時間が、幾らか流れた。
モルドールより大軍が送り出されたのは、が目覚めて間もなくのことだ。
不意のことだった。これまでにも何度となく邪悪なものとの対峙は経験してきたが、今回はまるで規模の違う大きな攻撃を受けた。
かろうじてオスギリアスの奪回を果たすことはできたが、多くの兵を失った。
――そして今、私は一人、ただ立ち尽くしている。
不気味なほどの静けさがそこにあった。
あちこちに立ち昇っていた黒煙も薄れ始めている。
燻したような空気、それに混じっていた血の匂いも、吹き抜ける風に少しずつさらわれていく。
晴れないままの暗雲が居座る空があったが構わず、川岸に立ちそのまま向こう側を見据える。
背後で砂利を踏む音がした。

「ファラミアか」
「はい。……兄上、どうかされたのですか」
「いや」

言葉少なに返す。
弟は何も言わなかったが、おそらく考えていることは同じだろう。
思うところは幾つかあった。イシリアンの部隊の全滅、流された血、失った部下達、おぞましいモルドールの脅威の数々。
敵軍の中にはオーク共だけでなく、東夷や南方人ハラドリムの姿もあった。
もしサウロンが彼らを味方に引き入れたと考えるなら、次の攻撃があった時にゴンドールは持ち堪えることができるのか。
それを考えると暗澹たる気持ちになる。
しかし我々は、今自分達が身を置くこの地を、オスギリアスをモルドールから確かに取り戻したのだ。
胸の内から目を逸らし、私は傍らの弟の背を叩いた。

「やったな」
「……ええ」

ファラミアの表情は何処かぎこちなかった。
やはり自分と同じことを考え、憂いているのだろうか。思ったが言葉には出さず、私は敢えて笑って言ってやった。
明日には祝いもあるというのに、そのような暗い顔をしていてどうするのだ、と。
ファラミアは私に乗じて笑むことなく、僅かに沈黙した。
ややあって、その重い口を静かに開いた。

「兄上、我らは本当に勝利したのでしょうか」
「……どういう意味だ」
「私には、この戦いがこれから来たる大攻勢の予兆にしか過ぎないように思えてならないのです。……兄上は、不思議に思われませんか」
「何がだ」
「この、静けさです」

弟は遠く、対岸よりも更に向こう側を見ているようだった。
その目に映っているのが何なのかは分からない、私にさえ見通すことの叶わぬゴンドールの行く末なのか、或いは否か。
ファラミアは続けて言った。

「あまりに静か過ぎるのです、あれ程の戦いがあったというのに。……奴らに今、動きを見つけることはできません。何故動こうとしないのでしょうか。……敵軍にはもしや、他に何か狙いがあるのではないかという気がしてきたのです」
「他に……となれば、それは一体何だ」
「解りかねます。我々の兵力を試しただけに過ぎないのか、或いはそれ以外に目的があるのか……。何にしても、次なる戦いを迎えた時、ゴンドールは――」

言葉は最後まで紡ぐことなく途切れた。
この賢い弟は、自分などよりも遥かに先を視ている。
ファラミアのいう通りとするならば、次の攻撃を受けた時にゴンドールはそれを防ぎきれないだろう。
ジリジリと何かが焼けていくような焦燥があった。しかし。

「ファラミア、今は心を強く持つ時だ。我らが士気を高めずして、皆を奮い立たせることなどできぬ。……私達でこの国を守っていこうと、子供の頃から言っていただろう?」
「……はい」

重く、短く、弟は返事を口にした。
すぐに心の中の翳りを何処かに無理矢理押し込めるようにして、
「兄上の仰る通りですね」 と続け小さく笑んだ。

「申し訳ありませぬ、私がこのようなことではいけませんね」
「そう言うな。お前は私の自慢の弟だ、これからも頼りにしている。……今は素直に、この地が戻ってきたことを喜ぼう」
「ええ、……そうですね」
「差し当たっての問題は、明日の祝いでする私の演説か。あまり長い話は得意ではないというのに」
「そう仰らずに。白き塔の大将の言葉を皆心待ちにしております」
「いっそのこと、これまでの中で一番短いものにしてしまうか。話の後の酒が待ち遠しくてならないからな!」

言うと、最初は苦笑するような表情を作ったファラミアだったが、やがて堪え切れなくなったらしく声を出して笑った。
弟が今日心から笑ったのは、これが最初で最後だったかもしれない。
……いつか、と思う。
いつの日か、皆が何も気に病むことなく本当に笑い合える時代が来ればよい。
私は望みの薄い夢の中に、大切な者達の姿を思い描いた。
弟を思い、父を思い、ゴンドールの民達を思い、そして黒髪の娘のことを思った。
彼らの上に幸福が満ちる未来を、私は願った。





窓から忍び込んでくる風は、何処か懐かしい匂いがする。
きっと遠くから渡ってきただろうその風からは、微かに草木や土の匂いが感じられた。
わたしは少し嬉しくなった。中つ国、白い石の都ミナス・ティリスにも、わたしの世界と同じ匂いが同じように存在している。
窓の外にやっていた目を、手元に戻す。
パラパラと日記を捲り、一番最近の頁で止めた。ここ何日かずっと、同じことばかりを綴っていたような気がする。

