「何をそれほど真剣に見ているのだ、」
「手紙ですよ」
わたしは手にしていたものを、ボロミアさんに掲げて見せた。
そうしながら同時に、彼自身の事を少しばかり心配した。この人は昨夜、それも随分遅くに遠出から戻ったばかりのはずだ。
腕時計を見れば、まだ朝の九時を過ぎたばかりだった。
彼にとって、まだ起き出してくるには早いのではないだろうか。睡眠もあまり取れていないのではないだろうか。
ここ最近特に外出が多く、身体を休めている時が傍目にも少なくなっているような気がする。
ボロミアさんは大丈夫なのだろうか。
色々と思うものの、当の本人はまるでいつも通りのボロミアさんに見える。
彼はわたしの手から封筒を受け取ると、まじまじとそれを眺めた。
「……読めんな」
「やっぱり、そうですか」
十中八九、そうだろうなとは思っていた。
ローマ字で表記してはみたのだが、やはりボロミアさんには読めないらしい。うん、まあ、知ってた。
未だ何処か不思議そうに封筒を見つめるボロミアさんが、続けて言った。
「手紙とはいうが……誰に宛てて出すのだ?」
「わたしの家族宛てです。無事に生きてますって、伝えられたらいいなと思って」
「……ふむ」
彼は何か言いたそうに、けれどそのまま黙り込んでしまう。
大体、言いたいことはわかる。
わたし自身、この手紙が本当に家族の元に届くとは思っていない。
そもそも宛名も差出人も中つ国の人には読めないのだから、せいぜい手紙を運ぶ人に困惑されて、最終的には処分されるのが関の山だろう。
「ただの気休めですよ」、とわたしはちょっと笑ってみせた。
「この間、ファラミアさんに言われたんです。『 せめて手紙でも届けられれば、が無事だという事を家族に知らせることもできるだろうに 』って」
「…………」
ボロミアさんは、何も言わずにただ黙するばかりである。
確かに連絡が取れないことはやや気掛かりではあったものの、彼自身がそうやり切れないみたいな顔をすることはない。
この話題はもうお終いにしようと思い、わたしは彼の手から手紙を返してもらう。
そうしながら、さりげなく別のことを訊ねてみる。
「それより、もしかして朝食はこれからですか、ボロミアさん?」
「いや、もう済ませた」
「そうですか。……あの、今日も外出されるんですか」
「その予定は今のところ無い。明後日にはまた一日、ここを空けることになるが」
わたしは肯いた。
ひとまず、今日から明日に掛けてはこの館に留まるのらしい。内心ホッとする。
いくら元気そうに見えるとはいえ、できることなら、たまにはゆっくり休養してほしいのだ。
何も言っていないのに、此方を見ていたボロミアさんは急にふっと表情を和らげると、その手のひらをわたしの上に伸ばしてきた。
片手だけで頭を覆ってしまえそうな大きな手で軽くくしゃりと撫ぜられて、思わず身を縮めてしまう。
「な、何ですかボロミアさん」
子供じゃないんですから、と見上げると、さっきと変わらない穏やかな顔つきで彼は笑っていた。
わたしが言ったことには触れず、ただ、
「そんなに心配そうな顔をするな」と言った。必要な休養は取るようにしている、だから大丈夫だと。
……そんなに思っていることが、顔に出ていただろうか?
