不意に、風の流れが変わったような気がした。
頭上を見上げる。
ファルコンの旋回のせいだろうか、それとも何処か他に原因があるのだろうか。
今まで方向も定まらずに荒れていた風がほんの一刹那止まり、また吹き始めた。今度はある一定の向きに。それが何を意味するのかわたしには判らなかった。
今まで生暖かさを孕んでいたそれは流れの変化とともに幾分温度を下げたらしく、頬に涼しさともいえるものを感じた。
上空では雲をバックに砂礫が散っている。
砂が舞うというと黄砂のようなイメージがあったけれど、しかし今の其れはそうではなかった。
陽の光を反射し煌めいていて、金色のダイヤモンドダストみたいだなぁととても平和なことを思い、同時に、これは今しか見られないだろうな、とも思った。滅多に遭遇することの出来ない貴重な現象。
もしかしたら、此れを見られるのは後にも先にも今この場に居る自分達だけかもしれない、そう考えると何だか嬉しくなる。
しばらく上の様子を眺めた後、ゆっくりと首を元に戻す。
しかし目線を下げてしまうと、周囲はお馴染みの景色に戻ってしまった。
塔は、全員でファルコンへと足早に駆けていた時より更にひどい事になっている。
ひび割れ陥没した地面、崩れた土砂、粉々の金属片、褪せた色の建物の一部、原型を留めていなくて何だかよく判らないものの残骸――。
何が何やらといった感じは、とにかくひどかった。
おおよそ、ロマンの欠片も微塵にすら感じられない。
そりゃあまあ贅沢は言わないけれど、でも出来る事なら、この人と居る時間だけでももっとマシな状態であってくれれば良かったのになぁ、などと思わないでもない。
せめてもうちょっと、ほんの一握りくらいのいい雰囲気のムードを醸し出して欲しかった。
無理を言っているのは自分でもよく判ってはいたけれど、まあとにかく。
少なくともこの辺りでは一番汚れていなそうな岩場の上に座り込んだわたしは、直ぐ目の前を見た。
その人もまた腰を下ろしたまま、わたしを見ている。
深遠なグリーンが宿る瞳が真っ直ぐこちらに向けられている。
「どうして来たんだ」
責めるでも詰問でもなく、しかしあまりに静かな口調で彼は言った。
状況から考えればとても似つかわしくない静けさだった。
今も降ってくる瓦礫が音を立て、地響きの轟きが続いている。
飛空艇のエンジン音だって空を騒がせていて、一帯には嵐のような潮騒が満ちているというのに。
けれど何故か、わたしも其れに合わせて静かな返事をしようという気分だった。
口を開こうとして、少し、どんな言葉を返すべきだろうと考えてしまう。
此処は重要な一言だ、聞いた相手が感動で打ち震えるような気の利いたセリフを是非とも投げつけてやりたい。
そんなふうに思いながら考えてはみたけれど、しかしなかなかコレというものが浮かばなかった。
黒布と鉢金の間に覗く目が、さっきの言葉と同じくらいの静謐さを湛えたままこちらに向けられ続けている。
「……来たかったから、です」
ここぞという時、人というのはつまらない事しか口に出来ない。それとも其れはわたしだけなんだろうか。
(ああ、微妙な答えになってしまった)、そう思っていたらシャドウさんは目を伏せ、ある特定の所作をした。
何度か見た事のある仕草にわたしは口を尖らせた。
「あー。ちょっとシャドウさん、今溜め息つきましたね? 何ですか、普通ここはアレでしょう、 『 感動の再会が今ここに! 』 みたいな感じでこの辺にこーんなふうにテロップ入るようなシーンだってのに、なのに何で此処で溜め息なんですかー! もっと空気読んでください空気」
「…………」
「というのはまあ、冗談として。じゃあ、今度はわたしの方からお聞きしますが」
わたしは直ぐに真顔に戻った。続けた。
「――シャドウさんは、飛空艇、乗らないんですか」
言ったその直後、何処からか幾分派手な振動音のようなものが響く。
少し離れた場所でガタクタの山がまた崩れでもしたのかもしれない。わたしは気にせずに、向こうの返事を黙って待った。
反応は思ったよりも早かった。直接的な返事ではなかったが。
「おまえは行け」
「えー」
