夢。
――いや、そうではない。

白く靄のかかる河辺に私は立っている。
頬に当たる空気は冷たく、周囲には誰の気配もない。
そして視界の端に捉えたのは、一艘の小舟だった。
緩やかにそれは流れてくる。ここから見える限りでは、人の姿はない。
そのことを奇妙に思う。誰の姿も見えないが、近付いてくればくるほど、打ち捨てられた船のようには見えなかった。

引き寄せられるようにその船に近付く自分の脚は、いつしか河の水に浸かっている。気にも留めない。
確かめなければ。
何を、とは思わなかった。ただ、確かめなければとそう思ったのだ。
しかし同時に、相反するものが自分の中に生まれている。
これ以上近付いてはならない。見てはいけない。
そう自分の中の何かが警告している。それにも拘らず、自分の脚を止めることがどうしてもできない。
いつの間にか、胸が早鐘を打ち始めていることに私は気付いた。
恐れている。私はこれから見るだろうものを、とてつもなく恐れている。
けれど、自分を止めるその術がない。

目前に迫ったその小舟には、見覚えのある武具が置かれていた。
丁寧に配置されており、誰かが整えてくれたのだと分かる。
そして船には、一人の人間が横たわっている。
愛するその顔、その出立ち。
その人物は――。




場面が途切れる。
気付けば、何処なのかも分からない場所に私は佇んでいる。
しかし、そんなことはどうでも良かった。
目の前に、が立っている。
しかし前に会った時のように、その隣に兄の姿はない。それがひどく不吉なことのように思えてならなかった。

!!」

私は彼女の肩を掴む。
ぎょっとした様子で向こうはこちらを仰いだが、どうしても私は彼女に訊かねばならなかった。

「兄は……ボロミアは無事か!?」
「えっ、あの」
「教えてほしい、兄は大事ないのか?」
「ど、どうしたんですかっファラミアさん」

は私の勢いに気圧されたように目を瞬いている。

「どうして急にそんなこと」
「頼む、答えてくれ!!」
いつにない大声を上げる自分を止めることができず、私は続けた。
「ボロミアが……死んだ彼が船に乗せられ、流されるのを見たのだ。夢か現実かも分からぬ、、何があったのかを教えてくれ!」
「いやいやいやいや、ちょっと待って、待ってください!!」

彼女はたじろぎつつも慌てた様子で手を振り、こちらを押し留めようとする。
続きの言葉は、すぐには理解の及ばないものだった。

「どうしてファラミアさんまで、本来の物語を知ってるんですかっ」
「……何を」

は、何を言っているのだろう。
思うが、向こうはただただ困惑顔で言葉をこぼすばかりだ。

「いえ、その、だから! アモン・ヘンにいなかったファラミアさんが、どうして」

そうまで言ったかと思えば、しかし急に彼女は口を噤んだ。
少し考え込んだかと思えば、
「まあ、ファラミアさんですもんね」、と一人で納得している。

「たぶんファラミアさんは、特別枠なんでしょうね、きっと」
!」
「あっ、ごめんなさい! ……その、大丈夫です。ボロミアさんは無事ですから!」

だから、安心してください。
その言葉に、ようやく私はいくらかの安堵を得る。
けれど、すぐに別の思いが湧き出てくる。の言う、「本来の物語」とは何なのだろうか。
そして、この夢は一体何だ。


「はい」
「……これは、夢ではないのだろう?」
「…………」

彼女はすぐには、答えない。
以前から薄らと感じていた感覚。……夢でありながら、きっとこれは夢ではない。
その証拠が、前回会った際に委ねられたの国の土産ものだ。
夢から覚めても掻き消えることなく、今も自分の部屋の卓上でそれは存在し続けている。
見つめていると、やがては「うーん」、と小さく唸った。

「わたしにも正直、よく分からないんです」
「…………」
「わたしも最初はファラミアさんと会う夢だなって思ってたんです。でも……それこそ、ただの夢じゃないっぽいですよね、これ」
「私も同じ意見だな」

そう述べれば、彼女は小さく笑んだ。
すぐにその笑みは表情の奥に消え、ふっと真面目な顔になる。
は、改めてこちらを見ると口を開いた。

「ファラミアさん。……これから、事態は大きく動きます」
「…………?」
「ボロミアさんの本来の生死を変えてしまったので、もしかしたら多少物語は変わるかもしれません。でも……ファラミアさんにこれから起こることが、一体どこまで変わるか」

