ゴンドールの統治権を持つ第二十六代目の執政、デネソール候。
先日会ったのがその人なのだという。
ボロミアさんとファラミアさんの父であり、簡単に言えばこの国で一番偉い人に当たるのだとか。
あの後にそう説明を受け、はて? と思った。
王政の代行者、と聞いたような気がする。
王様は別に居て、その代わりに国を治めているという漠然としたイメージがあった。ざっくり言えば二番目に偉い、というか。
しかし、実質この国でのトップだというのなら、肝心の王というのは今何処に居るのだろう。
一瞬うっすらとした疑問が浮かぶ。
けれど、まあ、いいやと思う。わたしが首を突っ込むようなことでもない。
寧ろ、そのデネソール候と再度相見えること自体が目下、不安の種だった。
ボロミアさんと共に、謁見に行かねばならないという。
ファラミアさんと行き会った、あのほんの数分のやり取りだけでお腹いっぱいだというのに、これ以上何をどうすればいいのだ。
そう思い内心ではヒヤヒヤしていたものの、終わってみれば極々あっさりとしたものだった。
ほとんどボロミアさんとデネソール候との間で会話が為され、わたしが口を開いたのはほんの一言、二言である。
あれ? これ、わたし居る必要ある?
正直なところそう思った程なのだが、とにかく、ここに留まることは改めて許されたのらしい。
ホッとしながら、それでも少し疑問を覚える。
デネソール候の態度が、ファラミアさんへのそれとは明らかに違っているように思えたのだ。
誰に対しても厳しい人なのかと思えば、そういうわけでもないのらしい。
ボロミアさんに対しては笑みさえこぼしたのを見てしまい、うっかりまじまじと眼差しをぶつけてしまいそうになった。
つまりはガン見である(向こうの視線がこちらに動く前に、さっと目を伏せはしたけれど)。
しかしとにかく、そこそこ強烈なインパクトをわたしに与えたにも拘わらず、デネソール候とはそれ以降特に行き会うこともなかった。
せいぜいが遠くから姿を見掛けるくらいで、それも、後々になってわたしがこの国を発つ時までの間、二、三度くらいだった。
故に、彼のことはやがて記憶の断片として、わたしの心の片隅にしまい置かれた。
晴れてゴンドールに滞在することが許され、そのまま時間は流れていった。
一日二日と時間が経過し、それが一週間になり、やがて一ヶ月を数えようとしていた。
「何かお仕事をください、ボロミアさん」
向こうが口を開く前にわたしは言った。
彼はといえば、一瞬何を言われたのか解らなかったらしい。
どう反応するべきかを決め兼ねているようで、沈黙を保ちながらこちらを見やっている。
その日は小雨が朝から降り続いていて、真昼間であるにも関わらず室内は薄暗い。
丁度ランプに火を入れたところだったので、その姿勢のままボロミアさんは首をこちらに向けている。
ほのかな暖色が彼の片側の頬をやわらかく照らしているのを見ながら、続けた。
「もうひと月くらいお世話になっていますが、何もしていないのに食事まで提供して頂くのは申し訳なくって」
「そういうことか。気にせずとも良いというのに」
「わたしは気にしますよ?」
苦笑しつつやんわりとそう返す。
最初の頃から思ってはいたが、ただ飯食らい程肩身の狭い身分というものはない。
本当ならば、もっと早くに申し出るべきだっただろう。
ただ、ボロミアさんは常にこに居るわけではなく、隊を伴って外へ出ていき何日も帰らない、なんてことも多かった。
今日はといえば久しぶりに休養を取るのだという。それでこうして彼を訪ねてみたのだ。
「何でもいいんです。掃除とか、雑用とか。何か、わたしにやることを与えてもらえると嬉しいんですが」
「何でも良いのか?」
「わたしに可能な範疇で、ということになっちゃうんですが」
「……では、手始めにこれをお願いしようか」
ボロミアさんは傍らに積み上げられていた本の山のうち、一番上にあったものをわたしに差し出した。
「これはファラミアから薦められた本なのだが、もう目を通したので返そうと思っていたところだ。あいつを探して、返してきてはくれないか」
