白い朝は、いつにも増してひどく眩しい。
山々の稜線が光り輝き、鮮やかな風が、朝露に濡れた野原の上を滑っていく。
その中に佇みながら、馬上でわたしは、ボロミアさんの視線の先を辿っていた。
朝の陽の光に祝福を受けたミナス・ティリスはとても綺麗で、胸が早鐘を打つほどに美しかった。
今になって、急にわたしは後悔を覚えていた。
もっと、あの都を知っておけば良かったと思う。
何ヶ月もあのミナス・ティリスに守られていながら、わたしはそのほとんどを執政の館で過ごしていた。
だからわたしは、あの街を歩いたことがない。
そのことを、今になってひどく惜しく思う。
もっと、あの地に触れておけばよかった。あの都で暮らしを営んでいる人達と、たくさん言葉を交わしておけばよかった。
時間はあったというのに、長い間その恩恵にあずかっていたというのに、わたしはごくごく、ほんの一部しかあの国を知らない。
わたしはそっと、気配だけで背後のボロミアさんの様子を窺った。
彼もまた、ただ静かに遠く、眼前の白の都に心を向けている。
……もっと、この人が愛するあの国のことを、知っておけばよかった。
そんなことを考えていると、ボロミアさんが不意に、言葉をこぼした。
「――今の時間が」、
わたしはその続きを待った。一拍の間を置いて、彼が続けた。
「一日のうちで最も美しく、ミナス・ティリスが白と銀色に輝く時だ」
わたしは返す言葉も見当たらなくて、ただその声に聞き入りながら肯いた。
ボロミアさんの声が続いていた。
「やっと、に見せることができた」
「覚えててくれたんですね」
あの都を、こうやって見てみたいって言ったのを。
首を少しばかり持ち上げて、そう口にしながら振り返る。彼は、黙って微かに笑んでいた。
その視線が再び、白の都に移る。
ほんの幾ばくかの間の後、ボロミアさんは馬を走らせ始めた。速度が上がるにつれ、景色も徐々に後方へと流れていく。
わたしはお礼をいうタイミングを逃してしまったので、胸の内でボロミアさんにそれを伝えた。
いつの間にか、太陽がその高さを増している。
わたし達はこうして、ゴンドールを静かに発った。
道程は、思いのほか順調であるかのように思えた。
見渡す限りの草原が長く続いていて、馬も走りやすいのらしい。
肥沃そうな、青々とした大草原をしばらく進んだ。
馬というのは時速で言うならどのくらいの速さなんだろう、幾らもしないうちにわたしの知らない土地に入ってしまったようだった。
それはもうとうに、オスギリアスやミナス・ティリスから遠く離れてしまったことを示していて、少し寂しくもある。
そして同時に、見知らぬ土地への不安と興味もささやかながら存在していた。
休息の時に、ボロミアさんに知りたいことを訊ねると、彼はそれについて明確に答えてくれた。
裂け谷までどのくらいの距離なのか、今わたし達が居るのはどの辺りになるのか、それから、これからの行程について。
そんなふうなことを、幾つか。
「このまま行けば、予定よりも早くに到着できるかもしれない」、
彼はそうわたしに返した。
「今私達はゴンドールを抜け、ローハンの地に入っている。更に北上し、数日もすればイムラドリス……、裂け谷に着くことができるのではないかと考えている」
「うーん……天気が崩れたりしないといいですね」
言ってしまってから、あ、と思う。
うっかりフラグを立ててしまった。わたしは慌てて空を見上げる。
しばらく曇りと晴れが交互に続いていて、天候面で恵まれていたと思う。
けれど、こころなしか西の空が暗くなり始めている。もしかしたら、近く、雨に見舞われるかもしれない。
ボロミアさんも肯いて、わたし達は束の間の休息を終えるとすぐに馬に跨った。
雨が来ないうちに、今日の夜を明かすための場所を見つける必要がある。
雨は、嫌いではない。
けれどあともう少しだけ、降り出さないでいてほしい。
わたしは胸の内で、空が持ち堪えてくれることをお祈りする。
しかし立ててしまったフラグというのは、へし折るのは簡単ではないらしい。
頭上の雲が淀み、薄暗い夕暮れが迫っていた時分のことだった。
それまで難なく走りを続けてきた馬が、突然、嘶きを上げて前足を振り上げた。
本当に突然のことだったので、何の身構えも心の準備もなかった。