私はただただ、彼女の言葉を聞く。
の様子が、いつもと違うように思えてならない。何か、俯瞰したものの見方をしている。そんな言い方だった。
彼女の話が、続いていた。

「ただ……これから、二人の小さい人に会うと思います。そこはたぶん、変わらないはずです」
「小さい人……、ホビット族か」
「フロドとサムっていいます。裂け谷で一緒になって、しばらく旅を続けた友人なんです」

向こうも、友人だと思っていてくれたらいいんですけど。
そんなふうに彼女は言う。

「彼らが、物語の鍵になるのも変わりません。……助けてあげてくださいね」
、その、物語というのは」
「ファラミアさんなら大丈夫だっていうのは、十分に分かってますけどね……」

問いに答えることなく、娘は微笑んだ。
そして、言った。

「……もしかしたら、ファラミアさんとお会いできるのはこれが最後かもしれないです」
「こうして夢で会うのが、か?」
「いえ……まあ……色んな意味で」

はっきりしない物言いだった。
「なので」、と彼女は片手を差し出してくる。
やわらかな笑顔を浮かべたが、確かにそこにいた。

「今まで、お世話になりました。……お会いできて、良かったです」

まるで別れの挨拶だった。
何かおかしい。彼女の挙動、空気に、言葉。は一体、どうしたというのだろうか。
しかし向こうは、静かに私がその手を取るのを待っている。
差し出された手にこちらのそれを合わせ、握り返す。
ぬくもりは、確かに彼女の体温のものだった。

「しめっぽいのは苦手なんです。だから……さよならみたいなのは、言いませんからね」
「ああ。……また会おう」
「…………」

彼女は少し黙り込んだ。
かと思えば、またも真剣な顔つきになって見上げてくる。
握っていた手に、幾らかの力が籠っていた。

「ファラミアさん。……これから辛いことが起こると思います。でも、絶対望みを捨てないでください。必ず……春は来ますからね」

そう言ったは、瞬きをした数瞬の後には消えていた。
……今回は、まるで意味が解せないことばかりだったな。
この時の私は、ただただそう思うばかりだった。




白く靄のかかる河辺に私は立っている。
頬に当たる空気は冷たく、周囲には誰の気配もない。
彼女の夢を見た、次の日のことだった。
辺りを見回ろうとして、ぞくりと背中に冷たいものが流れる。奇妙な既視感にすぐ思い当たった。
同じだ。あの時とまるで同じ。そしてそれならば、これから自分が何を見るのかも、自分は既に知っている。

河の向こう側からゆっくりと流れてくるその小舟は、記憶と寸分も違わなかった。
そのことにぞっとする。
違う。兄は無事だと、大丈夫なのだとは言っていた。
だから、記憶にあるようなことにはならないはずだ。そうだろう、

いつしか河川に膝まで浸かっている。気にも留めない。
確かめなければ。……確かめなければ。
思うが、近付いてくる小舟、その中を見るのが恐ろしかった。
だが、自分を制止することがどうしてもできない。
船の中では、誰かが胸の上で手を組み、その身体を横たえている。
そこには――。





「――ボロミアとの友人?」
「そうです。……そう思ってます」

捕らえた二人のうちの一人が、そう言った。
大きな瞳は微かに揺れていたが、言葉自体は本物のようだ。
は「友人と思っていてくれたらいい」と言っていたが、杞憂だったのだろう。
胸に、ひどく苦いものが走る。
一体、何があったのだ、
思うが、もはや訊くことは叶わない。

「では悲しいだろう。彼女は……は死んだ」

ボロミアの身代わりにな。
そう告げれば二人の小さな人は目を見開いた。
その様子からすれば、彼らは何も知らなかったのだろう。私は目を閉ざした。


彼女の淹れた茶を、もう一度飲みたいと思う。
彼女の歌う歌を、もう一度聴きたいと思う。
彼女の国の話を、もう一度聞きたいと思う。

いつか――また夢で会えるだろうか。
そう思いながら私は眠りにつく。
しかし夢の扉は、閉ざされたまま。

「春は……本当に来るのか、

口にした言葉は、空気の中に溶けるようにして消えた。






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