ファラミアさんは、椅子に腰かけ床に視線を落としていた。
疲れている。
そんな印象だった。彼はひどく疲れている。
ほんの一瞬に過ぎなかった。そう思わせる横顔が、しかし、こちらを捉えてふわりと笑んだ。
「よく来てくれた」
「ファラミアさん、ご無事で何よりです!」
わたし達は、何週間かぶりの再会を果たした。
ここまでヒアゴンさんに案内してもらい、頼まれものの荷物も彼が最後まで持ってくれた。
そのままバスケットは彼に託し、祝宴で振舞ってもらうようにお願いをすればヒアゴンさんは快く肯いて、そのまま頭を下げて出ていった。
改めてファラミアさんと向き合う。
穏やかな表情がそこにあった。
とはいえ長い戦いの後、疲れていて当然のはずだ。
内心そう思うし、無理はしないでほしいとも思う。けれど、敢えてその辺りに触れることもないだろう。
わたしはまるで世間話をするように言った。
「少し、お久しぶりですね。お会いするの」
「そうだな」
「すごくお上手でした。お手紙の日本語」
「そうか。……良かった」
互いに微笑むと、少しの間が空いた。
遠くからのざわめき、さざめき。たくさんの誰かと誰かの話し声、笑い声。
石造りの街の中、多くの人達がそこかしこで笑い合い、肩を抱き合い、杯を酌み交わしていた。
このオスギリアス(そう詳しくはないが、ずっと昔はここがゴンドールの首都だったというのは聞いていた)を奪還したというのは、きっと余程のことなんだろうなあ、と漠然と思う。
しかし、そんな時に自分がここにいるというのはどういうことだろう。
そうする必要があるならば、一体それはどんな理由なのだろう。
「あの……何か、あったんですか?」
「ああ、急な呼び出しで驚かせてしまったな。実は――」
ファラミアさんが何かを言い掛けた時だった。
足音が近付いている。その音にお互い気付き、見上げれば、彼は静かに肯いた。
所々朽ちかけた石壁が続くオスギリアスの街中(正直言ってほとんど廃墟のようだった)、それでも比較的崩れ方の少ない一角に足音を響かせ現れたその人に、わたしは思わず声を上げた。
「ボロミアさん!」
「おお、か!」
一瞬、自分の声がいつもより上擦りかかってしまう。
それというのも、白の木の紋章が入る銀の鎧を身に付け、茶金髪を戦がせたボロミアさんが笑顔を見せたからだ。
久々に見る笑顔だった。何度かミナス・ティリスに戻ってきた時も、表情は常に厳しかった。
しかし今目の前にいるボロミアさんは、その時の顔とは違いとても晴れやかだ。
そしてその人はと言えば、わたしの前で両腕を広げてみせている。
その仕草に、少し戸惑ってしまう。
こんなところで、それも人前で?
目をファラミアさんに向けてみるけれど、向けられた方は小さく笑い返してくれるだけだ。
気恥ずかしい気もしたけれど、意を決してそのまま身を預ける。
少しだけ抱き合うと、ボロミアさんの鎧の継ぎ目と継ぎ目が擦れる音がした。
身体を離して改めて見れば、その人は明らかに戦士でありゴンドールの勇者だった。
わたしは、今までボロミアさんがどんな形でこの国を守ってきたかをよく知らない。
けれど今のその姿はきっと、わたしの知らないボロミアさんのうちのひとつなのだろう。
滅茶苦茶に格好良かった。少なくとも、
「ボロミアさん……」
「どうした?」
「すごい、かっこいい……」
「っ、あまり揶揄うな!」
わたしが思わずそう口に出して言ってしまう程度には。
ボロミアさんの方は何故かふき出しそうになるのを堪え、笑ってあしらうのに留めたけれど。
……折角、正直に言ったのに。
思ったけれど、目の前の人が笑っているのを見ていると、気付けばつられて笑ってしまっている自分もいる。