ボロミアさんがその場を去ってから、わたしはそっと両手を頬に押し当てかける。
すぐに、止めた。
借り物の羽ペンとインク、慣れないその筆記用具で手紙を書くのに悪戦苦闘して、手がインクであちこち汚れてしまっているのだ。
運悪く、鞄に入っていた自前のボールペンは昨日でインク切れを起こして書けなくなってしまった。
今日からは、日記も羽ペンとインクで書くことになる。
……一瞬だけ、日本に戻れたらなあ、と思う。ボールペン一本買ってくるだけ、その辺どうにかなりませんか、神様。
我ながら何とも平和なことを思いながら、洗面所に赴くために席を立った。
翌日の午前。
珍しいことに、いつもよりも多く陽の光が差し込んでいる。
窓から見渡せる景色、離れた野には遠目にも色付く花々や茂る緑があった。季節はいつの間にか初夏へと移り始めている。
洗濯籠を運んでいれば様々な人とすれ違う。
もうこの頃には顔見知りになった人も何人かいて、声を掛けたり掛けられたりということがそれなりにあった。
「ベレゴンドさん、おはようございます」
「これは殿、今日も精が出ますな」
「いえ、皆さんほどでは」
わたしはにこにこして彼らを見送った。
多くの人がボロミアさんやファラミアさん達を主としていて、どの人も礼儀正しくいい人達だ。わたしは彼らのことも好きだった。
洗濯物を干し終えた後廊下を歩いていると、そんな人達の中でもまだ言葉を交わしたことのない男の人達が向こう側からやって来るのが見えた。
会ったことはまだ一度しかないけれど、確かファラミアさんと行動を共にしていたと思う。名前はまだ知らない。
こちらから頭を下げると向こうもそれを返してくれ、そのまま通り過ぎていく。
今の人達がミナス・ティリスに戻ってきているということは、ファラミアさんも来ているのだろうか。
昨日からイシリアンという所に赴き、数日は戻らないと聞いた気がするが。
空の籐籠を抱えながら、わたしは帰り道がてら彼を探してみることにした。
長い通路から階段を渡りつつ、通りゆく人達を眺める。
この国の人は背の高い人が多かったけれど、中でもすらりとした背格好のファラミアさんはなかなか見つからない。
彼は帰ってきていないのだろうか。
なんとなく外に出てみると、降り注いでくる陽の光が思っていたよりもずっと暖かい。
見れば、薬草園に続く道の端々にも蒲公英やシロツメクサのような見覚えある草花が顔を覗かせている。
屈んで、手を伸ばそうとした。ボロミアさんやファラミアさんの部屋に季節を持ち帰りたい。
ガラスの小さな器にでも水を注いで浮かべれば、それなりに可愛いだろう。
その時ふと聞こえてきたのは、誰かの話し声のようだった。
「……し、…………です」
「もう…………にか」
「はい、……、兵を…………をと」
上手く聞き取れない。
わたしは花を手折るのを止めて、辺りを見回した。
別に、人の話に耳を欹てるような趣味はない。
それなのに声の主を探したのは、単純にそれが、今探している人の声だったからだ。
薬草園とは反対方向に続く道に、あまり背の高くない木立がある。そこまで行ってみれば、ようやく彼らの姿が見えた。
「……のオーク共が勢力を増しています、あの森に無暗に立ち入るべきではありません。兄上、既に何度か探索はされたのでしょう? 確かにを拾われたあの場所に、彼女が国へ帰るための手掛かりが残されていないとも限りませんが、これ以上は……」
「確かにそなたの言うとおり、幾度かあの森には足を運んでいる。だが、せめてもう一度確かめておきたいのだ。ミスランディアも次いつこの国を訪れるか判らぬ。これからは戦もまた増えるだろう、今、できる限りのことはしておきたい」
緩やかな風が、足元の草花を撫でていった。
ひらひらと白い、何かモンシロチョウにも似た小さな蝶が音も立てずに舞っている。
ジッと動かないわたしの腕の籐籠、その端っこに止まると羽を休め、僅かにその白を揺らめかせた。
「では、明日はやはり、赴かれるのですね」
「ああ。もし何も見つけることができなかったら、他の方法を探そうと思う。……心配するな、私一人ではない。部下を何人か連れていこうと思う」
「あのう」
わたしは小さく片手で挙手しながら、ボロミアさん達の方へ歩み出た。
動いたことで蝶は籠から離れていった。
けれど、それよりぎょっとしたような顔の彼らがちょっと面白かった。
「か。……聞いていたのか」
「はい、すみません」
取り敢えず、一応そう言っておく。
しかし聞いたら駄目な話、というわけでもなかったはずだ。
そして大いに自分に関係する話だったので、わたしは駄目で元々のお願いをしてみることにする。
「ボロミアさん、わたしを見つけたところに行くんですよね? でしたら、わたしも連れていってはもらえませんか」
「しかしあの森はオーク共が数多く徘徊している、そんな場所に連れていくわけには」
「……駄目ですか?」
短く、もう一度問うてみる。
我がままを言いたくはない。聞いたところ、もう充分すぎるくらいにボロミアさんは探索をしてくれているのだ。
しかし、わたし自身でなければ見つからないような何かがあるかもしれない。そこに行くのが最後だというなら、猶更だ。
