旅をする中で強いられる我慢というものがある。
例えば、そのうちの一つが食べるもの。
一日に五、六回は何かしら食べると言っていたホビットの皆は、とりわけ食事については頑張って耐えていたと思う。
行く先々は自然豊かな道筋、或いは道なき道で、村や町といったところは見当たらなかった。敢えて避けているのかもしれない。
ただ、村とも言えないような小さな集落なら、ほんの数回行き当たっている。
そこで野菜や果物、卵あたりを手に入れられることもあったけれど、これは幸運の恵みと言えるみたいだった。
アラゴルンさんが鹿や子ウサギを狩ってくることもあれば、ボロミアさんが木の実や自生している果実を採ってきてくれることもある。
皆で協力して食べ物を集めてはいたけれど、流石にいつもホビットを満足させられるわけではない。
「里に戻ったら」、
そう口火を切ってホビットたちが、とりわけメリーやピピンがよく食べたいものの話をしていた。
「腹いっぱい食べて食べて食べまくってやるんだ!」
「ベーコンエッグにマッシュポテト、それから摘みたての苺、たっぷりのバターとクリームを添えたケーキに、お気に入りの紅茶!」
彼らがそんな話をする脇で、わたしは口の中で(もういっそ)、と独りごちる。
わたし、ひと眠りして買ってきましょうか。
自分の世界で、近所のスーパーでいろいろ、あれこれ美味しいものを。
こころの中で何度そう思ったか知れない。
ただ、わたしがこうして行き来できるのをまだ誰にも伝えていなかった手前、自分の中で思うのに留めていた。
それに仮に話していたとしても、家族からの仕送りとアルバイトの収入でやりくりしていた自分の手持ちは豊かとは言えない。
今後、本当に必要に迫られて、何かを準備しなければいけないなんてことも、あるかもしれない。
多少の余裕は持っておきたかった。
そして実際、度々の眠りを経て、わたしは自分の世界へと戻っている。
足りない小腹を満たすために、ちょこちょこと何かを口にはしていた。
皆に少し悪かったけれど、その分旅中で食べる量を幾らか控えている。それを小さい人達に回すことで、自分の中での帳尻を合わせるようにしていた。
何よりこの面子の中では、わたしは体力面でどうしても見劣りしてしまう。
同時に、わたしにはわたしだけの「一時帰省」なる反則技があり、それを有効に使わない理由はない。
そう割り切ることに、最初から決めていた。
だから栄養面はもちろん、その他のあらゆる面でできるだけ最良の状態を保つことを心がけるようにしていた。
足を引っ張らないことこそ、たぶん自分にできる唯一のこの旅への寄与だろうから。
強いられる我慢のうちどれが辛いかは、人によって様々だと思う。
差し当たって、わたしがこの反則技の恩恵に最も感謝していたのは、ざっくり言えば衛生面全般になる。
今回特に話しておくなら、そのうちの一つがお風呂である。
川や湖のような水場があれば、そこで水を浴び、洗濯をするといった用事を済ませる。
けれどそうそう毎日行き当たるわけもない。
そして行き当たったとしても、とある問題が立ちはだかる。水が冷たすぎるのだ。
当然すぎる程のことも、いざ自分が直面してみるとなかなか侮れない問題だったりする。
初めて水浴びをしようとなったのは、遠く反対側に対岸が見える場所だった。
湖なのか、あまり水の流れを感じない。
透明に澄んだそれは、実際とてもきれいな水のように思えた。水草の影を、とても小さな小魚の群れが泳いでいる。
中つ国は自然も豊かで美しい世界だったから、これが夏だったならほとんど抵抗なく水を浴びられたと思う。
夏だったなら。
しかし季節は今、秋から冬に移ろうとしている最中だったりする。
わたしは優先されたらしく、一番先にと順番を譲られた。気付けば周りには誰もいない。
けれど、ひとり、ぽつんと佇んでいた。
皆は少し離れた場所で炊事の準備をしてくれている。それはそうとして。
……どうしよう。
わたしはそう思った。
ひと眠りすれば、自分の部屋に戻り(狭いユニットバスだけれど)温かいシャワーを浴びられる。
けれど、今濡れて皆のところに戻らなければ不審がられるだろう。
わたしは水の傍にしゃがみ込むと、しばし揺れる水面を覗き込んだ。意を決して、そっと、指先を差し入れてみる。
刺すように冷たかった。
実際、天気も曇天というやつで気温も控えめ、……まあ当たり前ですよね、今って秋冬ですから。うん。
わたしはそう納得した。
けれど、わたし以外の皆はもう少ししたら、ここで水を浴びることになる。
……どうするんだろう?