ひとしきり笑うと、わたしは最初に言うべきだった言葉を改めて口にした。
「ご無事で、本当に良かったです。ボロミアさん」
「心配を掛けたな。そして急なことだったが、よくここまで来てくれた」
そう言って、頭をくしゃりと撫でられる。
撫ぜられながらふと、小さく疑問符が浮かんだ。まるでボロミアさんがわたしをここへ呼んだかのような言い方だ。
ファラミアさんをそっと見やれば彼は肯いて、
「をここへ呼んだのは私ではなく、兄の意思なのだ」と付け加える。
なるほど、そうなのかと思う。
それで、それというのは何なのだろう。わたしには思い当たる節が何一つない。
けれどきっと、何がしかの説明があるはずだ。そう思って目の前の人を見やる。
しかしボロミアさんは何故か黙り込んでしまった。
いつの間にか、そこにあった柔らかな笑みが消えている。目は何処か地面の一点を見ていたが、ややあって、再びその目がこちらを捉えた。
言った。
「明日、ゴンドールを発つことになった」
「……どちらへですか?」
「イムラドリス……、裂け谷と呼ばれるエルフの住まう地だ」
「どのくらいの間でしょう」
「ほんの一時だ。すぐ戻る」
「そうなんですか」
わたしは何度か肯いた。
(以前も思ったが)本当に中つ国にはエルフがいるんだなあとか、何の理由があってボロミアさんはそこへ赴くのだろうとか、幾つか思うところはある。
けれど、とにかくそういうことなんだなと思った。
それはつまり、またしばらくの間、この人と離れ離れになってしまうということである。
短い間だと彼は言うけれど、実際のところ、どれ程の期間なのかも分からない。
それは寂しいことだったけれど、同時に仕方のないことだった。
黙ったまま小さく肯き続けていたわたしの上に、しかし、まるで予想していない言葉が降ってきた。
「おまえも私と来てほしい」
「……はい?」
思わず聞き返したままで、わたしは止まってしまう。
それというのはどういう意図なのだろう。しばし固まったままで、わたしはボロミアさんを見つめ返した。
曇り空から差す光のせいで、碧色の目がいつもより薄い色に透き通って見えた。
「エルフは我ら人間より長い歴史を持ち、その文化や技術も優れていると聞く。私達とは異なる知識にも通じているようだ。……、おまえの帰り道も見つけることができるかもしれない」
「ああ……えーと。あの、でも」
「私はまだ、諦めてはいないぞ。」
いつかおまえを国に帰してやると、ボロミアさんは言う。
その彼の言葉と眼差しはとても真っ直ぐだ。
そしてそれだけに、わたしはというと、内心頭を抱えている。
……気まずい。
これは気まずい。思わず目が泳いでしまう。
わたしはどんな表情をすればいいのか分からず、困ってしまった。
わたしは(多分だが)いつか帰れる(と思う)のだ。というか、一度帰っている。
それなのにこの人は、未だにこんなにも自分のことを考えてくれている。居た堪れなくなって目を伏せてしまいたくなった。
……今この場で、ボロミアさんに話してしまった方がいいのだろうか?
思うが、やはり証拠不十分である。
しかも雰囲気的にも非常にタイミングが悪い。困った。どうすればいいの。
わたしは少し沈黙した。
しかしよくよく考えれば、今の話ならばボロミアさんと離れ離れにならずに済むではないかと思い至る。
それは単純に嬉しいことだった。
それに、彼について行けば本物のエルフにも会える。そこで明確な帰り方を得られるかもしれない。中つ国の別の場所を見て回ることだってできる。
……おお。考えてみれば、なかなか悪くないんじゃない、この旅路?
