吹く風が、こころなしか勢いを増したような気がする。
朝食後、ローハンの人と話をしてくるというボロミアさんと一旦分かれて、与えられた部屋に戻ってきた。
鞄の中身を整理し直している間に耳に届くのは、ここの人達の生活の音、それ以外には風の唸りばかりだ。
この分だと、数日の滞在は免れないかもしれない。
そう思いながら鞄のファスナーを締めようとして、ふと日記を取り出した。
夕べは何も書きつけないまま眠ってしまったから、昨日の分を今のうちに綴ってしまうことにする。
ボールペンを走らせながら巡ってきたのは、これから出発までの時間をどう過ごそうか、ということだ。
どのくらいの間になるかはわからない、けれど、その時間をただ漫然と過ごすのもつまらない。
寧ろ、そうしてしまうのは勿体ないとさえ思った。せっかく、このローハンと呼ばれる国を訪れたというのに。
わたしは簡単に昨日のことを書いてしまうと、再び日記を鞄の中にしまった。
普段なら、見知らぬ場所をうろうろするのは正直言って好きではない。
けれど、この中つ国に限ってはそうでもなかった。
ミナス・ティリスでそうだったように、この世界では毎日、わたしにとって何かしらの発見がある。
中つ国にはわたしの知らないものがたくさん溢れていて、それを知るのはひどく楽しいことだった。
それはきっと、ここローハンでも変わりないのに違いない。
わたしは部屋を出ると、朝方そうしたように、館の中を彷徨い歩いてみることにした。
特に目的はない。
心行くまで歩いて、満足したらまた部屋に戻ろう。
雨風が強くなければ、外を出歩くことも考えたかもしれない。傘さえ用意がない今、それは避けた方が無難そうだったけれど。
……売店でボールペンを購入した時のことを、ふと思い出す。
折り畳み傘も買っておけばよかったかもしれない。わたしと、それからボロミアさんの分と。
まあでも、目立ってしまいそうだから、実際には使わないで終わってしまうだろうか。
そんなことを考えていると、少し開けた空間に行き着いた。
何人かの人達が武具を手入れしていたり、物を運んでいたりする。
その中に一人だけ、女の人が混じっていた。見覚えのある風体。
長い袖を纏め、細身の長剣を握っている。
静かにそれを振る姿は、今朝方ほんの少しばかり言葉を交わした、あの金の髪の美人だ。
おお、と思う。
女性が剣を振るっている。
それが、すごく単純にかっこいいのだ。
考えてみれば、中つ国に来てからというもの、武器を手にしている人はそれなりにゴンドールでも見掛けてきた。
けれど女の人がそれを握っているのは、少なくとも今まで見たことがなかった。
ゲームとかでは、女性の剣の使い手は割と見るのだけれど。
その人が振るう切っ先が、何か教科書のお手本のように、きれいな軌跡を残しながら中空を舞っていた。
その動きのなんて鮮やかな事だろう。これは思わず、拍手をしてしまうレベル。
ごくごく小さい、音のない喝采のつもりだった。
けれど、それに気付いた向こうが一度、瞬きをする。
すぐに、その剣の構えが解かれた。……もしかしなくても、剣の練習の邪魔をしてしまっただろうか。
わたしは少しばかり慌ててしまう。
「あの、えっと……ごめんなさい。あんまりすごかったもので、つい」
「気になさらないで」
ふっと浮かんだささやかな笑み、次いでその人が口にした短い言葉には、柔らかな響きがあった。
傍らにあった鞘を手に取ると、彼女はその刃を手早く収めた。パチンと、小気味よい金属音。
「出立は、どうなさるか決められて?」
「まだ、様子見なんですけど……。この分だと、此方に数日お世話になるかもしれません」
「その方が賢明のように私も思います」
外の雨の音に耳を傾けながら、彼女は肯いた。
再び此方を向いたその目が、緩やかにわたしを捉える。ふと、その視線がわたしのある物に留まった。
「素敵な短剣をお持ちね。それは、あなたの?」
一瞬何のことか判らなかったけれど、すぐ、腰に差したファラミアさんからの借り物のことだと気が付いた。
「ゴンドールを出た時に借りたものです。この旅が終わるまでの間だけ、わたしが」
「……見せていただいてもいいかしら」
断る理由もないので、わたしはベルトに括ったそれからナイフを抜いた。
そのまま渡すと、彼女は重さを確かめるように何度か握り直す。
不意に、先程と同じように構えを取り、その刃先を一閃させた。
言葉を発するのさえ躊躇われるような、一瞬の張り詰めた空気がそこに在った。
思わず息を詰めてしまう。すごく絵になっていた。
まるきり油絵か何かの見事な静止画が、目の前で滑らかな動画になったといった具合だ。
「いい剣だわ。貸してくださった方は、手入れもよくされていたのね。新しいものではないようだけど、刃に衰えが見えないもの」
彼女はそう言って微笑んだ。
その人のあまりの様になりように少しばかり呆けていたのだけれど、その言葉を聞いてわたしはついにこにこしてしまう。
