季節は、春を通り過ぎようとしていた。
気温も安定して暖かく、窓を開ければふわりと滑り込んでくる風が心地いい。
ただ――。
わたしは天を仰いだ。
空には依然として、鉛色の雲が居座り続けている。
この国の首都ミナス・ティリスに身を置くようになって大分経つというのに、振り返って見れば快晴というものに巡り合った覚えがない。
梅雨のようなものだろうか。
そう考えたこともあるし、実際に周りの人に訊ねたこともある。
(「わたしの居たところでは雨が長く続く時期をそう呼ぶんです。ゴンドールも、もしかして今がそうなんですか?」)
晴れ間が出てくれれば。そう思う。
ファラミアさんが先日、東の空を指してそっとこの国、否、この中つ国という世界が今どんな状況に置かれているのか、そのほんの一部を教えてくれたことを思い出す。
全く光が差さないわけではない。
時折、雲間から陽の光が降り注ぐことだってある。けれど、それはほんの慰み程度のものだった。
困ったものだ、と思う。
お日様が出てくれれば、この洗濯物だってもっと早くに乾くだろうに。
主婦目線的な意味でやれやれと思っていると、遠くから声を掛けられた。
見れば、一つ階下の方でこちらを見上げている老婦人の姿がある。わたしは階段の上から空の藤篭を示してみせた。
「洗濯干すの終わりました、ヨーレスさん!」
そう伝えれば向こうは微笑み、
「一段落したのだからお茶でもどうか」と言う。わたしは思わず微笑み返した。
全くここの人達ときたら、本当にいい人達ばかりなのだ。
わたしが元居た所に帰れないと知るや否や、とても気遣ってくれたりする。
ヨーレスさんもそのうちの一人で、彼女はオルガの遠縁に当たるという。
ミナス・ティリスの寮病院に勤めている彼女の手伝いも時折するようになり、世話にはなっていたが、今日はこの後ボロミアさんの所へ行かねばならない。
丁重に詫びてその旨を伝えれば、ヨーレスさんは気を悪くするでもなく手を振って見送ってくれた。
少しくらいは、ここの生活にも馴染めているだろうか。
道すがら、そんなことを思う。そう思う程度には、確実にミナス・ティリスでの時間を重ねている。
……わたし、いつか帰れるのかな。
そう口の中で呟き掛けて、その言葉自体、自分の中に浮かんだのが久しぶりであることにふと、気付いた。
「少し痩せたのではないか?」
「はい?」
わたしは思わずボロミアさんを見てしまった。
彼の元に戻り、室内の本を片付けていた時のことだった。
何の脈絡もなく投げ掛けられた言葉に首を傾げてしまう。わたしの一体何処を見て、そう言っているのだろう。
「多分、それはボロミアさんの気のせいではないかと……」
「そうだろうか」
机の上で何か書き物をしていた彼は、その手を止めてこちらを見ている。
わたしはそのまま抱えていた分厚い辞書らしき本を数冊、棚に収めたけれど、やがてぽつりと「すまない」という言葉が背後から掛けられた。
「が国に帰るための方法を、私達では授けてやることができぬ」
「ボロミアさん」
わたしは振り返ると、意識して口の端を持ち上げた。
「わたし、ボロミアさんやファラミアさんが色々調べてくださってるの、知ってますから」
「…………」
「寧ろ、大変お手数を掛けてしまってわたしの方が申し訳ないというか……。なので、ボロミアさんがそんなふうに言う必要はないと思うんです」
「…………」
考えて、言葉を選んだつもりだった。
しかし、彼はそれでもやや落胆したような表情を隠せないでいる。
彼らが古い文献や書物を当たって、わたしの帰途の手立てになるものが無いか調べてくれていることは分かっている。
本当なら自分で調べられればいいのだが、わたしはここの文字がそもそも読めないので無理な話だ。
……やはりどう考えても、ボロミアさんが今みたいに謝る理由は何処にもない。
わたしの方こそ、本当に申し訳ないと思っているのだ。彼らだって、決して暇ではないというのに。
せめて、何らかの形で彼らの役に立てれば、恩返しもできるのだが。
わたしは少し長めの息を静かに吐いた。
仕事が欲しいとお願いをして以来、ボロミアさんはごくごく小さな役目をわたしに与えてくれている。
彼は外出も多く、その間には先程のようにヨーレスさんの方の手伝いに行くこともある。
けれどそうでない時は、ボロミアさんの傍に居るようにした。
ちょっとした雑用――お茶を淹れたり、部屋の片付けをしたり、そんな細々としたことをこなしている。
いつもは彼の傍で、彼の指示で動く。自分に与えられた部屋と、ボロミアさんの執務室とを往復する日々。
小間使いの真似事でしかなかった。
しかし彼は彼で、目の届くところに居てくれた方が良いと考えているらしい。
特に役に立つわけでもなかっただろうが、ボロミアさんは身近にわたしを置くようになり始め、自然にわたしは彼を知る機会が増えていった。
故に、だからこそ、申し訳ない気持ちになる。
執政家の長男であるボロミアさんは、本来ならわたしなど相手にしている暇などないはずだと、今更ながら分かり始めたのだ。
その身と心はこの国に向けられているべきだと思うと、正直なところ居た堪れない。
「」
とても静かな声で、近くに居る人が言う。
「何も気に病む必要はない。はよくやってくれている」
「……ボロミアさん、優しいですね」
わたしはひとまず普段通りの応酬をした。
さっきの吐息が、溜息に聞こえただろうか。これ以上、彼に気を遣わせるのは忍びない。
気分を切り替えようと、「さて!」と明るい声を出してみる。
