湯の注がれる音がした。
ふと気付けば、すぐ傍にいるはまるでいつも通りに茶を淹れている。
自分達しか居ない空間、いつの間にか私はテーブルについている。
こちらの視線に気付けば、何も言わないまま微かには口の端を持ち上げる。静かな夢の時間の続きだと、私はすぐに理解した。
そっと差し出された茶はしかし、以前に出してくれたものとは色味も香りも異なっていた。
新緑のような澄んだ緑、ほのかに鼻先をくすぐるのは初めての香りだが、どこか落ち着くような気持ちになる。
「今日はですね、緑茶をお持ちしました。日本のお茶ですよ」
ふふふ、と何処か誇らしげに彼女は笑う。
どうぞというように手で示されて、ゆっくりと口を付けてみればこれもまた初めての味わいである。
円やかで、ほんのりと甘みも感じられる。……優しい味がする。
「美味しい」
「良かったです」
小さく片手を握りこぶしにして、はそう言う。
「わたし、そもそもなんですけど、お茶を淹れるのは苦手で」
「ほう」
「お湯みたいに薄いか、沼みたいにすごく濃いかのどっちかにしかならないんですよね」
「……今となっては信じられないな」
「ミナスティリスでたくさん練習しましたから!」
言いながら、ナイフで切っていた何かを小皿に載せると其れも寄越した。
とても小さなフォークと共に其処に座しているのは、何と表現すればよいのかわからぬ物体だ。
色は黒とも茶ともつかず、ただ存在感だけは重厚である。
訊けば、和菓子という日本の菓子のひとつで、羊羹というものらしい。
気が向かれましたらどうぞ、と言うは人心地付いたように椅子に座った。こちらを見た。
言った。
「改めまして、ファラミアさん。……そちらはお変わりありませんか」
「ああ。も無事に旅を続けているか」
「……ええ、何とか」
ほんの一拍の間があった。
何かあったのだろうかと思う間もなく、彼女はふっと笑うような息をつく。
卓上で両の手を組むと、真っ直ぐに此方を見た。
「実はですね」
「……何事かあったのか」
「えーと、ざっくり言うとですね。バレちゃったんです。ボロミアさんに」
「何がだ」
「わたしが、日本にもう戻れることです」
沈黙した。
夢とはいえ、この夢は本当に夢なのかと私は何処かで訝しんでいる。
とはいえ彼女と会える唯一の手段でもあり、決して快くなく思っているわけではない。
ただ、もし仮に夢ではないとすれば。
「ですので」、
はごく淡々と言葉を続ける。
「ファラミアさんにもご報告しておこうかと思いまして。今まで散々ご心配をお掛けしましたし」
「…………」
すぐには、何といえばよいのか言葉が見当たらない。
しかし、もしそれが本当なのであれば一つの安堵には違いなかった。
どういう経緯で彼女の帰り道が見つかったのかはわからぬが。
「そうか、何よりだ。……兄もさぞ安心していることだろう」
「ですって。ボロミアさん」
ごく自然にがそう言ったので、一瞬、理解するのが遅れていた。
ふと隣を見れば、まるでずっとそうしていたかのように兄は其処に居た。
椅子に腰かけ、腕を組んでこちらを見るのは見慣れたボロミアという兄その人だった。
「……兄、上?」
「何だ、幽霊でも見たような顔をして」
揶揄うような口ぶり、その顔が、いつも見ていたように笑みを形作った。
どうして、というように兄を、次いでを見れば
「お連れしました」、と何でもないことのように彼女は言う。
「こうでもしないと、なかなか会えませんし……わたしに出来るのはこれくらいしかありませんから」
後はどうぞお二人で。積もるお話もあるでしょうから。
そう言って、は自分の茶の器を両手で包み込んだ。
兄と、幾つか話をした。
こちらの現状。東の闇……モルドールの現在の様子や、自分らの隊の今の編成状態。
兄からも話を聞けば、今はロスロリアンに身を置いているという。時期をみて、もうじきその地を発つのだとか。
未だ明確に夢ではないとは言い切れぬが、しかしそれは、情報の一つであった。