ファラミアさんのことを良く言ってもらえたようで、率直に嬉しかったりする。
彼女からナイフを返してもらい、鞘に納める。
改めてわたし達は、お互いに相対した。
「私はエオウィン。あなたの名を、まだ聞いていなかったわ」
「です。、」
「? 不思議な響きの名ね」
「そうですね、よく言われますよ」
十人に自己紹介をすれば、そのうちの十人に聞き返されるくらい。
言うと、彼女は小さく笑った。
きっと耳慣れない音を持つだろうわたしの名を反芻するように、向こうは何度か肯いている。
そのまま会話を繋ぎたくて、わたしはなんとなく思ったままを訊ねてみた。
「いつもここで、剣の練習をしてるんですか?」
「時々、そうしたいと思った時に……。これに触れていると、少しだけ安心できる気がして」
「ごめんなさい、やっぱり邪魔してしまったみたいで」
「いいえ。いつでも鍛錬はできますもの」
彼女は首を振ってそう言うけれど、本当は、もっと続けていたかったのかもしれない。
それにしても、素人のわたしから見ても相当の腕らしいことはなんとなくわかった。おそらく高レベル保持者である。
ローハンの女の人達は剣が得意なのだろうか、或いは、このエオウィンさんが特にそうなんだろうか。
わたしは少しだけ考えて、幾ばくかの間の後、言った。
「あの、もしまた練習を続けられるようでしたら、少しだけ見学していてもいいですか?」
「見学?」
「はい。あっ、やっぱり邪魔でしたら、おとなしく向こう行きますけど」
「それは、構いませんけれど」
エオウィンさんは、わたしと、わたしの腰のナイフとに視線を巡らせて瞬きをした。
「は、剣に触れたことは?」
「あんまり……、ほとんど、ありません」
この短剣も、貸してもらったばかりで。
そう言うと、彼女は少しばかりこちらを見つめた。
実際のところ、武器を装備したところで経験値が微弱なのだから、万が一という時たぶん使いこなしきれないだろう。
わたしはきっと今、ゲームでいうところのレベル一か二といったところなのだ。
せめて簡単にでも、得物の扱いを知っておきたい。
エオウィンさんの剣なら、見学を許されるならばとてもいいお手本になりそうなのだが。
けれどその見学の返事は、イエスとは違った答えだった。
彼女はほんの幾らかの間、こちらを見ていたかと思うと、黙って数歩、こちらに歩み寄った。
わたしの傍らに立って、言った。
「剣を抜いて、こうやって握ってみて」
「はい?」
「手の握りは軽めに、けれど力を抜きすぎてもいけません。それから、構えをとってみて」
「えーと、あの」
「さあ」
わたしが言うのを遮るように、彼女はナイフを抜くことを促した。
どうも、実習で教えてくれるつもりらしい。
……おかしいな、あくまで、見学のつもりだったのだけれど。
わたしはちょっと逡巡した。
いいんだろうか、剣の練習の邪魔立てをした挙句、更にはこんな事になってしまって。エオウィンさんに迷惑ではないだろうか。
思うけれど、その人本人はといえば既に真剣な顔になって、わたしが短剣を手にするのを待っている。
わたしは刹那、立ち尽くしてしまいそうになった。
けれど、考えてみれば願ってもないことかもしれない。
見て覚えるのと、身体で覚えるのではやっぱり身に付き方も違うだろう。
わたしはナイフを抜く前に、ちらりと腕時計に目を落とした。午前の九時を回っている。
後で、今日の行程を確認しに、ボロミアさんのところへ行かなくては。この時はそんなことを考えていた。
それにも拘わらず、当のボロミアさん本人の方が修練場にやって来たのは一時間ほど後のことだ。
わたしはエオウィンさんから短剣の振り方と踏み出し方を習っている最中だったので、最初全く気が付かなかった。
だから、
「」
「! わあっ!!」
声を掛けられて振り返った目の前、すぐ近くにボロミアさんがいたものだから、吃驚してしまった。
手にしていた刃を取りこぼしそうになって、危うく落っことすのをギリギリのところで堪えた。
今のは地味に危なかった。
幾らかの距離はあったとはいえ、万一ボロミアさんに怪我があっては切腹ものである。
「すまない、驚かせたな」
「いえ、あの、却ってすみません!」
ひとまず短剣を鞘に収めてから頭を下げると、彼は何でもないように一度手を振った。
次いで、傍らで此方のやり取りを見守ってくれていたエオウィンさんとわたし、わたしのナイフとを順番に見る。
何か興味深そうな目が、再度こちらを向いた。
何をしていたのかは多分、ボロミアさんにも既に見当がついているだろうけれど、わたしは改めてお話することにした。
「今、短剣の扱い方を教えてもらってたんです。エオウィンさんの剣、すごいんですよ!」
「ほう、それは」
ボロミアさんは改めて彼女の方に向き直った。
以前にも彼は、何度かローハンを訪れているという。
もしかしたら、エオウィンさんとは既に顔見知りだったりするのだろうか。