「分かりました。……えっと、ファラミアさんは、今日は外出とかは」
「その予定は無い、あいつはこの館の中にいるはずだ。頼めるか?」
「流石にそれくらいなら、できそうです」
幾らこの館内が広く、わたしがここにまだ不慣れと言っても人を探し当てることくらいはできるだろう。
ボロミアさんからその厚い本を受け取り、何とはなしに表紙を見つめる。
相変わらず文字は判別出来ず、タイトルさえ読むことは叶わない。
「ああ、ファラミアには面白かったと感想を伝えてほしい」
「はい。……これって、何の本なんですか?」
「エルフ語で綴られた物語だそうだ」
「ええっ、エルフ? ボロミアさん、エルフの文字とか読めるんですか!?」
「いや」
すごい、と既に言い掛けていたわたしは身体ごと崩れそうになった。
(というかこの世界、リアルにエルフまで居るのか、すごいな)と思いはしたが、それにしてもとてもシンプルな、あっさりとした否定である。
見れば、ボロミアさんは澄まし顔でこちらを見返すばかりなのだ。
しかしたった今、面白かったとその口で言ったばかりではないか。そう指摘をすると、彼は何処となく悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「面白かったさ。頁を繰ると、目に馴染まぬ綴りが一面に飛び込んでくるだろう? 一捲りする度に抗いがたい力が私を夢の世界に引きずり込もうとするのだ。どれだけ目が冴えていようとだぞ? あそこまで面白いように眠りを誘う本というのはなかなかない」
「はあ。……で、読まないで返しちゃっていいんですか」
「私は軍記物以外はあまり書に親しまないものでな。ファラミアに 『 たまにはこういった物もどうか 』 と薦められて借りたはいいが、そもそもエルフの言葉はわたしには難しいのだ」
「うーん……まあ、わたしも人のこと言えませんからね」
後で詳しい感想を訊かれたら、どうするんだろう。
そう思いもしたが、それはわたしが心配することでもない。
何度か肯いて、ひとまずファラミアさんへ届け物をするという任務を引き受けることにした。
「できるだけ早く戻りますから、戻ったら、次のわたしの仕事を考えておいてもらえますか?」
「ああ。ゆっくりでも構わない。迷い人にならないことを祈っている」
「……実際、我ながら迷子にならないとも限らないから困るんですよね」
言うと、ボロミアさんはまた一つ笑みをこぼす。
その顔はひどく穏やかでやわらかなものだった。その顔を見ていると、自分はこの人に拾われて良かったと思う。
彼に頭を下げ部屋を出る。
エルフの文字か、と歩きながら中を開いてみた。
……まるで読める気がしない。しかしファラミアさんはこれを読み解くのだろう、ボロミアさんに薦めたくらいなのだから。
彼の目には、この文字列はどのように映るのだろうか。どんな言葉がここには書かれているのだろうか。
ふと、ボロミアさんからの伝言のことを思い出す。面白かった、という明快な数文字の羅列。
わたしは立ち止り、少し考えてから、再び歩き出した。
「か。今日は、兄上のところに行ったのではなかったか」
書物庫にそっと小声がさざめく。
何十冊かの本を積んだ脇に座り込んでいたファラミアさんは、その顔を上げた。
呼び捨てで構わないと伝えてからは、彼もわたしを殿付けせず、ごくふつうに呼んでくれている。
話してみればファラミアさんは思慮深く控えめでいながらも温かく、最初の頃、本当に僅かに感じた冷ややかさが嘘のように思えてくる。
彼は、ボロミアさんとはまた違った種類の安堵を与えてくれる人だった。
「はい。そのボロミアさんからのお使いです」
「ああ、この本は……」
わたしが本を差し出すと、彼は目を細めてそれを受け取る。
すぐに、おや、という表情に変わった。挟み込まれた一枚のメモに気付いたらしい。
「ボロミアさんからの伝言ですよ」
「伝言?」
小さく笑みながらこちらを見るファラミアさんに、わたしも笑い返した。