裂け谷を出立してからの道程、これまでの歩みを聞けば、確かに兄とは着実にゴンドールに近付きつつある。
それがわかっただけでも十分だった。彼らは、決して遠くにいるのではない。
自分達が言葉を交わしている間、は黙々と羊羹を咀嚼し、茶で口を潤していた。
けれど、……普段通りの彼女のはずなのに、自分は何処かで違和感を感じている。
いや。
それは彼女だけではない、兄に対しても同じだ。
そのことを、おかしく思う。目の前に居るのはよく見知った二人である。
どちらもそれなりに元気そうに見える、それなのに今感じている違和感は何なのだ。
「ファラミア」
兄に呼び掛けられ、顔を上げる。
最初こそ互いに笑って再会を喜んだが、話が始まれば真剣な面持ちになる。
目の前の兄は、今なお真面目な顔ではあったが、僅かにそれが緩んだ。
「私が不在の間、よくゴンドールを護ってくれたな。流石だ」
「……兄上には遠く及びません」
「そんなことはない、我が弟ながら誇らしいぞ」、
そう言って一度笑んだが、兄はそれをすぐに引っ込めてしまう。
「私達が戻るまであと少しの間だ……だから」
待っていてくれ。
そう言う兄の何処かに、焦りのようなものを感じる。
不意に、違和感の正体を知る。
……兄に揺らぎを感じるのだ、そしてそれは、今は無理に押し隠されている。
言葉も口調も一見穏やかだが、それは自分という弟の存在の手前でもあるように思えた。
ふと、兄ではなくと目が合った。
静かにこちらを見る彼女の目が、何か言いたげに向けられている。何かを訴えるような視線だった。
けれど、兄が彼女を振り返れば、パッといつものに戻っている。
彼女も憂いているのだ、兄の中の隠された焦燥に。
今まで安寧に満ちていたはずの彼女との夢が、今ここに来て微かに揺らいだような気がした。
けれど、……それでも彼女と兄に会えたことには変わりないのだ。
私は感謝するように目蓋を閉じた。
夢の中は、時間の感覚も希薄である。
気が付いた時には私も兄も、共に卓上のものを空にしていた。
しばらくの間沈黙を落としていたが、ホッとしたように息を吐いた。
「お口に合うか不安でしたけど、大丈夫……だったと思っていいですか?」
「美味かった」
そう答えたのは兄だ。
よし、と両手をこぶしの形にして彼女は破顔する。
「帰れるようになったのがバレちゃいましたから、堂々とお茶とお菓子買ってきちゃいました!」、
ふふ、と笑う彼女は既にいつものに戻っていた。
「いつかお二人に、今までのお返しにご馳走したいって思ってたんです」
「名残惜しいな」
私はついそう零してしまう。
「どちらも初めて口にするのに、不思議と落ち着く味だった」
「そんなファラミアさんのために」
は、テーブルの下から何かを取り出す。
見れば、紙袋である。
彼女はそれを私の手に委ねながら、こう言った。
「お土産です。お茶の葉と羊羹、あ、羊羹は今食べたのより小さいサイズですからナイフで切らなくても大丈夫ですよ」
開封しなければ、一年くらい日持ちもしますから。
そんなふうに言うの手を、そっと兄の手が掬い上げた。
「そろそろ戻ろう、」、
そう言って顔を頭上に向ける。
「夜が明ける」
「……そうですね」
言って、二人はこちらを見て笑んだ。
それはゴンドールを発った頃の二人と寸分変わらぬ姿、否、あの頃よりも更に親密だろうか。
どちらもごく自然に寄り添い其処に居た。……ともかく。
また、いずれ。
そう願って目蓋を深く閉ざし、再び目を開けた時には目覚めている。
自室のベッド、辺りは静寂に満ち、まだ夜の残滓が残っている。
しかし夢の中の兄が告げたように、もうすぐ夜明けだ。
身体を起こそうとして、己の片手が何かを握っていることに気付く。
一瞬、目を疑う。
夢の中でに手渡されたものと全く同じ紙袋。
改めて上半身を起こし中を覗けば、茶と菓子と思しき包みが其処に在った。
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