そんなことを勝手に思っている間に彼が発した言葉、それはごく自然で、ともすれば聞き流してしまいそうな単語を含んでいた。
「あなたの剣ともなれば、さぞ武勇に富んだものなのだろう。久方ぶりの訪問でありながら、挨拶が遅れ申し訳ない。エオウィン姫」
「いいえ、またお会いできた事を嬉しく思いますわ」
和やかな雰囲気の中、ナチュラルに姫というワードが混じっている気がした。
気がした、だけではなく実際にそう口にしたのだろうが。
「……あれ? エオウィンさんは、お姫様なんですか?」
「知らずに剣を習っていたのか? 」
二人の挨拶の言葉が区切られたのを見計らって訊ねると、ボロミアさんが言った。
驚くでも呆れるでもなく、その表情にあるのは揶揄かうような笑いだ。
何処となく、わたしが若干ぽかんとしているのを楽しんでいるような感じだった。まったく、このわたしの主ときたら。
「だって、教えてもらっていませんでしたから」
口を尖らせてそう彼に言ってやりながら、わたしはエオウィン姫を振り返った。
「ごめんなさい、そうとは知らずにご無礼を」
「謝る必要などありません、私も言っていませんでしたもの」
彼女はさらりとそう言ってのける。
わたし達のやり取りを見て微笑む彼女は、なるほど確かに言われてみれば、何処となく姫君という感じに見えてきた(言われなければ気付かなかったかもしれないけれど)。
お姫様がこんなふうに、わたしみたいなふつうの人間と一緒にこの場に居ていいものだろうか。
思ったけれど、実際にこうしてここに居るのだから、多分いいんだろうということにしておく。
それはさておき、わたしはボロミアさんを見上げた。
「ボロミアさん、今日これからのことをお伺いしようと思っていたんですけど、剣の練習につい夢中になってしまって。ごめんなさい」
「何、構わぬ。どのみち今は、急いでも仕方のないことなのだからな」
「出発は、延期ですか?」
「ああ。話に聞いた通り、嵐が来ているらしい。この中を出ていくのは得策とは言えぬ」
彼はそこまで言うと、エオウィンさんに視線を移し、続けた。
「突然の来訪にも拘らず、数日の滞在の許しまで頂いたのだ。――エオウィン姫、あなたにも感謝申し上げる」
ボロミアさんが頭を下げるのに、わたしも倣った。
それに彼女はやわらかく微笑んで首を振り、わたし達の頭を上げさせた。
そこには今朝方わたしが見たような寂しそうな翳りはないように思えたのだけれど、
「叶うならば、セオデン王に王子、エオメル殿にもお会いしたかった」
とボロミアさんが口にした途端、不意に、その影が彼女の上に再び落ちたような気がした。
「……王は、お会いにはならないでしょう。少し前から、体調が優れないのです」
目を伏せてそう言うのを聞いたボロミアさんが心配する言葉を掛けても、彼女は曖昧に言葉を濁していた。
あまり話したくないことなのかもしれない。
それを考えないようにとしてか、今の言葉を何処か振り切るように、エオウィンさんは続けた。
「兄とセオドレドは先日東エムネトに向かいましたが、もうじき戻るはずだと聞いております。最も、二人も何処かで嵐が過ぎるのを待っていることでしょうけれど。もしかしたら、すれ違いにでも会うことができるかもしれません」
「そうであることを願おう。私は彼らとも久しくお会いしていない、一言挨拶だけでも交わしたいものだ」
ボロミアさん達が話すのを、黙ってわたしは聞いていた。
初めて耳にする名が流れるように口にされていく。彼には此処に、たくさんの知っている人達がいるらしい。
それはそれで当然のことだったけれど、わたしはその辺りのことを詳しく知らない。
わたしは独り、沈黙した。
自分はまだ、この人のことを何も分かっていないんだなあ。そう考えると、何だか少し寂しく思えてきてしまう。
けれどそのまま、わたしが沈黙し続けることはない。何故なら、
「それにしても、姫から剣を習っていたとは」
目の前の人がこちらを捉えて、見下ろしてくるからだ。
その顔は穏やかであるにも拘らず、何処か楽しげで、笑い方は不敵でもあった。
「。――私を誰だと思っている?」
「はい? ……えーと」
「ゴンドールの白の塔の大将も、剣の扱いには自信があるつもりだが?」
「……教えてくださるんですか?」
「がそれを望むのなら、だが」
そう言って彼は、エオウィン姫を見た。彼女もまた笑んで、二人はこちらを見返した。
大変な一日になりそうだった。腕の立つ剣の使い手二人が、わたしにその扱い方を示してくれるというのだから。
わたしは自分を見るその人を見上げた。
ボロミアさんがこういう人だというのを、わたしは知っていた。
強く厳しく、けれど時折見せる表情はまるで少年のようで、そしてひどく優しい人だ。
それを知っているだけで、わたしは充分だった。
「……ご指導、よろしくお願いします」
わたしは礼をして、再びナイフを抜いた。
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