「メリー?」
声を掛けられて一瞬ぎくりとする。
けれどそれはピピンのもので、すぐに安堵に変わった。
ピピンならいつもみたいに巻き込んで、上手いこと作戦を成功させる方向に持ち込める。
これがフロドやサムだったなら、そうはいかない。特に、今回の件に関しては。
「何処行くんだい」
「しっ。……いいからこっち来いよ」
休憩場所から少し離れた場所にピピンを連れ出す。
ゆっくりと温かい湯で身体を洗って、人心地ついた時分だった。
ここで一夜を過ごすことに反対する奴がいるわけもなく、早めに休むことになった。
そして今は、太陽もほとんど沈んで夕闇が迫っている。……急がないといけない。
「なあピピン。今から一つ、確かめたいことがある」
「何だいメリー、改まって」
「のことなんだが」
「彼女が、どうかしたかい」
ピップが疑問符を浮かべる。
そして、ああ、というふうに一つ肯く。
「そういえば、今一番最後にお湯を浴びてるのはだね。いつもは一番最初なのに」
「ああ、今日はゆっくり入りたいからって言ってた。でもそれは今、関係ない」
「……というと?」
「ピピンは気が付いてなかったか?」
「何にだい」
ピップの頭に、もう一つ疑問符。
畳みかけて言った。
「いつも水浴びから帰ってきた時、の髪があんまり濡れていない気がするのさ。びしょ濡れじゃない、っていうかさ」
「そうかい? よく見てるなあメリーは」
「それだけじゃない。そう見えるのに、いつも彼女はきれいにしてるじゃないか」
「それはさあ、ほら。女の人だし」
「その通り。でももう一つ気になることがある。どうも水浴びの後というより、一晩明けた後の方がきれいになってる気がするんだ」
ここまで言うと、向こうは三拍ほどの間を呑み込んでいた。
その後に「つまり」、と続けていた。
「どうしようっていうんだい」
「まあ、つまり、その。ちゃんと今この瞬間に湯を浴びてるのかどうか、確かめに行こうと思ってる」
「……それって覗きって言わないかい」
「いやいや。これはれっきとした、疑問の解消というやつさ。そんな品のない言葉は止してくれたまえ」
「で、でもさあ」
しっ、と指を当てながら言えば、ピップは静かになった。
まあ、来いよ。そう言って先導すれば、黙ってついてくる。彼はいつも素直だった。
そして実際、今言ったのは単純に疑問だった。
本人に直接訊けばいいんだろうが、内容が内容だけにどうにも訊きにくい。
例えば――何か理由があって、水浴びの時間にはそうしないで、一人夜中に水を浴びてるとか。
そんなことだって、あるかもしれない。
それならそれでまあ納得だが、それにしたって女一人でとか、危ないにも程があるじゃないか?
まあまだ、実際には判らないけどさ。
だから今、もし本当に水浴び(今日は湯だけど)してるなら「俺の気のせいだった」で一応納得しようじゃないか。
今日に限って、の順番は最後だった。
夕食の煮炊きもほとんど終わって時間はあったから、そういう意味では丁度いい。
丘から見下ろした時は湯煙ではっきりとは判らなかったけれど、沸いた湯が溜まる窪みは思ったよりも大きい。
今自分たちがいるこの周囲には木々や草むらが多く、自分達なら身を隠すのに丁度よさそうな案配だ。
そろそろと近付く。
水を浴びる間は、何かあった時のために交代で見張りを立てる。
の場合は、決まってボロミアが近くにいる。今も、何処かで待機しているはずだ。
彼に見つかってはそもそも話にならない。
そう思い慎重に歩き進めようとしていた正にその時、土を踏む音がした。――背後から。
見れば、ボロミアがきょとんとした顔でこちらを見ている。
辺りを見回って歩いてでもいたんだろうか。
思うが、それどころではない。
「何だ、お前たちどうし――」
続きを吐く前に、俺はその大きな身体に跳びかかった。
予想外の行動だったみたいで、ぎょっとした様子のボロミアは俺を受け止めた格好のままよろよろと二、三歩後退るとそのまま尻もちをつく。
ピピンにしたみたいに指を当ててしっと静かにするジェスチャーをすれば、ボロミアは目を瞬かせた。
それで収まれば良かったんだが、
「ボロミアさん?」
幾らか距離の離れた場所から、の声が上がったものだから参ってしまう。
今のボロミアの声が届いてしまったんだろう、聞こえていなければと思ったんだが。
「……ボロミアさん? どうかしました?」
「ああ、いや――」
の声が、訝りを帯びた。
それに応えようとするボロミアに、必死に「黙って」とジェスチャーすれば、向こうは困惑した様子でこっちを見る。
ざばざばと、湯をかき分けるような音が辺りに響いている。
ピピンがおろおろしながら、の方向とこっちとを交互に見ていた。
「ま、まずいよ。覗こうとしてたのがバレちゃうんじゃ」
「バカ!!」
「なっ……お前ら!」
ピップの漏らした言葉にボロミアが顔を顰めた。
声を荒げようとするその口を咄嗟に塞ぐ。もごもごしていたけれど、ひとまずそのまま頭を働かせる。
さて、これは大変まずい。大いにまずい。こんな状況になるなんて、一体どうしたもんだろう。一目散に逃げ出すか?
