「──マブルング、とオルガを見ていないか」
「これはボロミア様。その二方は、今日はまだお会いしておりませぬが……」
「そうか。呼び止めてすまなかったな」
「いえ。何か、火急の用でも?」
「なに、大事無い」

私は首を振り、大したことではないと伝えた。
オルガが自分とファラミアの元へとやって来たのは、一刻程前のことだ。
随分と意気込んで、 「を綺麗にしてみせる」 と自信たっぷりであったことを思い出す。
支度にどれ程の時間が掛かるのかは判らぬが、早ければもう済んでいるのではないかと思う。
さて、それともまだ掛かるものなのだろうか。
見当は付かなかったが、もしできあがっているのであれば目にしておきたい。
完成したなら向こうからやって来るとは思うのだが。
いつできあがるか判らぬ以上、それまでに仕事の続きを済ませておくべきなのだろう。
私はそのことを考えて頭を振った。

「親しい者の顔を見てからと思ったが、部屋に戻った方が良さそうだ。一人であの書類の山に立ち向かうのは、気の重いことだが」
「決済して頂かねば、その山の量は増えるばかりですからな」

そんな会話を交わし、苦笑した。
やれやれ、身体を動かし剣を振るっている方が自分には合うというのに。
思うがしかし、それとやるべきこととはまた別である。
自室に戻るかと思った、その時だった。
幾つもの足音が重なり、微かに床を通し、己が足にその振動を伝えてくることを認識したのは私だけではなかったようだ。
私とマブルングはほぼ同時にその方向を目で捉え、互いにぎょっとした。
幾数名の侍従達に加え、ファラミアやつい先程話に出た本人達が──オルガにそしてだが──遠目にも、全員が出せる限りの力を以ってして駆けてくるのが判った。
先頭となっているのはのようだが、どうにも様子がおかしい。
私は誰へともなく、声を張り上げていた。

「何事だ、何の騒ぎだ!?」
「兄上! 今はとにかく、を捕らえて下さい!! それが先決です!」

ファラミアは私に負けじと声を上げた。まるでが脱走犯のような扱いである。
しかし先程より距離が縮まると、彼女の格好がとんでもないことに気付かされる。
下はまだ良い。いつもと同じものを着用している。その上にドレススカートが重なっているが。
彼女はそれを邪魔だといわんばかりに思い切り裾と裾とを両手で掴み、捲り上げ、走るのに邪魔にならないようにしていた。
問題は上である。
こちらは常時のような簡素なものではなく、今が掴み上げているスカートと繋がるドレスの上の方だが、どういう着方をしたのか酷く乱れている。
襟口がゆるやかなため今にも肩からずり落ちてしまいそうだった。
目のやり場に一瞬困ってしまうがしかし、彼女はスカートの方に掛かりきりで、そちらには手が回らないようだった。
何処か鬼気迫った顔で走る彼女はあっという間に私達の方にやって来る。
私とマブルングはとにかく、立ちはだかった。
何処に行こうと言うのか、しかしこれなら逃げられまい。そのような格好で走り回って欲しくない、ひとまず止まってもらわねば。
しかしは走る速さを全く緩める様子がなかった。
それどころか一直線に私に向かってくるではないか。私がそのことに僅かに狼狽したその瞬間、

「だりゃあああ!!」
「ぐあっ!!」

まさか体当たりされるとは思わなかった。
思わずよろけかけるがしかし、そのまま走り去ろうとするの腕を反射的に掴んだ。
勢い余って彼女は転倒し、腕を掴んだままの私もつられて倒れ込む。
彼女の上になる形だったので、は形容しがたいような潰れた声を出した。

「……、ボ、ボロミアさんすみません、流石に重い…………」

咄嗟に彼女には体重が掛からないような体勢を取ったが、しかしそれでも負荷は掛かってしまったようだ。
すぐさま身を起こしかけ、ふと、ごく近い距離に在るの顔を目にする。
さっきまでは気付かなかったが、既に薄く化粧が施されている。
それだけでも随分と印象は変わるものだ、ついまじまじとその顔を見てしまう。不躾なことではあったが。
それにしても何故このような事態になったのかは理解できない、どんな理由では着飾りの最中に逃げ出してきたのだろうか。
思い巡らせていると、目の前で私を見上げる彼女、その白粉が塗られた頬にも幾らか赤みが差すのが判った。

「…………あの、ボロミアさん」
「うむ?」
「…………」

は困ったように黙り込んでしまった。
そうだ、重いのだったな、と思い当たり身体を退かそうとして、ふとようやく周りの様子に私は気付いた。
ファラミアは目を覆っていた。
マブルングはと同じように困った顔でどうしたものかと思案顔、オルガやその他の者たちに至っては口元に手をやったり何故か赤面していたりとそれぞれだが、皆似たり寄ったりである。何なのだ、一体。
目を瞬いていると、ファラミアが仕方のない、とでも言いたげな表情を浮かべながら此方へ来てしゃがみ込んだ。
そっと私に耳打ちする。

「兄上、早くお退きください。でなければ無用な噂話が立ちます故」
「……何の話だ」
「状況がお判りになりませんか? ……今の兄上はを押し倒しているような状態なのですよ」
「…………」

数秒、弟の言葉が理解できなかった。
しばらくの後、私はを見下ろし、そうして文字通り飛び起きた。

「す……っ、すまない、!! だ、だだ大丈夫か!?」
「いえ、わたしはボロミアさんの方が大丈夫ですかとお訊きしたいくらいなんですけど……」
「う……、し、しかし何故わざとぶつかってきたのだ、危ないではないか!」
「えーと……ファラミアさんだけじゃあ、不公平だなと思いまして」
「何がだ……」
「後は、もう逃げられないと判りましたので自暴自棄の特攻です。最後まで足掻いてやろうかと思いましたので」