ボロミアさんもファラミアさんも、しばらく姿を見ていなかった。
慌ただしく一時的に帰ってくることはあったけれど、すぐにまたいなくなってしまう。話をする時間は少なかった。
聞けば、モルドールから攻撃を受けたのだという。
周りの皆の様子から、ただごとではないらしいと窺い知ることができた。
日記はボロミアさん達の無事を祈る内容ばかりが続き、何日か前からは日記自体つけるのを休んでしまっていた。
けれど、今日からはそれも再開できるだろう。

わたしは頁を閉じると腕時計に目を落とした。
今頃オスギリアスという場所で、お祝いが催されているはずだ。
ゴンドールが勝ったのだという知らせが入ったのは昨日のこと、夕べは手伝いごとが遅くまで掛かりすぐに寝てしまって、日記は書いていなかった。
けれど、今日こそ綴ろうと思う。もうすぐきっとボロミアさん達が帰ってくるだろうということ、それをとても嬉しく思うこと、もし時間が取れるようになったなら、またいろんな話をしたいということ……。
わたしは机の上の真新しいボールペン、その頭を何度かカチカチさせた。
夜まで待たずに今、もう書いてしまおうと、そう思って。

脈絡なく、わたしはわたしのことを考えた。
あの日から何日も過ぎていたけれど、あれ以来わたしの世界の夢を見ることもなく、向こうに戻れてもいない。
故に、一度帰省したことを誰にも伝えられずにいる。
何故って、証拠が乏しいのだ。ボールペン二本が果たして証拠になるかと言えば、絶妙に微妙すぎる。
そもそも真っ先に報告するべきなのはボロミアさんなのだが、今回の戦いが唐突に始まってしまったせいでそれどころではない。
どちらにしろ、今は話すべき時ではないのだろう。
わたしはそう考えていたが、自分の中に「いつか帰ることができる」という確信が生まれていたのは確かだった。
それはとても大きかった。安心感が違う、というやつだ。
現状ではどういう条件で帰れるのか、それも解らない。次にいつ戻れるのかも。ただ、

、――入っても?」

ノックの音と共にオルガの声がした。
それに返事を返し、わたしはペンを投げ出して席を立った。
今はここに居ようと思う。
許される限りの間、そして本当に帰ることができるその時まで、わたしは自分を迎え入れてくれたこの場所にいたい。
ここに留まり、ボロミアさんの傍で、この世界がどうなっていくのかを見ていたい。
わたしはいつの間にか、そう思い始めていた。



「どうしたんですか、今はオスギリアスでお祝いの最中じゃ……、急ぎの件ですか?」
「伝令にございます。殿にと預かって参りました」

ヒアゴンさんから書簡が差し出される。
それを広げるとファラミアさんの筆跡とサインがある。ごくごく短い文言だった。
目で辿って、わたしは首を傾げてしまった。
身の回りのものを簡単にまとめて、そのままオスギリアスに来るようにという内容が書かれている。
余談だが、ファラミアさんは今や平仮名と片仮名を完璧にマスターし、あまつさえ簡単なものなら漢字さえ読み書きできるようになっていた。
……改めて思う。どうなってるのあの人。天才か。
そしてわたしに読めるようにと綴られた書簡の文字は、流れるようなきれいな筆跡である。
思わずそれを見て唸ってしまった程だった。まあ、とにかく。
それはさておき、どういう理由なのかについては一切明記がなかった。
ヒアゴンさんも伝令をお願いされただけで、事情は聞かされてはいないらしい。

「準備が整い次第、私が馬を走らせます。必要なものを揃え終わりましたら、声を掛けて頂きたい」
「分かりました」

わたしは取り敢えず肯いた。
よく事情は呑み込めないけれど、ファラミアさんの言うことなのだから何か理由があるのだろう。
脇に控えていたオルガが不思議そうに、平仮名と片仮名の並ぶ其れを小さく覗き込む。
どうしたのかと目で訴えてくる彼女に、
「オスギリアスに行ってくるから」とだけ告げる。
オルガが目を何度か瞬かせるのをそのままに、わたしは自室へ戻った。
とはいえ、わたし自身の持ち物というのは多くない。揃えるのに大した時間は掛からなかった。
十分程で支度を終え、ヒアゴンさんの待つ城門の前に向かおうとする途中、廊下で不意に肩を叩かれる。
振り向くや否や、目の前に立っていたオルガに無理やり何かを押し付けられて慌てて受け取る羽目になった。
見れば、バスケットである。中には食料と思しきものがたっぷり詰め込まれていた。

「焼き菓子にパン、それからピクルスに塩漬け豚。今朝ほとんどの量は届けられたはずだけど、追加の分よ。向こうで振舞って差し上げてね」
「お、おう……」

何故かパシリにさせられている。
一瞬何とも言えない表情になるのが自分でも分かったが、
「これはの分ね」と別に包んでくれていたお菓子を差し出してくれたので、すぐにそれを引っ込めた。何気に彼女は、焼き菓子が得意である。
そのお礼と、行ってきますのごくごく簡潔な挨拶。
それだけをオルガと交わした。まるでいつもと同じ調子で。そしてわたしはその場を立ち去った。

後から考えれば、もっとちゃんとした別れ方をしておけば良かったのかもしれない。
けれど、この時はそんなこと、思いつきもしなかった。
何故ならすぐにここへ――ミナス・ティリスへ戻ってくると信じていたからだ。
しかし、そうはならなかった。そしてこれからも戻ることはない。
ただ、もうじきボロミアさん達に会えるのだとそればかりを考えていた。
そして同時に、この特大バスケットをどうヒアゴンさんの馬に乗せればいいんだろうということをわたしは心配していた。






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