後でボロミアからは大目玉を喰らうだろうが、しかし――。
そう考えを巡らせた矢先のことだった。
「ボロミアさん!!」
既にとっぷりと日は暮れていた。
辺りはほとんど夕闇に染まりかけていたけれど、それでも目の前に飛び出してきたが短剣を抜いていたのは十分判った。
彼女のいつも履いている靴を突っ掛け、髪からは――今日は本当にびしょ濡れだった――水がぽたぽたと滴り落ちている。
何より服を着る間も惜しんだといった様子で、マントだけでその身体を隠していた。
呆気にとられているのは俺だけじゃなく、ピピンやボロミアも同じだった。そして例外なくも。
お互い、ポカンとしていた。そして、
「えーと」、と比較的冷静に、且つ早く我に返ったのは彼女の方だった。
「……どういう状況ですか、これ」
の言い分はもっともだ。
尻もちをついたままのボロミアに、その口を塞いでる俺やピピンを見ればそうも言いたくなるだろうが、それを説明するわけにもいかない。
……そう言えば、ボロミアの口を塞いだままだった。
そう気付いて手を離してみるけれど、向こうはもはや俺の方には意識が向いていないみたいだった。
解放されたことにも気付かないまま口を魚みたいにパクパクさせるばかりだ。何か言おうにも言葉が出てこないらしい。
気持ちはわかる。
明るいところで見たなら、きっとその顔は真っ赤になってることだろう。
「……な、な、な」、ようやく出てきた声もほとんど意味を為さない。
「なんて格好だ」とでも言いたかったのかもだが、形にならないようだった。
「だ、だってーーー!」
しかし言いたいことは伝わったようで、は困ったように眉尻を下げる。
マントの下に覗いている手脚が、夕闇の中で白く光ってみえた。
「声を掛けてもちゃんとしたお返事がなかったので、その、ボロミアさんに限ってとは思ったんですけどっ、まさかの敵襲? とか、もしかしてバックアタックされてるんじゃないかと思ったら、もう気が気でなくてですねっ」
「し、……しかしだな!!」
「わたしがどうこうよりボロミアさんの命でしょう!?」
互いに困った顔で言い合っていたけれど、一瞬の沈黙があった。
気付けば、俺は身体ごとくるりと反転させられていた。ピピンも同じ。
ボロミアが首根っこを掴んでそうしたらしい。自身もに背を向けると、
「早く戻って服を着てくれ」とだけ伝える。
それに返事をして遠ざかっていく彼女の足音も、すぐに聞こえなくなった。
再びの沈黙が俺たちの間を通り抜けていったかと思うと、
「「!!」」
声も出なかった。
ボロミアの拳骨が俺とピピンの頭の上に落ちていたので。
頭を抱え痛みに悶絶する中、何処かでフクロウか何かが鳴くホーホーという声が響いていた。
ちょっとした紆余曲折はあったが、まあ、一応目的は達成できた。
ただ、思い返せばやっぱり変だ。
あの夜のは確かに湯を浴びてたみたいだった。髪もすっかりびしょ濡れだったしな。
でも、……それならどうして、他の時はそう見えないんだ?
それは改めてちょっとした疑問として俺の中に燻っていたけれど、それを確かめることは叶わなかった。
何しろ、その時からの水浴び中の見張りをするのは俺とピピン、そしてボロミアの三人ですることにいつの間にか決まってしまっていたので。
まあ、それは仕方ない。いいことにしよう。
相変わらず、不思議と朝を迎えた時がは一番きれいな気がする。
朝の時間の合間、ふと彼女の傍を通った時、微かに何かが鼻腔をくすぐってくる。
石けんみたいないい香りがする。そんな気がした。
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