彼女はむくりと起き上がりつつ淡々と言う。
言っていることの意味が私には判然としなかった。
どういう経緯でこうなったのかの話を聞いたとしても、上手く解釈できるか不安に思えてならなかった。




「……間もなく終わるそうですよ、兄上」

オルガのところから帰ってきたファラミアが言った。
あの場を何とか収拾し、マブルングも自分の仕事に戻っていった。
今はオルガと何人かの侍従達が、観念したを着せつけたり髪を梳いたり化粧を施し直したりしているという。
私とファラミアは、別室でそれが終わるのを待っていた。
あれだけのことがあったのだから、めかし込んだの姿をしっかり拝ませてもらわなければ。
そういう結論に至ったのだ。

「一度、途中で逃げ出してきたところに私と鉢合わせしたわけだが……、今度は大丈夫だろうな」
「さて、どうでしょう。……あの様子なら、今度は脱走することはないかと思いますが」
「それは大丈夫です、もう終わりましたから」

オルガの声が聞こえたので、私達は振り向いた。
ドアのところには彼女と、白いドレスをまとった女性が佇んでいる。
腕組みしそっぽを向いてはいるが、彼女を一目見て先に口を開いたのはファラミアである。

「これは待っていたかいがあった、なかなか様になっているではないか」
「本当に大変だったんですよ。ったらあれは嫌だこれは嫌だと注文ばかりつけるんですもの、黙って任せてくれればいいのに」

二人が会話を交わしているが、は黙ったままである。
ふい、と伏し目がちなその目が此方を向いた。
……これは、果たして誰であろうか。
確かに知っている顔ではある。
それは私の知るという人物の面影が多く残るのだが、しかし、私の知るではない気もした。
言葉もなく目の前の娘を見つめる。
彼女の顔が少し強張った、と思うと、向こうはファラミアやオルガの方に向き直った。

「……あ、あの、もうこれ脱いでもいいですか……?」
「もうか? 出来上がったばかりではないか」
「そうよ、何を言っているの」
「だ、だってボロミアさんがっ、ポカーンとしてわたしを見てるんです、きっと言葉も出ないくらい似合ってなくて変なんですきっと!」

だからさっさといつもの格好に戻りたい、と彼女は訴えた。
ファラミアが一瞬私の方を一瞥すると、どうとも捉え切れない息を小さくついた。
しかし今はそれよりも、彼女におかしな誤解を与えてしまったことをどうにかするのが先である。

「そ、そんなことはない、その、……似合っているぞ」
「無理しなくていいんです、かえって惨めになりますから止めてください」
「いや、その……だな」

どうして自分はこうも口が上手く回らぬのだろうか。
そうやきもきしていると、脇からファラミアがやんわりと彼女に言葉を掛ける。

「変なことなどない。思った通り、美しくなったではないか」
「…………」

は喉の奥に何かが詰まったかのように押し黙ってしまった。
うっすらと頬に差す朱は化粧のものだろうか。
……この姿の彼女を見ることは、果たしてこれからあるのだろうか、とぼんやりそんなことを思う。
は本当にすぐにでも元の格好に戻りたがっている様子であるし、もしかしたら後にも先にも、今日この時この場限りの記憶だけでしか思い出せない追憶となってしまうやもしれぬと思った。
今のこの姿の彼女を焼き付けておきたい、そうふと思ったりもする。
今日一日だけの姿と言うのなら、尚のこと。
私は無理を承知の上で、それでも一応訊いてみることにする。
何度か咳払いをし、声が出るようにしてから言った。

「──
「……はい?」
「肖像画を一枚、残す気はないか」
「…………は?」
「肖像だ。絵として、残しておかないかと訊いたのだ」
「な……い、嫌です! 何でまた、そんな」

彼女は再び、引き攣るように表情を強張らせてしまった。やはり駄目か。想像はしていたが。
私は頭を振って言葉を零した。

「美しくなった今の姿のを、覚えておきたいと思っただけなのだが」

残念だ、とぽつりと漏らす。
そうしてふと見ると、の顔がいつの間にか先程にも増して紅く染まっているのに気が付いた。
彼女は意外と赤くなりやすい。そう思っていると、
「……ミアさんの」
「……?」
小さな呟きがあったが、よく聞き取れない。は何と言っているのか。耳を近付けようとして、しかし次の瞬間。



「ボロミアさんのぶぁかーーーーーっっ!!!」



鼓膜に直接叩きつけられたかのような叫びが上がった。
頭に残響が長く尾を引くような其れ、思わず硬直しているうちに、一気にはその身を逆方向に向け、ドレスの端を鷲掴みにしながら部屋を走って出て行った。
後には私達だけが残された。

「……馬鹿?」
「……だそうですね」
「……私は何か失言でもしたのだろうか、ファラミア?」
「いえ、きっとただ単には、今のような言葉を掛けられるのに慣れていないのでしょう。おそらく、照れ隠しなのでは」
「今? ……今、私は何と言った?」
「…………」

何故か、ファラミアはそのまま何も言わずに目を瞑ってしまった。
オルガは私達を見てただ黙っていた。
何なのだ。判らない。今日はいろいろと判らぬことばかりだった。
それなりに平和と言えなくもない、ある日の午後の出来事であった。






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