朝は薄暗く、静かで、肌寒かった。
靄が霞んでいるのかと思ったけれど、すぐにそうではないと気付く。音のない霧雨が街を包んでいる。
大した雨量でもなかったけれど、既に石畳の上は濡れ、空気は湿気ていた。
普段の格好でいるわたしを見るなり、
「それでは風邪を引く」と言って、ボロミアさんはフードの付いた上着を寄越してくれる。
袖を通そうとして、袖そのものがないことに気が付いた。マントというやつらしい。
こんな時なのにも拘わらず、ちょっとワクワクする。こういうものを身に着けることなどそうそうないのだ。
羽織ってみれば、やはりそれなりに温かくて、ありがたかった。
東門には、既に厩舎から馬を待機させてくれていたらしいマドリルさん達が居る。
彼と、それからもう一人が門の先を見やりながら待ってくれていた。彼らとの挨拶もそこそこに、皆が手際よく馬に跨る。
わたしはといえば、乗馬などしたことがない。……どうしよう。今になって、そんなことに思い至る。
しかし見れば、ボロミアさんが手綱を取ったのとは別の手をこちらに差し出してくれている。
わたしはやや尻込みした。
「……ご一緒していいんですか、ボロミアさん」
「馬は初めてだと言っていただろう? 」
「それは、そうなんですけど……」
わたしは目の前の馬と、それから改めてボロミアさんを見る。
正直、とても絵になっている。まるっきり中世の騎士そのものだ。それはいいとして。
しかし彼自身体格も良く、更には装備もそれなりで、既に適正重量ギリギリみたいに思えるのだ。
わたしが乗って重量オーバーにはならないだろうか。そもそもわたしが一緒なのは、彼は嫌ではないだろうか。二人乗りはゴンドール道路交通法(があるかどうか知らないが)違反にならないだろうか。その辺全体的に、どうなのだろうか。
今更ながら色々不安になってしまって、手を出していいものか迷ってしまう。
けれど僅かに伸ばした手をグッと掴むと、ボロミアさんは一気にわたしを引き上げてしまった。
こちらが吃驚してしまうくらい軽々と、目の前の人は自分を持ち上げた。
わたしが目を白黒させている間に、身体はしっかりボロミアさんの後ろに収まっている。
一瞬である。
何が起こった、と思っているうちに身体が傾き、落っこちそうになってひえっと声を上げそうになる。
「どうした、しっかり掴まっていないと落ちてしまうぞ」
首だけで振り向いて言うボロミアさんの声より先に、慌てて彼の服の端っこを掴んでいたが、
「そうじゃない」と駄目出しされる。
確かにこれでは、すぐに振り落とされてしまう。
感覚的にすぐそれが解ったので、ボロミアさんのお腹の辺りに手を回してしがみ付いた。
内心、こんな事なら大学で馬術部に入っておけば良かったと思う。自分で馬に乗れたなら、こんな状況に陥ることもなかっただろうに。
そう思っていると、ボロミアさんの腕がこちらのそれと触れた。さっき自分を引っ張り上げてくれた腕はひどく逞しく、力強さに満ちている。
この腕が今までこの国を守ってきたんだと思うと、素直にすごいなあと思える。
「日没までには戻ろう。行くぞ」
考えていることはおくびにも出さず、それに短く返事をする。
わたし達は、早朝のミナス・ティリスを出発した。
景色は流れるようだった。
街を出てからのスピードは速い。霧雨は弱い勢いながら続いていて、ずっと顔を伏せていた。
しかし、ふと思った。
そう言えばわたしは、ミナス・ティリスを離れたところから見た事がない。
曲がりくねった坂道に入り、幾らか速度が緩んだところでちらりと後ろを振り返ってみる。
残念ながら、薄ぼんやりとした白い靄があるだけで何も見えなかった。
「どうした?」
振り返った気配に気付いたボロミアさんが、前を見たまま訊ねてくる。
街を外側から見てみたかったことを伝れば、
「せめて雨でなければよかったのだが」、と彼は空を見上げた。
雨さえなければ、ここからでもその姿を目に映すことができただろうと言う。しかしこの天気では致し方ない。
