生来、自分はそうべらべらと喋る方ではないと思う。
それはおそらく、向こうもそうなのだろう。空気の中に似たものを感じる。
ファラミアさんが置いていった少女はしばらくの間、わたしの身の回りの世話をしてくれるという。
そういった気遣いは大変ありがたかったし、何より彼女は、この世界のことを知るのに丁度いい存在でもあった。
食事や衣類の洗濯に着替え、そういったこれからの生活についてのあれこれ。
其れらをごく端的に説明する彼女に一つ二つ、質問を投げ掛けてみる。
向こうは最初こそ、ただそれに答えるだけだった。
しかしわたしが中つ国のことをまるで知らないというのが分かると、まじまじとこちらを見た後にぽつりと言った。
「私でよろしければ、色々とお教えできるかと……」
オルガと名乗った彼女がそう言うので、取り敢えず「執政とは何か」を訊ねてみる。
一瞬目が点になりかけていたのは無視して先を促すと、王権の代行者だという。
ざっくり言うと、つまり国を治めるだとか、そういう立場にあるらしい。
ふうん、と思う。
やっぱり、それなりに偉い地位にあるのだろう。
となれば当然、公務だとか、何かそういうものもあって忙しい身でもあるはずだ。
王権という事はいわゆる王様に当たる人もいるのだろうが、今のところその辺は自分には関係ないだろう。
王様――せいぜいがゲームのデータをセーブしてくれるとか、ひのきのぼうに少しの端金を勇者に与えてくれるようなイメージしかない。やはり、今は関係なさそうだ。
質問に応酬。
その積み重ねをしているだけで、自然と多くの会話をする形になりあっという間に一日が過ぎた。
多少質問責めになるところもあったが、彼女は嫌がる素振り一つ見せずに答えてくれる。
ふと気になったのが、文字のことだった。
何か適当な本を、と言って見せてもらったもの、そのページを捲れば何やら難解な文字が目に飛び込んでくる。
わたしはボロミアさんに地図を見せてもらった時のことを思い返した。
あの時も、表記されていた地名がまるで読めなかったのだが、今目の前にある文字もまるで解らない。
何しろ、アルファベットとも違うように思えるのだ。しかしまあ、それはいい。この国というか、この世界の文字なのだろう。
問題なのは、何故「話し言葉が通じているのに、書き文字は駄目なのか」という点だ。
わたしは眉間に皺を寄せた。
何だろう、この中途半端な意思疎通の有効範囲。
どうせなら文字も読めるようにしてほしかった。何なのその縛り。
誰へともなく思うのだが、まあ、話す方が通じるだけでも御の字か、とも思う。
これが、うっかり逆なら筆談しなければならないところだ。それに比べれば余程いい。
この日はそんなことを思いながら眠りに落ちた。
勝手を覚え始めていたので、その次の日の朝、食事が運ばれてきた時には既に身支度もできていた。
オルガに――実際にわたしより年下らしく、敬称は不要だと言われていた――、今日も色々と訊きたいのだと伝えれば、
「私でよろしければ」
と昨日と同じ言葉で肯いてくれる。
知識として得るものは多かった。時代背景としては、やはり中世に近い様子らしい。
そして話を聞くうちに、ふと昨日思ったことが再び頭をよぎった。
ただ、もし的外れなことだったらどうしようという思いがあって、直接訊くのも躊躇われた。
結局、独り言に見せかけた呟きで言葉を発してみることにする。
「もしかして、中つ国って魔法もあったりするのかなあ」
「……魔法使い、と呼ばれる方でしたら時々お見えになりますが」
「!! 本当に!?」
バッ、と思わず彼女を真正面から見てしまい、向こうはややのけ反り気味になっていたが構わず訊き返す。
ええ、と肯くのを見て思わず感嘆しそうになる。
魔法使い! 剣や盾だけに留まらず、まさか本当にそこまで行ってしまうとは。
わたしは少し、いやはや大いにワクワクし始めていた。しかも、時々ここにやって来るのだと言う。
いつか、会えたら何か魔法を見せてもらいたい。いや、見せてもらわねば。
この時はそのくらいに考えていた。
午後は、部屋の外を歩いてみることにした。
振り返ってみれば、ずっと室内に籠もっている状態だ。話で得る知識も大事だが、歩くことで得るものもあるだろう。
とは言っても、建物の中を巡ってみるだけだ。オルガについて回るだけだし。
最初のうちこそそう思っていた。
しかしこれが、なかなかに大変だった。
なにしろ、とても広大なのだ。出歩きOKなところだけでこうなら、全部合わせたらどうなるのだろう。
大学の敷地内、学部と学部の間を移動するなら自転車を使ったりする。
今まさに、自転車がほしいと思った。いや、怒られるだろうけれども、しかし。
そんなことを頭の片隅でこっそり思っていると、前方の螺旋階段から下りてくる人物が目に入った。
わたしの方から何かを言おうと思ったのだが、ファラミアさんはそれよりも先に口を開いていた。
「殿、オルガ、何か不便な事はないか」
「いえ、何も。彼女にいろんなお話を聞かせてもらっていました。ファラミアさん、出歩きのご許可をありがとうございます」
わたしは改めて頭を下げたけれど、ファラミアさんは「いや」と軽く首を振るだけだ。
古びた書物らしきものを脇に抱えたその人は細身で、けれど改めて並んでみればやはり結構な長身だった。
もしかしたらボロミアさんよりも高いのかもしれない。内心そう思っていると、彼は僅かに目元を細めた。