わたしは想像してみて一つ、肯いた。
ファラミアさんやゴンドールの皆とは離れてしまうが、ボロミアさんはすぐに戻ると言っているのだ。それならば。
ここまで考えて、わたしは心を決めた。何より、彼自身の意思に背くつもりもない。
目の前の人を見上げた。
「わかりました、お供させて頂きます」
「ああ。……すまない、オルガ達に別れを言う時間も作ってやる事ができなかったな」
「いえ。だって、すぐに戻ってくるんでしょう? だったらお別れなんて要りませんよ、そんな大袈裟な」
そう言って反応を窺えば、ボロミアさんは小さい笑みを残しながらも目を逸らしてしまう。
全く、と思う。
……隠しごとができないにも程がある人だ。
彼をそのまま見ていたけれど、その口から次なる言葉がこぼれる様子はない。
ボロミアさんの様子からすれば、もしかしたら思ったよりも長く、ゴンドールを留守にしてしまうこともあるのかもしれない。
それも、この人と一緒なら構うまい。ただ――
わたしは、後ろを振り返った。
ファラミアさんは、静かに佇んでこちらを見守ってくれている。
わたしはまだ他にも、離れてしまうことを残念に思う人達がいる。
この中つ国でそう思える人達と出会えたことを、今になって嬉しく思う。
同時に、彼らとしばらく会えなくなると思うと、やっぱり少しだけ寂しかった。
ゴンドールの旗が夕風に揺らんでいる。
明朝の夜明けと共に出ていくこと、今日は早めに休むようにということを伝え、に部屋を与えた後のことだった。
彼女を案内し終えたファラミアが戻ってきたのを見て、声を掛けた。
「が一晩明かすのに、あの部屋で不自由はなさそうか」
「ええ、大丈夫だと言っていました。数刻したらまた様子を見に行って参ります。……兄上」
「何だ」
「やはり、裂け谷に行く役目は私が……」
「言うな、もう決まったことだ」
弟の言葉を遮り、私は首を振った。
本当ならば、今この状況でゴンドールを離れたくはない。
民達と共に在りたかったが、父の意志のこともある。
何より、このままではこの国がモルドールの闇に呑まれてしまうやもしれぬ。状況を打開するための何かが必要なのは確かだった。
目を閉じると、幾つもの言葉の断片が浮かび上がっては消えた。
その中でも殊に重く胸に沈むのはイシルドゥアの禍。
本当にそのようなものでこの国を救えるだろうか。敵の最大の武器だというが、しかし――
「兄上」
「くどいぞ、ファラミア」
「そのことではございません。のことです」
見れば、ファラミアは真っ直ぐにこちらを見ていた。
その目にある色が、静かに光を湛えている。
この弟は弟なりに、彼女のことを気に掛けているのは知っていた。だからこそなのだろう、
「……を、本当に裂け谷に預けるおつもりなのですか」
あの黒髪の娘のことを案じて、こうして自分に問うてもくる。
私はすぐには答えず再び空を仰ぎ見た。
風に流された雲と雲の間から星が瞬いているのが見えた。それもすぐにまた黒雲に隠れてしまったが。
にはそう多くを話伝えることはしなかった、けれど素直に応じるだろうことはわかっていた。
彼女の帰り道の件は建前に過ぎない、そのことを思うと申し訳ないと思う。
父からエルロンド卿の会議の話を聞き、そしてその出席を決めた後にふと思い浮かんだひとつの案を、私は反芻した。
「エルフの長殿に話をしてみようと考えている。――の国には戦がないと聞いた。無論ゴンドールが敵の手に落ちることなど考えてはいないが、戦いばかりの今、彼女をここに置き続けるより更に安全な場所へ移した方が、のためにも良いように思えるのだ」
「しかし」
「はこの国の民ではない」
敢えてそう口にすれば、ファラミアは何も言い返すことなく沈黙した。
そう、ゴンドールの民ではないからこそ、万が一のことに彼女を巻き込むことだけは避けたかった。
それは以前から微かに胸の底で燻っていたことだったが、どうしていいものか方法が見当たらなかった。だが、これなら。
あまりに手前勝手な思い付きであることは分かっていた。
だが、裂け谷のエルフ達が真に信頼が置けるようであれば、願いを申し出るつもりでいる。
受け入れられたなら、いつか平和が訪れた時、ゴンドールから迎えに行こう。
何がしかの理由でを預ける事ができなければ、彼女には何も話さず、そのまま連れ戻ろう。
そして必ず、青い空を都に取り戻す時を共に迎えよう。私はそう思った。
見上げたままの空は、いつの間にかすっかり夜色に染まっている。