「太陽を浴びた白の都の美しさは、私の言葉では言い表すことができない程だ。帰りに見ることが叶えばいいが」
「帰りまでなら、雨も止むかもしれませんね。そうなればいいんですが」
言うと、こちらに合わせて速度を落としていたマドリルさん達が、どの時間のミナス・ティリスも趣深くて良いというのを聞かせてくれた。
上手くすれば、今日の終わりにはそれが見られるだろうか。
そうだといい、とわたしは思った。
しばらくすると、願いが通じたのか霧雨は止んで、やっとフードを下ろすことができた。
しかし、振り仰いだ先に青い空はない。
既に真昼だと言うのに酷くどんよりしている。灰色よりなお暗く重い雲が、そこに垂れ込めていた。
雲が流れていないわけではない。それなのに、まったくその切れ目が見えない。
これでは、さっきまでの雨降りの時の方が、まだ明度的にも雰囲気的にも明るいのではないかと思えた。
ただでさえそうなのに、見るからに陰鬱そうな森に入ってしまうと、ほとんど夕闇に紛れてしまったのと変わりなかった。
高い木立の重なり合う葉が光を遮っている。緑と木々の匂いばかりが悪戯に濃く感じられる。
こんな状況なのにちゃんと場所はわかるらしく、ボロミアさんは少し経つと馬を失速させ始めた。
すぐに、歩みが止まった。
「この辺りだ」
言って、彼は先に下り、次いでわたしも下ろしてくれた。
マドリルさんらも手近な木の幹に馬を繋ぐと火を灯し、周辺を見渡している。
不思議な事に、何の音も聞こえない。
鳥の囀る声も、風のざわめきも、小動物が駆ける足音も、虫の音も、森に在るように思われる音という音が一切しないような気がする。
それが一層不気味だった。
「う、うーん……何というか、いかにも怪しいところですね」
「此処はモルドールに近い。陽の光もあまり差さず、オークが徘徊し歩き回っていることも多い。普段は人も近付かない森だからな」
「物騒なところなんですね……」
どうやら既に、敵とエンカウントする可能性が大いにあるのらしい。
わたしは以前に何度か聞いたこの中つ国の知識、その中でも、オークと称される化物についてを思い出した。
何でも見た目は大層醜悪で、太陽の光を忌み嫌うという。
オークやゴブリンといえば、それこそドラクエやFFに登場するようなモンスターだったりする。醜いとはいえ、あの辺りならばそう見られないこともない。
わたしはふと、自分の身を見下ろした。
丸腰である。装備と言えば布の服にゴンドールのマントといったところで、もし何かあったとしても武器さえない。
……今のところ、非戦闘要員なのだから、仕方ないか。
わたしはそう思う事にして、次いで腕時計を見る。灯りは乏しいものの、針を読み取るには充分だった。
既に、昼食を取っても良さそうな時刻を示している。
戻るにも同じか、或いはそれ以上の時間が掛かる事を考えれば、そうそうのんびりもしていられそうになかった。
「二手に分かれるか。私達はこの場を調べる、二人は近辺を探ってきて欲しい」
火を分けてもらいながら、ボロミアさんがそう指示する。
マドリルさん達が茂みの奥に消えるのを見送ると、わたしは改めて周りを見回した。
彼はこの場所で、意識を失っていたというわたしを見つけたという。
意識がないというか、それはただ単に寝ていただけのような気もする。実際のところ、寝て起きたら中つ国にいたのだから。
それにしても、何もない。
わたし自身、ここに来てみれば何か分かるかと漠然と思い描いていたものの、いっそ潔いくらいまるで覚えもない。
馬を繋いだ所に荷物を置き、灯りも目印に一つ残した。
わたし達も近くを歩いてみることにし、別に灯したランプを手に深い森の中を辿る。
「どうだ、何か見覚えはないか」
「えっと……」
キョロキョロしながら、繋げる言葉を探しながら、けれどその時唐突に、自分の中に疑問が湧いた。
そもそもこの場所は、わたしにとって重要だろうか。
この中つ国の中で初めて降り立った場所というのは、本当にわたしにとって、それほど重大なものなのだろうか?