ボロミアさんが後ろから抱きすくめる様に支えてくれたので何事もなかったものの、そうでなかったら地べたに転がり落ちていたかもしれない。
彼が馬を諌めながら、大丈夫かどうかを訊いてくる。
それには肯いたけれど、それにしても急にどうしたのだろう。
滑り落ちるみたいにして馬上から下りる。振り返れば、ボロミアさんも既に身を下ろしていて、手綱を片手に馬のその身を撫でている。
その目が馬の前足に向き、彼はしゃがみ込んで蹄の辺りを何か観察するように見る。
黙ってその様子を見守っていると、ややあってボロミアさんは立ち上がった。
「蹄の底で、内部に出血を起こしているようだ」
「怪我しちゃったんですか……?」
わたしはボロミアさんに倣って、馬の毛を撫でた。
下りてみると、この辺りの草丈は思ったよりも背が高く、地肌がほとんど見えない状態だった。
わたしにはよく判らないけれど、石か何かを踏んで痛めてしまったのかもしれない。
「この先を進めば王都エドラスに入るが、そこまで歩かせるのは酷かもしれない。何処かで、休ませてやれればいいのだが」
「でも、この辺りには民家も見当たらないみたいですよ? このまま先に進むにしても、しばらくは歩くんじゃないんでしょうか」
ボロミアさんは行く先の向こうを見据えながら、少し考えを巡らせているようだった。
馬の脚を見る限り、今はそう酷くはないけれど、悪化すれば炎症を起こすこともあるので休ませてあげたいという。
それには賛成だけれど、そうするための場所が必要だった。
不意に、鼻の頭にぽつりと、何かが落ちてきた。
見れば、もうほとんど夜の時間に入りかけた暗い空から、ぽつぽつと雨滴が降ってくる。件のフラグの雨である。
さて、困った。どうしよう。
そう思い掛けたその矢先、ボロミアさんが何かに気付いたようにふっと顔を上げた。
「ボロミアさん?」
言いながら、わたしはその人の目の先を追った。
わたし達が今来た道とほとんど同じ方向、そちらから近付いてくるのは遠目にも馬に跨った騎士のように見えた。
一騎ではない、少なくとも、十は超える数がいる。
彼らもこちらに気付いたようで、先頭の人が何かの合図のように片手を上げた。
減速してわたし達の前で走りを止めた彼らに、ボロミアさんが歩み出る。
雨が、徐々に勢いを増し始めていた。
目を閉じたまま、耳を澄ませる。
屋根を叩く雨の音が未だに続いていた。
一晩明ければ止んでいるかもしれないと思っていたけれど、あてが外れたらしい。
寝台で毛布にくるまりながら、手首を持ち上げた。傍らの鞄から、寝る前に外したものを探り出す。
腕時計は、五時半過ぎを指していた。
ほんの少しうとうとして、それからようやく起き上がる。ボロミアさんも起床しているかもしれない。
わたしは身支度を整えながら、改めて室内を見回した。
ミナス・ティリスで与えられ過ごしていた部屋とは、全然とは言わないけれど、やはり勝手が微妙に違う。
その事がわたしをちょっとソワソワさせた。
部屋を提供してもらっておいて言うことではないけれど、知らない場所は、どうしても少し落ち着かない。
それにしても、恵まれていると思う。
ローハンの騎士さん方に助けてもらえたのだ、幸運としか言いようがない。
今だってこうして、わたし達を都まで運んでもらった上、夜を明かす部屋まで提供してもらっている。
昨夜、ここに到着した時には既に夜も更けていて、ほとんど何も言わないうちに休むよう促されたのだ。
今日はあらためて、ローハンの人達に御礼を言おう。
支度を終えると、わたしは部屋の外に出た。
早朝という時間柄、そうそう人の数が多いわけでもない。
通路を道なりに進むと、すぐ傍にボロミアさんが案内された部屋がある。
まだ早いかと思い、控えめに控えめを重ねたようなノックをしてみる。
返事はなかった。
まだ眠っているのか、ノックの音が小さすぎて気付かれなかったか、或いは、もう起き出して部屋を出てしまったのか。
どうしようかと少し考えたけれど、わたしは踵を返して方向を変えた。そのうち行き会うだろう。
それまでちょっと歩いてみようという気になって、そのまま館の中を進んだ。
雨の朝、風もいくらかあるみたいで、時折その唸りのような音も聞こえてくる。