わたしはもう一度確かめるように別の指を入れてみる。やっぱり、かなり冷たい。これで水浴びするとか、本気だろうか?
わたしはそうするのをちょっと想像してみる。
服を脱いで足の指先から足首、ふくらはぎ、腿から腰にかけて水に沈めるところまでを恐る恐るイメージする。
身震いした。そしてそこから先は、考えるのを止めた。
何これ、修行かな?
……修行ですね、わかります。
わたしはまたそう納得し、それをパスすることにした。
ひとまず髪だけを軽く濡らし、それを拭って少し時間が経つのを待つ。
びしょ濡れではなかったけれど、そこまでするだけでも風邪をひきそうだ。もし誰かに突っ込まれても「内緒」だと押し通そう。
覗かれたりしない限り、その辺そうそうバレることもないと思う。
そして紳士的な振舞いをする人が多いこの中つ国、まさかそんなことをやってのける人が、このパーティー内にいるとも思えない。
この辺りについて、わたしは彼らを完全に信頼しきっていた。
そもそも、わたしのを覗いたところで誰が得をするのだ。ないない。絶対にない。
独りで片手を振りつつ、頃合いを見計らう。
しばらくしてから、少しだけ離れた場所で待機してくれているボロミアさんに声を掛けた。
初めての水浴び(未遂)は、こうして終わりを迎えた。
以来、水場に巡り合った際には同じようにしてやり過ごさなくてはならなかった。
どう考えても風邪をひくリスクしかない。故に、わたしはわたしなりに身ぎれいにすることにした。
寝入った後に自分の部屋に戻る。
軽く小腹を満たし、歯を磨いたり、細々と用を足してからシャワーを浴び、髪を乾かしてまた眠る。
――行ったり来たりできるの、滅茶苦茶ありがたいのでは?
改めてしみじみと、わたしは痛感せざるを得なかった。
そして同時に思う。長旅って、本当に大変だなあと。
最初の頃、寝入って向こうに戻った時に鏡を見ると、砂埃に少し汚れている自分がいた。
もしこれが旅慣れた男の人だったなら、様になっていたかもしれない。
例えばアラゴルンさんが好例で、あの人は汚れれば汚れる程、妙に格好よく見えた。
ならばわたしはどうかといえば、まるでそんなことはなかった。男性と女性では、その辺りの事情もやや異なるらしい。
わたしはふと、ボロミアさんのことを考えた。
彼から見て、自分はどう映っているだろう。旅の疲れだとか、やつれみたいなものを感じさせてはいないだろうか。
もしそうだったら、嫌だなあ。
向こうの方が見ていてつらいだろうなと、何となく思うのだ。そんなふうには感じてほしくない。
幸い、わたしにはわたしなりに身ぎれいに保つ裏技がある。それに素直に感謝して、そうすることにした。
……それにしても。
つくづく思う。よく皆、あの冷たい水を浴びて風邪をひかないなあと。
何か、風邪をひかないような秘策でもあるんだろうか?
例えば、ガンダルフさんが魔法で水を温かくしてくれているとか。
もしそうなら、わたしの時もそうしてくれればいいのに。一番手のわたしって、もしかして忘れられてたりする?