――勿論。
わたしは自分の問いに、自ら肯いた。
そうしながら、自分自身に少し戸惑った。どうして今になって、そんな事を疑問に思うのだろう?
無意識に首を振り、すぐにそのことからは目を背けた。
「うーん……、まだよく分からないです、もう少し歩いてみましょうか」
「そうか」
ボロミアさんの返答は短かった。
彼自身、わたしの答えを大方予想していたのかもしれない。ただ灯したランプを掲げながら、黙って辺りを探っていた。
その背中を見ていると、何だかやっぱり申し訳ないと思う。
ここまでの距離を何度も往復させてしまっているというのに、何の実りもない。ボロミアさんに何か言わなくてはならない気がして、思わず口を開きかけた。
刹那、ガラン、と金属が転がるような音が響いた。ずっと後方から。
振り返ると、マドリルさん達の方向にあった灯りが消えていた。
彼らの持ち歩いていたランプが何かの拍子に転がった音だろうか。
「ボロミアさ……」
思わず彼の方を見やろうとして、瞬間、ぐいと腕を掴まれ思い切り引き寄せられた。
何が起こったか判らなかったけれど、すぐ間近で思わず身震いするような鋭い音がした。
今までそう多く聞いたわけではないが、刃物が擦れる時特有の音だとわかる。ただごとではないと、すぐに理解できた。
ボロミアさんが、わたしを掴んでいるのとは別の手で剣を抜いたのだ。
「」
僅かな灯の暖色に照らされたその人の顔が、わたしを見下ろした。
何かをわたしに見せまいとしているかのように、その背後を彼自身で遮っている。
その手のランプを、わたしの手に半ば強引に押し付けた。
「先に馬を繋いだ場所に戻れ。ほんの少しの距離だ、行けるな?」
こちらに向ける口振りも表情もまだ何処か穏やかさを残していたものの、有無を言わさない調子だった。
肯く以外の返事などしようもなかった。
ただ一言、ボロミアさんは、とだけ小さく訊ねると、
「私もすぐ行く」と返してくれる。
空気が急に冷たく冷え、さっきまで無音だった森はいつの間にかざわめき始めている。わたしはもう一度だけ、肯いた。
「……早く、来てくださいね」
「ああ」
ボロミアさんも肯き返してくれた。
そう思った時には肩を掴まれ、またも引き寄せられている。
一瞬の後、頭の上に口付けられたのが判って思わず絶句した。
「さあ、行け!」
ほとんど押し出されるようにして、わたしはその場から走り出した。
何か危険な状況に陥りかけているらしいことよりも、ボロミアさんが今したことの方がよっぽどわたしを動揺させたが、とにかく走った。
ランプが上下に大きく揺れて消えかけそうになる。
こんなに長い距離だっただろうか。
目印に置いてきた灯りは確かに向こうで灯り続けているけれど、そこへ行き着くまでが遥かに遠い気がした。
それもほんの何秒かのこと、すぐに、その僅かに開けた空間に入る事ができた。
繋いでいた馬達が、此方を何処か心配そうに見ているような気がした。 走ったまま振り返っても、ボロミアさんの姿はまだ見えなかった。
この灯りでは、向こうまでを照らすには心許ない。
不意に足首を掴まれるような感覚があり、わたしはバランスを崩し転倒した。
手から落ちたランプががしゃん、と大きく弾み、音を立てて転がっていく。
灯が消え、周囲には闇が戻り始めた。
僅か数メートル先に残された目印用のランプだけが、一際弱々しく揺れているだけになった。木の根に足を取られたわけではない。
嫌な予感しかしなかったが、それでも見ないわけにはいかなかった。