今度は拭き掃除でもしようか。そう思って本棚から離れたところで、もう一度ボロミアさんから名を呼ばれた。
見れば、彼の方はもう机の上にペンを投げ出してしまっている。一目瞭然の仕事中断のサイン。
そしてその本人はと言えば、両手を組みながら、たった今静謐な声を発した人とはとても思えないような悪戯っぽい笑みを顔に浮かべている。
わたしを正面から見ると、言った。
「話をしないか」
「いいですとも」
間髪入れずにそう返した。
ボロミアさんは時々、こうして仕事の合間にいろんな話を聞かせてくれる。息抜きも兼ねているのだろう。
この人が今までに経験した武勇伝の数々から、小さい頃ファラミアさんと一緒に仕出かしたという他愛ない失敗談は聞いていて面白く、飽きなかった。
今日も、そんな話を聞かせてくれるのだろうか。そう想像しているところへ、彼はこう切り出した。
「日本には、魔法使いは居るだろうか」 と。
「残念なことに」、とわたしは頭を振った。
「居ないんですよね、これが。……あ、でも中つ国には居るって、前にオルガから聞きました」
「そうか、聞いていたか。――ここしばらく姿を見ていないが、ゴンドールには昨年立ち寄っている。名は幾つもあるようだが、私達はミスランディアと呼んでいる」
「みす、ら……」
「ミスランディア」
彼は辛抱強く繰り返す。
今日はどうやら、その魔法使いの話題らしい。オルガから話を聞いた時には、おお、と思ったものだ。
もし会うことがあるなら、魔法を見せてほしいとも思ったけれど、そう言えばどんな魔法を使うんだろう。黒魔法か、それとも白か。
「……その人、どういう魔法を使うんでしょう。炎を出したり、傷を治したりできるんでしょうか」
「そうかもしれぬ」
「わあ、すごい!」
わたしが素直に感嘆の意を示すとボロミアさんは目を細めた。
彼は、自分の話でわたしが吃驚したり、思い掛けない反応をしたりするのが面白いようだった。
もっとも、
「もしかすると、メテオやアルテマなんかも習得済みだったりするのかなあ。あ、それに多分、移動はトヘロスやルーラを使っていたりするわけですね。すごいなあ、流石魔法使いさん」
「…………???」
それはこちらの方も同じなのだけれど。
そこまで思ってから、わたしは不意に、あれ、と思う。
今まで何故か思い浮かばなかったことが、唐突に頭に浮かんだのだ。
「……今、急に思ったんですけど」、一拍を置いて、その内容をそのままボロミアさんに訊ねてみる。
「魔法使いさんなら、わたしを杖一振りで日本に帰してくれたり……しないでしょうか?」
「さて」
ボロミアさんはいつの間にか真面目な顔つきになっている。ほんの少しだけ、思案するような間があった。
続いた。
「私には何とも言えぬ。私自身、彼の魔法がどのようなものか、その全てを見知っているわけではないのだからな。だが、訊ねてみる価値はあると思う」
「その人は、その……今何処に?」
「わからぬ。ミスランディアは現れる時も去る時も風のようでな。ここにも次いつ現れるか」
わたしは少し押し黙った。
魔法があるというのは、割と最初の頃に教えてもらっていた。
それだというのに、今まで「自分の帰り道を教えてもらえないかどうか」と考えつかなかったのは、正直言ってややうっかりである。
いつその人に会えるかどうかは不明のようだが、何も手立てがなく手を拱いている今の状況からすれば、余程希望のある話ではないか。
わたしは少し、元気になった。
けれど、どうして今になって、ボロミアさんはその話をしてくれたのだろう。もっと以前に話してくれていても良かったのでは。
ちらっとそんなことを思ったけれど、直ぐにわたしは彼に向き直った。
「わかりました。要は、希望を持てということですよね」
「それは勿論だ。しかし同時に、改めて覚悟しておいて欲しい」
「……?」
一体何を。そう続けたくなりそうなところで、口を噤んだ。
見れば、こちらを見るボロミアさんはひどく神妙な顔つきなのだ。何かを口走るのも憚られるような。
彼は言った。
「ミスランディアに限ったことではない、が国に帰るための手段は、他にも探せばあるのかもしれぬ。だがゴンドールではそれを見つけることが今のところできていない。そしてこの国の外にそれを探しに行くのは、今は非常に困難なことなのだ」
わたしはふと、彼ら自身から聞いた話を思い返す。
今中つ国では何が起きているのか、彼らの国がどういった状況下にあるのか。
わたしが耳にしたのはあくまでほんの一端でしかないけれど、それでもうっすらとは把握しているつもりだった。
「希望がないわけではない。しかしそれを確かめることさえ長い時間が掛かるだろう。そしてその先に必ず光があるという保障もないのだ。そのことをどうか、覚悟していて欲しい」
わたしは今になって、ボロミアさんが自分などよりもずっとわたしの行く先を案じてくれていたことにやっと気が付いた。
そうでなければ、こんなことを言いはしない。
自分は流れるような時間の中を彼に守られながら過ごしていて、ただそれだけでしかないというのに。
なのに、彼はそうではないのだというのに今改めて思い当たり、胸が詰まりそうになる。
言葉というものは無力なものだ。伝えたいことがあるという時、この裡にあるもの全てを表すことなどできやしないのだから。
少しの間わたしは彼を見ていたけれど、やはり言いたいことは上手く口をついて出てきそうにない。
ややあって、黙って、わたしは肯いた。
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