書物庫の空気は、静かに冷えている。
他に誰もいないのだろう。そう思っていたが、ふと、そうではないと気付く。
ほのかな灯りの気配があり、歩を進めるにつれそれは確信に変わった。
ランプの暖色が灯るその空間にいる誰かが、私のことを振り返る。
当たり前のように其処に存在する彼女の姿が、灯りの中に浮かび上がった。
「あ、ファラミアさん」
「……」、
何故ここに、と思わず零すと、彼女は少し口を尖らせる。居たら駄目なのか、というふうに、そして実際に口にもする。
「わたし、ここに出入りする許可は頂いてますよ?」
「…………」
記憶が混乱し、続けたい言葉が形にならない。
彼女は、今ここにはいない。
兄と共に、この国を発ったはずではないか。エルフの住まう谷を訪ね、その身を安息の地に委ねるつもりであったはず。それが、何故。
考えを見通すかのように、はすぐさまいつもの顔に戻って言う。
「という冗談はさておきまして」
「、何故」
「ああ、これ、夢ですから」
「…………夢?」
「はい。これ、ファラミアさんの夢ですから」
わたしは今、ゴンドールには居ませんよ。
そう念を押すように、しかしいつものようにごくごく軽く、彼女は言った。
「ファラミアさんだって、今はミナス・ティリスには居ないでしょう?」
私は思わず黙り込む。
それは、確かにその通りである。東の脅威に抗するべくして、今、自分は街を離れている。
部下を率いて歩くうちの、幾ばくかの仮眠の中にいるのだ。
私は合点がいき、小さく二度ほど肯いた。
は、僅かに考えるようにしながら、
「お疲れでしょうから、わたし、そろそろいなくなりますね」と言う。
「夢も見ないくらい眠った方が、疲れも取れるでしょうし」
「いや。……構わなければ、少し話がしたい」
良いだろうかと問うと、向こうは微笑み、立ち上がろうとしていたのを止め座り直す。
時間も、場所も、何時の何処でもない。
その中にいて、しかし彼女は、確かに其処にいた。最後に見送ったあの日と寸分変わらぬ姿のままで。
「裂け谷へは、無事に辿り着きましたからご心配なく」
「そうか。……道中、何事もなかったか」
「そうですねえ。ああ、ローハンに寄りましたよ! わたし、ゴンドール以外の国の人とは初めてお会いしましたけど、皆さんとても親切でした」
「ほう」
夢の会話とはいえ、私は瞬く。
彼女の話は、続いていく。エルフの谷への到着、其処でのもてなし。ミスランディアと出会ったこと。会議。エルフやドワーフ、ホビット達といった者達と共に、兄も今は谷を出立したということ……。
「今は、谷を出てまだ何日も経っていませんけど、帰り道の方が大変ですよ。これから雪山登山することになりそうですし……」
「……何故それを?」
は、裂け谷に残っているはずだろう。
兄と、彼女の身の置き方について話したことを、昨日のことのように自分は覚えている。
しかし、目の前の娘はほんの僅かに肩を竦めた。
「ボロミアさんは、そうするおつもりだったみたいですけれど」
「……しかし、どうやって」
兄やエルフ達の目を盗んで谷を抜け出し、旅を続けることなど、果たしてできるものであろうか。
見れば、は黙って真っ直ぐ私を見ているだけだ。
その目にあるのは何処か少し悪戯げで、そして同時に穏やかな色ばかりである。
やがてふわりと微笑むと、彼女は
「ご想像にお任せします」とだけ言った。
そろそろ引き揚げます。
そう唐突に彼女は言った。聞けば、にも色々とするべきことがあるのだという。
「少しだけお久しぶりでしたけど、お話できてよかったです」
「私もだ」
腕を広げてみせると、然程躊躇うでもなく身を寄せてくる。
額に恩寵を授けるよりは、にとってはずっと敷居の低い行為なのであろう。
互いに少しの間、肩を抱き合った。
言った。
「……ご迷惑でなかったら、また来ます。夢ですけど」
「ああ。夢でも、構わない」
言い終えた時には、はもう居なかった。
ランプだけが煌々と灯り続け、自分独りが残されている。
「……会えてよかった」
夢という不確かな場所に在りながら、私の言葉は確かに自分の中に響いた。
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