、
「何か良い事でもお有りでしたか?」
朝食を運んできてくれた女の人からそう声を掛けられる程度には、気分の良さが表情に出ていたらしい。
今のわたしはさぞ、にこにこしていたことだろう。にこにこと言うか、ニヤニヤというか。
ともあれ、自分の中で「ボロミアさんがとてもいい人」だと認定されたのは大きい。
彼について、まだそう詳しく知るわけではない。
けれどあの人ならば大丈夫だろうと、そう思うことができた。
しかし、結局のところはまだ何も分からない。
用意された食事を早々に終えてお膳を下げてもらってから、昨日返してもらった鞄を手元に引き寄せた。
中には確認したとおりのものだけが詰まっている。
いつも持ち歩く小物類の入ったポーチに鎮痛薬、手帳や付属の筆記用具、手鏡等々。
財布や携帯は入っていなかったけれど、検分された時に取り上げられたとは考えにくい。
ボロミアさんの弟さんはそんなこと言わなかったし、そこで嘘を言ったところですぐに分かってしまうではないか。
そもそも通貨だって違うだろうし、どう考えても電波は圏外だ。どちらも役には立たないだろう。
……なら、何で入ってないんだろう。
わたしが敢えて詰めなかったんだろうか。まさか。ここへ来ることを予期していたわけでもあるまいし。
首を捻ったが、考えても仕方のないことだった。
とにかく、いつも出歩く時に持ち歩く最低限の持ち物はある。
「よし」
わたしは一人、声に出して肯いてみた。
状況は昨日から変わらないが、おそらく、恵まれているのだろう。
周囲の人は優しく、食事や眠る場所もあり、自分の持ち物まで手元にある。
そうなると、次に欲しいのは情報だ。
この中つ国と呼ばれる世界のことが知りたい。
どんな時代で、どういった人達が生きていて、どんな時間が流れているのかを知りたい。
思ったが、それを教えてくれる人が必要だ。
ボロミアさん? 最初に彼が浮かんだが、しかし彼に、全てを教示してもらえるものだろうか。
今朝方見掛けた彼のことを思い出してみる。どうも、指揮を執っている様子だった。
年齢や振舞い方からして、もしかしたら相応の地位の人なのかもしれない。
そういえば、自己紹介の際に執政とか何とか言っていたような気がする。
……ところで、執政って何だろう。
いや、なんとなくは分かるのだが、ふわっとしか分からない。その辺りから、まるでわたしには知識がないのだ。
さて、どうしたものだろう。完全に中つ国初心者なわたしに、誰かチュートリアルをしてはくれないものだろうか。
悶々とそう思い巡らせていると、ノックがあった。
「殿、失礼してもよろしいか」
「はい?」
この声は誰のものだっただろう、そう頭の中を巡らす。
けれど答えが出るその前に、声の主は部屋の扉を静かに開けた。
現れたその人のややウェーブがかった金の髪、すらりと高い背、白い色の木が刺繍された着衣。ええと、確か、
「……ファラミア、さん?」
「朝早くに申し訳ない」
「いえ」と返しながらも、名前が合っていたようで内心ホッとする。
わたしは人の名を覚えるのが不得意な方だ。あやふやな記憶だと、人の名を口にするのもヒヤヒヤしてしまう。
忘れないようにメモを取るべきだろうか、なんて思っているうちにも彼は続けた。
「そなたには、後程兄を通してまた話を聞くことになる。しかし今日、兄は戻るのが遅い。そなたにはこれからのことで不安な思いをさせるだろうが、何かあれば他の者は勿論、私や彼女を頼ってほしい」
そう言ってファラミアさんは背後を見やった。
後ろには今まで食事を運んでくれていた女の人が立っている。
女の人、というよりまだ少女のようにも思える。わたしより若いかもしれない。
彼女は改めてこちらを見て、ぺこりと頭を下げた。
「この者ならそなたと歳も近い、何かと話もしやすいだろう。身の回りのことは彼女に訊くとよい」
「……色々お気遣い頂いて、ありがとうございます」
わたしはひとまずにこやかに頭を下げた。
聞けば、推奨するわけではないけれど、部屋の外を出歩くことも構わないという。
あくまで彼女の案内する範囲内で、という限定付きではあるようだが、それでも大きく束縛するつもりは今のところないらしい。
わたしはボロミアさんの弟だというその人を見上げた。
一見物腰も丁寧で、悪い印象というのはない。
ただ、その表情は昨日と同じで、微笑みが浮かんでいるのに何処か笑いきれていないように思えるのだ。
ファラミアさんはわたしに一礼すると、傍らの娘に「後の事はよろしく頼む」と告げてこの場を立ち去った。
ボロミアさんはいい人だというのは分かった。では、あの人はどうなのだろう?
わたしは少しばかり、そんなことを考え込む。
彼が置いていった少女に呼び掛けられてもすぐには気付かない程度には、わたしはファラミアさんという人物のことを考えていた。
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