目を開ける。
いつもの天井がそこに在った。
首を動かし目覚まし時計を見れば、既に九時を回っている。朝の九時過ぎ。
しばらく秒針が時間を刻むのを見ていたけれど、規則正しいはずの針の動きさえ、何処となくのんびりしているように見える。
寝床から起き上がると思い切り伸びをする。大分寝坊をしてしまったらしい。
いつもの朝を迎えながらのんびりとそう思う。
今までと何も変わらない、普段通りの朝の時間だった。
支度を済ませて外へ出ると、肌寒い空気が辺り一面に広がっていた。
三月の初旬、徐々に春に向かっているとはいえ、風はまだ冷たさを残している。
けれど日差しはあたたかい。大学へ向かうまでの道を歩きながら、陽の光のまぶしさに目を細めた。
学内に点在する桜も、あと少しで花が咲くのだろう。見頃になる時にはもう、自分は卒業してしまっているが。
芽吹く気配のある木々を見上げながらそんなことを考えていると、いつの間にか食堂や売店のある学部の敷地内に辿り着いている。
ゆっくりと時間を過ごす。
早めの昼食を食堂で取ってから売店に赴く。新しいボールペンが欲しかったので、予備も含め二本購入して鞄に収めた。
帰り際に掲示板も眺めてはみたが、特に目新しい情報はない。
自分に残された行事は卒業式しかないのだから、当たり前ではある。
誰か友人と行き合うかとも思ったが、今日はたまたま誰とも会わなかった。
それというのも、卒業まであと少しというこの時期だからだろう。就職、或いは更に進学するという友達の中には忙しく過ごしている子も多い。
わたしはといえば、比較的のんびり出来る環境にあった。
だからこの日は悠然と過ごし、自分の部屋に帰ってきて自炊の夕食も済ませ、夜は静かに眠りについた。
平和な、平穏な一日。
いつもならば寝付くまでに少し時間が掛かる自分が、深く何処かに引き込まれるようにこの日はすぐに眠りに落ちた。
開けた視界の先、すぐに自分に与えられている部屋のベッドの上だと分かった。
意識が覚醒して、真っ先に変だと感じた。
あの森からの復路、ミナス・ティリスに帰ってきた記憶がない。おかしい。どうなった。
思うのだが、すぐ傍で椅子に腰かけていたオルガが息の詰まるような顔でこちらを見たので、取り敢えず
「おはよう」と挨拶をしておく。
最近は、ここでの勝手というのが分かってきていたので朝の支度も一人でしていた。
彼女がこの部屋に居るというのは久しぶりだったが、とにかく。
しかし立ち上がり掛けていたオルガは、何故かへなへなとその場に崩れそうになる。
慌ててベッドから抜け出て、その身体を支えてやらねばならなかった。貧血か何かだろうか。
そう問えば、ただ首を振るばかりだ。そうしてぽつりと、
「良かった」、という言葉がその口から漏れた。
「何が?」
「が、目を覚ましてくれて……」
要領を得ない。
申し訳ないことに、彼女が何を言っているのか解らず、あからさまに首を傾げてしまった。
こちらとしては、ただ普通にぐっすり寝て起きただけである。
おかげで疲れも全くなく、体力が最大まで回復しているのが分かる。……のだが。
状況が掴めていないわたしを余所に、オルガは顔を両手で覆いながら声を詰まらせた。
「ボロミア様があなたを抱えて戻ってきた時、オークに襲われたって聞いて……、ずっと目を覚まさなかったらどうしようって、私、私……!」
泣き声で、後半はほとんど不明瞭になって聞き取れない。
しかし、わたしは今になってボロミアさんのことに思い当たった。同時に、そんな自分に対して腹を立てた。
どうして真っ先に彼のことを考えなかったのだろう!