ぬらぬらした光が、その目の中にあった。
どのくらいか、多分、二、三秒くらいは硬直したかもしれない。明らかなその異形は、初めて目にする者を凍りつかせるには充分だった。
ギラギラと殺気立った様相、乾いてがさがさにささくれ立った肌、歪んだいびつな顔の中に潜む二つの眼光。
濁ったその目をぎょろりとさせながら、嬉しそうにこちらをねめつけている。
爪の伸びきった手がむんずとわたしの片足首を掴んでいるのを見て視覚から、その足首から怖気を振るうような感覚が一気に広がり、全身が総毛立つ。
馬達の嘶きの響き渡る様が、何処か遠くのことのようだった。
わたしは生れて初めて、怪物と呼ばれる存在と対峙した。
しかしそれにも拘わらず、わたしは硬直の中、思考だけはまだ幾らかいつもの自分を保っていた。
さてわたしはオークと聞いた時に、ほぼドラクエ的なものを想像していた。何というか、若干まだ見られるようなものだと思っていたのだ。
それがどうだろう。目の前にいるのはもはや、バイオハザードに登場するようなクリーチャーではないか。
ロールプレイングゲームからのサバイバルホラーへ強制チェンジである。
突然のジャンル変更やめろ。
それだけに飽き足らず、あろうことかそのオークはわたしの足を掴んでいるのとは別の手に、大きく婉曲した刀を握っている。
鈍く光る刃、あまり切れ味はよくなさそうだったけれど、刺さったり切られたりしたらさぞかし痛いのに違いない。
それを振り上げているのだから、こちらは堪ったものではない。
というか、理不尽が過ぎる。
何もしていないのに不意打ちを喰らうとか、そもそも何なの?
初戦でバックアタックとか舐めてるのか。ふざけるな。
ふつう、人がこんな状況に陥った時、どんな感情が心を占めるのだろう。
恐怖、嫌悪、畏怖、後悔、或いは絶望?
少なくとも今のわたしの中にあるのは、それらのどれでもない。
わたしは自分でも驚くくらい、大変頭に来ていた。
ざっくり言えば、目の前の事態にブチ切れていた。バックアタックはゲームの中でも大嫌いだったが、現実ではもっと嫌いだ。
そんなんだったので、咄嗟に傍に転がっていた石を握り、遠慮なく相手の顔面に叩きつけても何も感じなかった。
自分の中に溢れる感情が飽和状態なのだから、当然と言えば当然だ。
たまたま叩き付けた其れがオークの目を傷付けたらしく、耳障りな奇声を発したと同時に足の拘束が解かれた。
すぐさまどうにか立ち上がったが、相変わらず丸腰だ。これではダメだ、と思った。何か明確な武器がなくては――。
その時、がらんと何かが音を立てた。
傍に繋いでいた馬達がその場を離れることもできず足踏みしていたので、立てかけていた荷物がなだれて散乱している。
その中に予備として持ってきていたらしい剣が数本あった。迷わず手に取った。
武器は命を奪うものではなく、守るためのものだと聞いたことがある。なるほどその通りだった。今のわたしならば、それというのがよく解る。
わたしはボロミアさんのことを思った。
あの人は今までずっと長い間、目を背けたくなるような邪なる存在から自分の国を守ってきたのだ。そのなんて勇猛なことなのだろう。
けれどわたしは彼に甘え、守護される側に回ろうとは思わない。
何故なら、わたしはそのために此処へ来たわけではないからだ。この程度の雑魚が、一体何だと言うのだ。
わたしは剣を振りかぶった。
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