「その様子であれば、心配もないようだ」
「……何がでしょう」
「なに、兄が心配していたものでな。気丈にはしているが心中は察するに余りある、と。少しでも、気が紛れることでそのこころが軽くなればと、私も考えていた」
「…………」
「しかし、先行きに不安がないわけではないだろう。少しでも私達に助力できることがあればいいのだが」
そんなふうに言葉を繋げているファラミアさんを、ついまじまじと見てしまう。
最初の印象よりも、ほんの微かにその表情は和らいで見えた。
わたしがあんまりジッとその顔を見つめていると、「どうかしたのか」と訊ねてきさえする。
いえ、とわたしは小さく首を振った。言った。
「……正直なところを言うと、色々ご迷惑になっているだろうなって思っていたんです。ですから、そんなふうに言って頂けるの、嬉しいです」
ごく短く、そんなふうに告げる。言葉自体は本音だ。
同時に、このファラミアさんという人が本当にそんなふうに思っていたのならやや意外だ、というのも本音である。
例えば、ボロミアさんは何というのか、裏表のない感じがする。
ファラミアさんはといえば、まだ何も詳しいところを知らず、そして印象だけならば物静かな感じだ。
実際のところ、わたしのことをどう思っているのかよく分からない。
けれど、目の前の人はどうだろう。
今わたしが口にした言葉に、その目元が柔らかく笑みを形作っている。たぶん、初めての上辺だけでない笑顔だった。
それというのはつまり、互いに同じ状態だったのだろう。
わたしだって彼がどういう人なのかを知らず、心の何処かで警戒を解いていなかった。
ファラミアさんもまた同じだった、ただそれだけのことだ。
……ならば、こちらから歩み寄るのも必要だろう。
わたしは改めて、彼に向って笑んでみせようと思った。ファラミアさんがそうして見せてくれたのと同じように。
瞬間、空気の温度が急に下がったような気がした。
ファラミアさんの視線がスッとわたしから外される。
表情こそ変えなかったものの、その目は今まで自分に向けられたものとは何処か違っていた。わたしの背後を捉えて動かない。
隣にいたオルガもその視線を辿り、凝固したかのように身を固くしている。
どう考えても見ない方が良さそうな何かが、後方に居るらしい。
正直振り向きたくはなかったものの、恐る恐る、既に強張り始めている首をそちらへ向けてみる。
いつの間にか、すぐ傍に一人の男の人が立っていた。
年齢は随分と上のようで、顔に刻まれたいくつもの皺に老いを感じる。
杖を両の手に握り締めて、何か言葉を発するでもなくこちらを見ていた。
纏う空気の硬質さや圧倒的な存在感に一瞬気押されそうになるが、けれどそれ以上に、その目に宿る厳しい光を間近に見てしまい、わたしはギクリとする。
佇まいを正そうにも、身動き一つ取ることさえその人物の前では困難である。
身体中の全神経を総動員しなければならない程だった。
石化したような身体をどうにかそちらへ向き直すうちに、最初に言葉を発したのはファラミアさんだ。
「……このようなところをお一人でとは、如何なさいましたか」
「予の行く先々について、全てそなたの許可を取らねばならぬというのか」
ほとんど抑揚のない物言いだった。
しかしそれにも拘わらず、何処かファラミアさんを撥ねつける様な言い方なのだ。
少なくともわたしにはそう聞こえたので、内心で眉を顰めそうになる。
感情の読み取りにくい声が空間に残響する間もなく、その目がゆるりとこちらに向けられた。
思わず息をも止めてしまいそうになりながら、どうにかその目を見返した。
「ボロミアが連れ帰ったという娘の話を少しは聞いている。相見えるのはこれが初めてになるが」
「いかにも、この者がその娘にございます。本来ならその処遇についてのお考えを聞くため、早くに挨拶に伺うべきでした」
ファラミアさんが、そっとわたしの背に手を置いた。
その手のひらに温かさと力強さを感じる。心配しなくてよいと言っているような気がした。
「兄は今日戻り次第、この者のことを侯にご報告するとのことでした。詳しい話はその時に聞くことができましょう」
「左様か。しかし、その娘が今この場に居ることは、予の好むところではない。東夷の者に似た顔立ちにしても、間者ではないと言い切れぬからだ」
「私は間者ではないと考えます」
会話は、わたし抜きに進められていた。
相変わらず、よく解らない言葉もある。要約すれば、あまり良く思われていないのだろう。
それでも、表立った敵意というのは不思議と感じない。
実際にはそう考えていないのかもしれない。
まあ、目の当たりにしてみればただの小娘なのだ。警戒の必要性などこれっぽっちも感じないだろう。
その人は首を振るようにして、ファラミアさんが話そうとする内容を遮った。
「その娘の身はそなたに委ねられてはいないはずだ、話はボロミアから聞く」
「…………」
まだ何か言いたげに見えるファラミアさんだったけれど、すぐにそれを了承したように頭を垂れる。
その人はといえば、去り際に再びこちらへ一瞥を寄越した。
内心冷や汗ダラダラである。けれどとにかく、わたしも倣って深く頭を下げる。
やがてファラミアさんとオルガに声を掛けられ顔を上げた時には、その人の姿は見えなくなっていた。
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