あの人はわたしのために、あんなにも尽くしてくれたのに。それなのに自分ときたら。
思ったがしかし、オルガの話しぶりからすれば、彼もどうやら無事に戻ってきているらしい。
そのことに心から安堵する。
そうするうちにも彼女は不意に立ち上がり、ボロミアさんにわたしのことを報告しに行くと言って足早に出ていった。
心配ぶりが大分オーバーなようにも思ったが、心配を掛けたのは事実らしい。
詫びの一つもまだ言っていなかったが、まあいいかと思う。戻ってきたら言えばいいだろう。
そう思い巡らしながら、
「あ!」とつい声に出してしまう。
離れた場所からミナス・ティリスを見てみたかった。
自分がそう思っていたことを、急に今思い出したのだ。そしてそれが叶わなかったことに、少しだけがっかりした。
本当に、ほんの少しだけ。
一分も経たないうちのことだった。
重い足音が近付いてきたのでボロミアさんに違いないと思っていたら、ノックするのも手間だったのかそのままバンと扉が開け放たれた。
ああ、やっぱりボロミアさんだと思った次の瞬間、わたしは思い切り息を吐き出さずにはいられなかった。
自分でそうしたのではない。肺が圧迫されてそうせざるを得なかった。
数瞬の後、ボロミアさんに抱き締められていると判ってぎゃあと思ったけれど、同時に彼の匂いが鼻腔をくすぐった。
その結果、森の中での別れ際、頭に口付けを落とされた事まで思い出してしまって、わたしは声に出して悲鳴を上げそうになった。
実際そこまでだったら、きっとどうにか持ち堪えていた。
しかしそれだけに飽き足らず、扉のところではファラミアさんまでが立っているのだ。
どうしたものか、というような顔つきでこちらを見ているのだから堪らない。
知っているはずがないのに、ファラミアさんに全てを見られたような感じがして遂にわたしは絶叫した。
「ぎゃああああっファラミアさん見ないでえええいや寧ろ助けてえええ!!」
「……気持ちは判らないではないが、少し落ち着け」
薄く細まる目でそうファラミアさんが言うので、ますます居た堪れない。
しかし彼がどうにかしてくれる前に、ボロミアさんの方から身を引いてくれた。まじまじと顔を覗き込んできたかと思うと、
「よく目を覚ましてくれた」、表情を緩めながらそう言って頭を撫でてくれる。
こちらはまだ心臓がバクバクしていたけれど、それでもひとまず肯いた。
「ボロミアさんこそ、ご無事で何よりです。あの、マドリルさん達は――?」
「大丈夫だ、皆大事ない」
「そうですか、良かったです」
「も、怪我はないのだな?」
「? ないですよ」
どうしてそんなことを訊くのだろう。
そう思い掛けて、ああ、まあ、敵とエンカウントしたもんね、と遅まきながら納得する。
納得して、再度また疑問が戻ってきた。
わたしには帰り道の記憶がない。……納得している場合じゃない。
解せぬ、というやつだ。意識を失くすようなことなんて何もないのに。
しかし察するに、事実上は意識不明(実質、寝ていただけだが)に見えたのらしい。
だとしたらその間、ずっと心配を掛けていたことになる。
ふと気になって、どちらへともなく訊ねてみた。
「……わたしはどのくらい意識がなかったんでしょう」
「半日と数刻程だ。あの森からを連れ帰ってから今まで、ずっと眠っていた」
寝すぎじゃないですかね。
わたしは自分に対して薄目にならざるを得なかった。
半日って十二時間だよね。更に数刻……プラスアルファって相当ですけど。まあ、しかしとにかく。
ということは、日付が変わっていることになる。わたしはボロミアさんに頭を下げた。
「ごめんなさい、心配と迷惑ばかり掛けてしまって」
「顔を上げてくれ。私が先に戻れと言ったのだ、私の方こそ謝らねばならない。危険な目に遭わせはしないと言ったのに」
「でも、無傷ですから。……そう、敵にも勝ちましたし!」
わたしはポンと手を合わせて言った。
実際、初戦は記念すべき初勝利である。そこまではしっかり覚えていた。
雑魚といえる相手だったし、偶然にも既に向こうの視力を奪ってもいた。後は武器さえ取ってしまえば決して困難なことではない。
もしメニュー画面があってわたしの状態を見られるのなら、経験値がちゃんと上乗せされているはずだ。
しかし、その後の記憶がブツ切れしているのは合点がいかない。どういうことなの。
「……倒したのか?」
「倒しました」
ノーダメージで。
ファラミアさんが訊ねるので、わたしは真顔で親指を立てた拳をそっと示してみせた。
しかし二人はすぐには反応せず、あれ、と一瞬わたしは首を捻りかけた。恐る恐る、
「倒しちゃ駄目でしたか?」と訊いてみる。
何しろ、向こうから不意を突いてきたのだ。こちらにそれなりの正当性はあると思うのだが、駄目だったろうか。
様子を窺えば、そんなことはないという。
寧ろ勇ましいとさえ言われもしたが、彼らには一つ確かめたいことがあるらしい。
ボロミアさんは改めてわたしを正面から見ると、ほんの少しだけ間を空けてから言った。
「。私があの場に戻った時には既に、お前は意識を失っていた」
「はあ」
わたしは思い返してみたが、ボロミアさんが戻ってきた部分の記憶は確かにない。
「私はすっかり、オークの襲撃を受けて何処かに傷を負ったのかと思っていたのだが」
「完全に無傷ですけど……」
わたしは言葉を濁した。
何だかノーダメージ勝利したのが、逆に申し訳ないような気がしてきた。
……ああ、なるほど。
彼から見ればわたしも敵も倒れていて、あたかも相討ちのように見えていても不思議ではない。
それならば、オルガが大袈裟に心配していたのも理解できる。
ボロミアさんが続けていた。
「では何故、意識を失くしたのだ?」
「そう、そこなんですよ!」
よくぞ訊いてくれました、と言わんばかりの勢いでつい大きく肯いてしまう。
ついでに言えば、片方の手の握り拳付きである。というのはさておき、向こうから訊ねてくれたのでわたしは経緯を説明する。
……とはいえ、言うほどの説明量でもない。
事実、ぷつりと映像がなくなっている。よく映画とかで場面が編集されて、ブラックアウトするみたいな感じのあれだ。
正直にそんな成り行きを伝えれば、二人は然程不思議がるでもなく、
「それなりにショックだったのだろう」と言う。
「の国には存在しない化け物だ、倒すことができたとはいえ衝撃が大きかったのだろう」
「うーん……そうでしょうか」
たぶん、そうじゃない気がする。
わたしは傍目には納得し掛けている風を装いながら、まるで納得していなかった。
一般的に無くはないのかもしれないが、そんな繊細ハートな持ち主とは、我ながら思えないのだ。
それ以外に、何かあり得るとしたら何だろう。
……実は勝利したというのは妄想で、本当は敗北していてセーブポイント(ミナス・ティリス)まで戻された?