また星が見えないかと思いしばらく夜空を眺めていたが、漆黒の空には何処にも瞬くものを見つけることができなかった。
ふと目を開けると、朝の陽の光が部屋の中に差し込んでいる。
そんな当たり前のことにすら、安堵を覚えていたのはいつの頃だったか。
東の空の闇は、手が届きそうなほどに近い。
この国がどういった状況にあるのか朧気に解り始めた子供の頃、夜明けがやってこない日がいつか来るのではないかと思った時期もある。
今でこそそう思うこともなくなったが、今朝に限ってそれを思い出すのは、僅かといえどこの国を離れてしまうからだろうか。
考えていたことを振り払うように首を振り、着替えを済ませ部屋を出る。
朝風がゆるやかにかつての都を通り抜けていくその脇を縫い、馬を用意させていた場所に赴く。
既にそこには見知った顔があった。
見れば、ファラミアとが何かを話している。
肩から鞄をひとつ提げているはごくいつも通りなのだが、その身を覆うマントは弟が与えたものだろう。
そして今、彼女は何かを手にしたままで、ファラミアに礼を告げているようだった。
「何をもらったのだ、?」
「あっ、おはようございます、ボロミアさん!」
笑顔で振り返った彼女は私に頭を下げた。
ファラミアも静かに目を細め、の代わりに彼女の手の中のものが何かを答える。
「護身用の短剣です。小さいものですから、にも扱いやすいでしょう」
そう言って弟は膝をついた。
すぐ抜くことができるよう、彼女のベルトに鞘ごと括り付け始める。
見覚えあるそれは、まだ幼く初陣を迎える前までのファラミアが使っていたものだった。
初めて手にした真剣でもあり、使いはしないが今でも時折手入れをしていたことを思い出す。
――ファラミア。
私は弟の靡く後ろ髪を見つめながら、ファラミアのことを考えた。
少しの間、自分はすべてをこの弟に預けてしまうことになる。すまない、と心の中で詫びた。
「これでいいだろう」
「ありがとうございます、大事にします。戻ってきたら、お返ししますから」
「……ああ。良い旅路を」
「はい。行ってきます」
そう言うと、はいつものように微笑んだ。
すぐに、それが引っ込んでしまった。
一歩前に出たファラミアが彼女の肩を押さえ、その頭に口付けを落とした途端に
「ひゃっ」と声を上げて跳び上がったのだ。
顔を真っ赤にして慌てて私のマントの裾にしがみ付いてくる。いつぞやの際、私から同じことをした時にも今と似た顔をしていたが。
その様子に、私とファラミアは顔を見合わせてつい苦笑してしまった。
確かにの国にはそういった習慣はないと聞いていたが、別れの挨拶にそこまで頬を染めずともよいだろうに。
彼女は口をパクパクさせながら、それでも何とか絞り出すように言った。
「ふ、不意打ちは止めてくださいっ、心臓が持ちませんから!!」
「別れの挨拶に、不意打ちも何もないだろう?」
さらりとそう返すファラミアに、何も返せず彼女はそのまま黙り込んでしまう。
そんなをそのままに、私は弟に向き合った。
既に真面目な顔に戻っているファラミアと、昨日の演説の後そうしたように、肩を抱き合う。
民と父上を、頼む。
そう小声で告げた後の答えは、静かで短かった。
出発の時が迫っていた。
馬上に上がると、前に乗せたがふと、
「ファラミアさん」と弟を呼んだ。
それに応え近付いてきたその額に、ほんの一瞬だけ彼女の唇が触れた。
ひどく短い口付けだった。としては頑張ったのだろう、後ろに乗る私のすぐ目の前で、その耳までが赤くなっていた。
私は微笑んだが、しかし、頭上を見上げた。
夜明けの光と風に翻るゴンドールの旗は、いつもよりなお白く輝いて見えた。
この地を離れることが辛いと、今になって感じていた。
見れば、ファラミアは何処までも静かにこちらを見ている。
弟は小さい頃からもの静かな方だったが、決して臆病なことはなかった。この白の塔の大将、自慢の弟だ。
大丈夫だ。ほんの一時の間、留守を預けるだけだった。ファラミアはその間、この国を守ってくれるだろう。
私はその目を見返して、言った。
「――今日の日を忘れまい、ファラミア」
微笑み肯く弟に、私もほんの少しばかり、笑んだ。そのまま馬が歩き出す。
が一度だけ振り向き、弟の方を見ていたがすぐに見えなくなった。
ファラミアだけに見送られ、私とひとりの黒髪の娘は裂け谷を目指しゴンドールを発った。
肌寒さすら感じられる風が吹き抜ける、ある朝のことだった。
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