返事を待つが、ボロミアさんは困ったようにこちらを見返している。
其れをフォローするように、
「を危険な目に遭わせたくはないと私も兄も考えているのだ。どうか判ってほしい」とファラミアさんが口添える。
わたしは二人を困らせるつもりは毛頭なかったし、了解を得られるかどうか訊ねる意味合いで訊いてみただけだった。
此処でごねても進展はないだろうと判断し、潔く退くことにする。
「分かりました、無理を言ってごめんなさい」
「……すまない」
「いえいえ」
目を伏せるボロミアさんに、わたしは敢えてごく軽い口調で言ってみせる。
内心、どうしてこの人はこうなのだろう、と思う。
きっと元々そうなのだろう。どうもボロミアさんは、優しすぎるきらいがある。
そして彼が優しいが故に、わたしは大変な負担を掛けている。
今だって、ボロミアさんが最後の探索に行くのをただ見送り、その帰りを待っているしかないのだ。
わたしは胸の内で、静かに深いため息をついた。
新しい季節の風が吹き抜ける日の午前のことだった。
まだ薄暗い、早朝と言える時間だと思われた。
わたしは寝惚け眼を何度か瞬かせた。
どうしてわたしの部屋に、ボロミアさんがいるのだろう。
今の自分は、彼の庇護の下にある。つまりは、彼は主とも言える存在である。
そしてボロミアさんという人は、とても信頼の置ける人物でもある。誠実で紳士的でもあり、そして戦いの場では勇猛だとも聞く。
こう言っては何だが、自慢の我が主である。
その彼が、部屋に忍び込んでくるだけに留まらず、ベッドで眠っているわたしを揺り起こしてくるというのは尋常ではない。
――わたしはいっぺんに目が覚めてしまった。
互いの目と目が合って、わたしが何か言おうとするよりも早く、ボロミアさんが口の前に人差し指を立てる。声を立てるな、ということだろう。
確かにまだ皆寝静まっている時分だ。それにしてもそんな時間に、一体どうしたというのか。
訊ねるように再び瞬くと、彼は囁き声で話し始めた。
「休んでいるところすまない。……その、ノックはしたんだが……どうしても目を覚ます様子がなかったのでな」
「……すみません、起きない時は本当に起きられなくて、わたし」
わたしは目覚まし時計の音量を最大にしてあっても起きられない時が度々あったりする。
そんなわたしに、ドアの外から呼び掛けていたとしても無理である。
反応がなくて、やむなく彼は入室することにしたのだろう。
「朝早く起こして悪いが、……これから出立しようと思う」
「はい」
「……急いで用意をしてくれ」
「はい? ……それって」
寝起きのせいか突然の言葉のせいか、彼の言葉を理解しかねた。
そして自分でもとんちんかんだなと思う事を口走ってしまったのは、やはり寝起きのせいだと思う。
「……ボロミアさんのお弁当の用意ですか?」
「違う。自身の出立の用意、という意味だ」
「えーと……」
まだピンと来ていない自分に、ボロミアさんは決して苛立つでもなく理解を待ってくれている。
改めて身体を起こしながら、わたしは少し考え、事態をようやく把握した。
「……わたしも行って、いいんですか」
「そうだ」
「昨日は駄目だって、言ってませんでしたっけ」
「そうだな」
「どうして、今になって」
言うと、ボロミアさんはほんの少し沈黙した。すぐに、続けた。
「悔いは、残さない方がいい。……ただそれだけのことだ。心配するな、危険な目になど遭わせはしない」
そこまで言うと、
「さあ、マドリル達が待っているから急げ」と彼は急かした。
おそらく、ボロミアさんも迷いに迷ったのだろう。確かに身の保証を考えるなら、自分を連れていくことは得策ではない。
けれど本当にそれで後悔しないかと考え抜いた果てに、最終的に彼が下した結論がこれなのだ。
わたしははっきりと肯いた。
「わかりました。よろしくお願いします」
「ああ」
「じゃあ、まず手始めに、なんですが」
「うむ?」
「その。ひとまず、出ていってもらえますか」
「……?」
「…………そうでなかったら、後ろ向いててもらってもいいですか。着替えますから」
寝て起きたままの自分の格好を示してみせれば、薄暗さの残る部屋の中でもボロミアさんの顔がサッと赤くなったのが分かった。
わたしはと言うと、一応見ないでもらった方がいいのかな、くらいの気持ちで言っただけである。
今更過ぎるほど今更なので、そんな反応しなくてもいいのにと思う。
かえってこちらの方が申し訳なくなってきた。
「……外で待っている。失礼した!」
そう言い残すが早いか否か、風のような勢いで出て行った。
おまけに閉めたドアのピシャンという音がやたら大きく、思わず耳を塞ぎかけたくらいだ。
絶対に今、この音で起きてしまった人が何人かいる。そう思った。
しかし、とにかく。
数瞬の後には、早朝の静寂が戻ってきている。
わたしはするりとベッドを抜け出て、大急ぎで支度をする事にした。人を待たせているのだ、急がなくてはならない。
まあ、今のボロミアさん並みの早さで、とまではいかなかったけれど。
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