メモに書かれた数文字を指し示してみせる。
「先日お教えした平仮名、覚えていらっしゃいますか」
「ああ、あれか」
「あれです。ボロミアさんから本の感想を言付かってきたんですが、そのまま伝えるのも芸がないと思いまして。平仮名で、そこに書いておきました」
ファラミアさんなら、解読できると思いまして。
そう伝えれば、ほう、と面白げに彼はその数文字を目で辿る。
……こちらの文字が読めないのだと訴えた際に、
「では、どのような文字を使うのか」と少しばかりの興味を示したのがファラミアさんその人である。
簡単に、とりあえず平仮名をザッと五十音に書き出してみせれば、ボロミアさんは眉間に皺を寄せてお手上げだというように頭を振った。
ファラミアさんはといえば、珍しいものを見るように(実際そうだろうけれど)「これはどう読むのか」とやや食いついてきた。
おお、と思った。
つまり言ってしまうなら、兄は体育会系なのに対し、弟の方は文系なのかもしれない。それはまあ、さておき。
そんな経緯があり、少しだけ異文化交流も兼ねて平仮名をレクチャーしたことがあった。
とはいえ、ほんの短い時間に過ぎない。しかも、全く初めて触れるはずの日本語である。
果たしてどうだろう、読めるものだろうかと思っていたら、
「『 おもしろかった 』 ……? あの兄上が、この本を………?」
ファラミアさんはごく滑らかに音を辿ったので、わたしはちょっとぎょっとした。
瞬殺である。
わたしがちょっとした遊び心を発揮して彼にさりげなく課したミッションは、一瞬にして終了した。
え、何なの、何この人すごい。天才か。
わたしが思わず無言で視線をぶつけていると、向こうはふとそれに気付いたらしくこちらを見て首を傾げた。
「……私の読み方が違っていたか?」
「いえ、寧ろ完璧です……」
「そうか。……、兄上はこの本を面白かったと言っていたのか」
「ええ。どうしてそんなこと、訊くんですか?」
彼の習得の速さに驚愕を通り越して、いっそ呆れそうになる。
それを押し隠して訊ねれば、ファラミアさんは苦笑いするかのように小さく口の端を持ち上げた。
ボロミアさんによく似た顔が近付き、わたしにそっと耳打ちをした。
夜、眠る前に日記を開く。
中つ国にやって来たばかりだった最初の頃、何か他に必要なものはないかと問われて、
「日記をつけるためのノートが欲しい」と申し出た事があった。
鞄に入っていた手帳でも良かったが、ここにいつまで留まることになるのか分からない。頁が足りなくなっても仕方がないではないか。
そう思い所望すれば、表紙に銀の糸の刺繍が施された(若干わたしには分不相応な)立派な冊子が届けられた。
聞けば、ファラミアさんが選んでくれたらしい。
その大層な装丁に返却も考えたが、わざわざ選んでくれたものをそうするのもどうか。
結局、そのまま使うに至っている。
実際のところ不満は他にはなく、寧ろ書きやすい代物だったし、大きさも程よく申し分ない。
いざとなれば、鞄にだって余裕で収まるだろう。
今日の出来事を簡潔に記した。
ファラミアさんが薦めたというあの本は、エルフと人間との悲恋を描いた物語だったという。
「切ない」だとか「悲しい」系の感想ならわかるけれど、「面白かった」という感想はややズレているらしい。
故に、あっさりとボロミアさんが未読であることはバレてしまったのだ。そんな内容を、簡潔に。
ペンを置いて、日付を改めて見る。
中つ国に来て、一ヶ月が経ってしまった。
日記をつけ始めたのは、後から見返した時に、自分の世界に戻るための手掛かりを見つけられないかと思ったからだ。
書き出すことで、何か気付くこともあるかもしれない。
そう思って、このひと月の記録を見返す。
……今のところ、何もそれらしい記述はまだ見当たらない。
唐突な別の世界での暮らしに戸惑いつつも、比較的穏やかに過ごしている自分の言葉が目の前に並んでいるだけだった。
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