一瞬思うが、それだとわたし死んでるじゃないか、と思ってゾッとする。
おお勇者! しんでしまうとはなにごとだ! を地で行ってどうするのだ。
……本当に何事なの。いや、ちゃんと勝っている。大丈夫。……大丈夫。そもそもゲームの世界じゃあるまいし。
色々思うところはある。
しかし彼らは、精神的なショックによるものと結論したらしい。
そして、わたし自身から顛末と無事を聞いて安堵し、得心が行ったようだった。
……まあ、それならそれで構わない。
わたしはボロミアさんに、
「良ければ、いつもみたいにお仕事の手伝いがしたいんですが」と申し出てみたが、念のため今日は身体を休めるようにと強く言われ、大人しく従う事にする。
部屋を出ていく二人を見送るところでふと気になって、わたしは彼らの背に向かって
「オルガはどうしましたか」と訊ねてみた。
おそらく自分の部屋で泣いているのだろう、と返事を寄越してくれたのはファラミアさんの方だ。
「が無事だったと判って力が抜けたのだろう、今はそっとしておく方が良い」
「そんなに泣かなくても……」
心配性だなあ。そう呟くと、ファラミアさんは少しだけ目を細めてこちらを見た。
「……は、オルガがこの都の出ではないのを知っているか」
「ここから離れた村の出身だって、聞きました」
「彼女の村は、ゴンドールの北西に嘗てあった。数年前、丁度彼女がヨーレスを訪ねて来ていた時にオークの襲撃に遭い、村での生き残りは彼女だけになってしまったが」
言って彼は、黙り込んだわたしに向け、続けた。
「」
「……はい?」
「無事に戻ってきてくれたことに礼を言う」
ファラミアさんが、そしてボロミアさんが微かに微笑み、共に去るのを見送る。
当の本人が、わたしに朝食の膳を運んで来てくれたのはそれから間もなくのことだった。
食事を終え、身支度を済ませてしまうとすることがない。
自室の窓からは、外の様子がよく窺えた。昨日の小雨は止んで、僅かながら晴れ間が見える。
わたしの部屋からでは角度的にあの森の方向は見えなかった。
きっともう訪れることはないだろう。実のところ、何の手掛かりも得られなかった。おそらく何の意味もない。
となれば、ボロミアさんが以前話してくれた魔法使いさん。
わたしの帰り道を探す次の手立ては、彼を訪ねることだろう。
それまではやはり、ここにお世話になるしかない。
さて。
腹を括ったところで、ベッドの上に投げ出していた鞄を引き寄せる。手鏡を取り出そうとしただけだった。
何も考えずにファスナーを開ければ、一番手前に、セロテープで封をされた小さな紙袋がある。
わたしはちょっと間を空けてから、周囲を少し見回してしまう。
ボロミアさんたちが居る時だったら良かったのだが、残念ながら今はわたし一人である。
ツッコミが不在なので、わたしは仕方なく
「えーと」、と独りごちた。
誰かが居てくれたら、この若干の困惑も分かち合えたのに。……いや、逆に一人の時で良かったのだろうか?
そりゃあ、随分と現実じみた夢を見たなあとか、内心思ってはいた。いましたけれども、それにしても。
思うが、取り敢えずセロテープを剥がしてみる。
袋の空いた口を斜めにしてみれば、二本のボールペンが滑り出てくる。確かに売店で買ったものだ。
わたしは天を仰いだ。
……ひとまず、借りている羽ペンとインクは早々に返してしまってもいいかなあ。
ぽつりと、そう思った。
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