このくらいの雨の場合、ボロミアさんは何というだろう。
すぐにでもここを発つのだろうか、そのとも天気の回復を待つのだろうか。
門の傍まで来てみる。
ゴンドールとはまた少し違った毛色の建物の中を、ゆっくりと歩く。
博物館を見に来た子供みたいに、辺りをつい見回してしまう。
そんなわたしを何人かが少し不思議そうに見ながらもすれ違っていくけれど、まだわたしの主の姿は見えなかった。
もし起きているのなら、外の様子を見に行っているのかもしれない。
そう思って扉を押すと、雨に彩られた空気が一時にわたしを出迎えてくれた。
雨よけの広い庇の下、門番らしい人が何人か立っている。訊ねてみたけれど、ボロミアさんは外には出ていないらしい。
礼を言いながら、正面を見据えた。
屋根や地面を叩くその音の向こうは、ただひたすらの雨ばかりだった。思っていたよりも視界が悪い。
出発はどうなるんだろう。
そう思いながら方向を転じ掛けたその時、少しだけ離れたところに女の人が立っているのに気が付いた。
金色の長い髪や白いローブが風に吹かれて靡いている。その人もまた、黙って降りしきる雨の向こうを眺めていた。
肌の白い横顔は大層な美人だ。
「……昨夜はよく眠れまして?」
最初、わたしに掛けられた声なんだとは思わなかった。
その人は真っ直ぐ雨粒の先を見たまま、首を動かさなかったので。
たっぷり五秒経った頃、門番の人たちが誰も返事らしい返事をしなかったので、ようやく自分が言われているのだと理解した。
「え? ……えーと、はい、とても」
「そう。良かった」
そう言いながら彼女はこちらに視線を向けた。
テンポの遅い反応のわたしにも微かに笑んでくれたので、それ程ぎこちない空気にもならずに済んだ。
ここで仕えている女性だろうか。
それにしては、装束も佇まいも何処か少し、それらしくないような気もする。
まあ、いいか。自分だって人のことは言えない。
わたしはその辺りをあまり深く考えずに、世間話的なことを口にして話題を振った。
「雨、まだ続きそうですね」
「嵐が来るかもしれません。今の季節は、決まって何度か訪れますから。……お二人の旅も、急ぎでないのなら、せめてこの雨が止んでからにした方がいいのではないかと」
わたし達の来訪の目的は、既に彼女にも伝わっているらしい。
わたしは曖昧に肯きながら腕を擦った。
息が白くなるほどではないけれど、明け方はやはり肌寒さが残っている。
「あのう、お寒くありませんか? 風邪引いちゃいますよ」
「ええ……。もう少し、雨を眺めていたいの。私に構わず、どうぞ先に、中へ」
そう言って、彼女はまた小さく笑んだ。
何処か、寂しそうな笑い方だった。そう見えただけかもしれないが。
その人はまだ中に戻るつもりはないようだったので、わたしは会釈をして方向を転じた。
中に戻ると、丁度探していた人が誰かと談笑しながら門の前の広間に姿を見せた。わたしはちょっとホッとした。
「ボロミアさん」
「、早いな」
話をしていたローハンの人が頭を下げ去っていくのを見送りつつ、わたし達は朝の挨拶を交わした。
「外に出ていたのか? この雨降りの中」
「それを確かめようと思って。あと……」
ボロミアさんを探してて、と言い掛けて、止めた。何となく気恥ずかしい気がして。
「……出発できるのかなーと思って。嵐が来るかもしれないって、ここの人に言われました」
「その事だが、私も忠告を受けたのだ。今はまだ然程ではないが、これから風も強まるかもしれぬと。数刻様子を見て、その通りならば嵐が過ぎるまでの滞在を申し願おうと思う」
「ボロミアさんは、裂け谷には確か会議に出られるんでしたよね。間に合うんですか?」
「その点は問題ない。二、三日程度の逗留であれば、まだ余裕がある程だ」
そう言いながら彼は、広間の奥の通路を指した。
「行こう。食事の準備ができているとのことだ、ありがたく頂こう」
わたしは肯いた。
ボロミアさんの後をついていきながら、同時に風の音に耳を澄ませる。
届くその音は変則的で、未だ止む気配もない。初めて迎える、ゴンドール以外での中つ国の朝だった。
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