ちょっと思うが、真相は定かではない。
仮にそうだとしても、……いや、それならその方がいい。皆その方が快適だろう。
わたしはそう考えることにした。そしてのんびりと、自分の中で呟く。
――中つ国にも、温泉の一つや二つあればいいのに。それならわたしも入ってみたい。
そんなふうに思ったことも忘れかけていた頃だった。
その日は穏やかな日和で、風もほとんど吹いていなかった。
ゆるやかな丘を上り、そして下りに入ったその先の向こうに、水が流れているのが遠目にも判った。川が流れている。
ただ、ふつうの川ではないらしいこともなんとなく判った。
何か、もうもうと舞い上がる蒸気のような白い靄が掛かっているのだ。
そのせいで、その霞みがかった一帯は全貌がわからないような状態だった。
風があまりないので、ゆるゆるとその白いのは上空に立ち昇っていく。煙のようには見えなかった。
霧か何か? でも、こんないい天気の中で?
その正体を判別しなければ、先には進めない。何か有害なものであれば、迂回する必要があるだろう。
様子を見てくるというレゴラスさんを見送り、皆で待機していたのはほんの僅かな時間だった。
すぐに戻ってきたエルフの顔には、珍しいものを見つけたと言わんばかりの微笑みがある。
そしてそれは、実際その通りだった。
「皆来てごらん。面白いものを見つけたよ」
「何を見つけた?」
「お湯が湧いているんだ」
「湯だと」
瞬いたのはガンダルフさんにアラゴルンさんだ。
けれど、その他の皆はそれだけに留まらない。どよめきとも言えるような空気が一時に広がった。
レゴラスさんの話を聞くに、どうも温泉の類らしい。
触れてもみたけれど、泉質も申し分なさそうだという。
立ち昇る白で判らなかったけれど、すぐ傍に切り立つ岩場があり、そこから流れ込んでくる水――滝のようになっているらしい――と混じり合っているので、場所を選べば温度も丁度良さそうだとか。
……温泉って、そんな丁度良く湧いてるものなの?
そう思わないでもない。
でも確かに、わたしの世界だって国内外あちこちに温泉だとか間欠泉というのがあるのは知っている。
この辺りは街も村もない。あまり人が通らない場所だからこそ、誰にも知られていなかったのだろう。比較的新しく湧いたばかりなのかもしれない。
しかしとにかく、その話を聞いて大喜びしたのは小さい人たちだ。
久しぶりに温かい湯を浴びられると心底嬉しそうに口にしているのを聞いて、
(やっぱりあの冷たい水で水浴びしてたんだ……)と思ってわたしは一人、身震いしそうになる。
しかしとにかく、――温泉である。
件の湯が湧くその場所に皆で赴いてみると、だんだんと周囲の状態がわかってきた。
レゴラスさんの言ったとおり、滝のように、……というか滝なのだろう、水が高いところから切れ目なく流れ込んでいる。
それを受け止める一帯は、滝つぼとなって飛沫を広げていた。
近くで見れば茂る緑や紅葉する木々も美しく、ふつうに観光名所になりそうだなあと思う。
わたしは少し、考え込んだ。
いつもいつも毎日毎日、ミニチュアみたいに極めて狭いユニットバスでぱっぱと身体を洗うのを済ませている。
湯船になんて、ここ最近浸かっていなかった。お湯を溜めたところで、手足を伸ばすなんてとても無理で、縮こまって浸かるしかない。
さあ、さて、目の前には突如現れた天然温泉がある。
隠れ家的な雰囲気で、辺りは自然豊かな景色があり、手足を伸ばせるどころかプールみたいに泳いだって十分そうな広さもある。
夕暮れが差し迫り、西日が降り注いでいた。ポストカードになりそうなくらい、風情もたっぷりだった。
――OK。入ろう。
わたしは俄然、入る気満々だった。
シャンプーや石鹸の類はないけれど、それはそれ、寝入ったら改めて向こうで洗えばいい。
せっかくだから、今回は一番最後に順番をもらいたい。
おそらくそう無い機会だ、わたしだって、たまには順番を気にしないでゆっくりしたい。
中つ国湯けむり温泉紀行。
何かすごくどうでもいい言葉がわたしの中に浮かんだけれど、まあ、とにかく。
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