「………今ならまだ間に合う」
「どうでしょう。ファルコンはかなり厳しいみたいでしたし、ティナだって辛そうでしたよ。たぶん、どっちも、このまま皆を乗せて脱出するだけの力しか残ってないかもしれません」
「だが」
「――まあ、シャドウさんが本気出して此処から出ようとすれば、その限りではないかもしれませんけど」
其処まで言うと、彼は沈黙した。
実際、シャドウさんが本当にこの場所から脱出しようとしたなら、たぶんまだ何とかなるような気がしていた。ただ其れを本人が望むかどうかというだけの話であって。
それに元々、わたしは一人で戻るつもりも毛頭なかった。
わたしは改めて彼を見て、その肩に傷があるのを認めた。わたしと離れてからの間に負ったものだろうか。
手を伸ばして、その箇所に回復魔法を施す。
ケアルラのつもりだった、幾らか出血していたのが止まったようだった。
けれどその効力は、ケアルの半分程もないような感じがした。
自分でもとても心許なく、弱々しいものだと思った。
わたしはいよいよ世界から「魔法」というものが消えるのだという事を知った。
さっき飛空艇から空中ダイブした時はその力のおかげで、そしてシャドウさんがわたしを受け止めてくれた事で怪我ひとつなくこの場所に降り立つ事が出来たけれども、もうわたし自身にはこれから何が起ころうとも為す術がない。
……ティナは、大丈夫だろうか。この世界から幻獣と魔法が消えれば、彼女は。
わたしはちらっと、ティナの事を考えた。
どうか無事に、その存在を新たな世界に残してほしい。わたしはそう願った。
一陣、砂煙のようなものが空気をさらっていく。
パラパラと降る細かな砂粒をやり過ごす。
あまりに非現実的な周囲の状況、騒がしい喧噪の中、ただ、陽の光の粒だけが音もなく降り注いでいる。
相も変わらず、彼はとても静かだった。
わたしも少し、沈黙した。
もう、残された時間は少ないのだと判っていた。
けれどこうして、シャドウさんと話をする時間を持てたのは良かった。
そうでなかったら、わたしは永遠に彼を失っていただろうから。
「…………」
「……どうしたんですか」
ふと、シャドウさんが口を開きかけて、それを噤んだように感じた。
口元は覆面で見えなかったけれど、微かにその気配があった。
わたしが黙って首を傾げると、少しの間の後、彼は立ち上がった。
「飛空艇まで、おまえを届ける」
「……でも、シャドウさんは、乗らないんですよね」
「すまない」
彼はぽつりと、ひどく短くそう口にする。すまないと。
ファルコン上でわたしが見た、自分の想像の彼と全く同じ表情と声色で。
わたしは首を振って、ファルコンには戻らない事を伝えた。シャドウさんはまたさっきと同じような、溜め息に似た素振りをする。
わたしはそんなシャドウさんを見ながら、彼を訝った。
この人をこうまでして束縛するものは一体何なのだろうか。今までにも何度なく思ったことを、また考えてしまう。
そしてそれは、シャドウさんの望む行動によって解放されるものなのだろうか。
それとも或いは、それは――。
「シャドウさんにとって」
わたしも彼に倣って立ち上がり、ゆっくりと、音を辿った。
口に出してから、その後半を言うのにほんの少し躊躇した。
けれど彼はこちらを見て、言葉の一つ一つを聞き届けてくれている。わたしは意を決した。続けた。
「シャドウさんにとって、生きることは苦しいことですか」
「生きることではない。――逃げ続けることが、苦しかった」
シャドウさんは、そう言った。言葉の中に含まれた感情の色を灯らせた目が、薄く伏せられている。
ああ。とわたしは思う。
……そう云う事だったんだ。
わたしには何も判らない事に変わりはなかったのに、しかし、不思議なことに、妙にその言葉に納得してしまっていた。わたしにはもう、それ以上は必要なかった。
わたしの中に有った「どうやって彼をファルコンまで引き摺って帰ろうか」等という考えは、もうとうに姿を消していた。
シャドウさんがそうする事を望むのなら、わたしは何も言うまいと思った。
彼の決断を、一体誰が捻じ曲げる事が出来るというのだ。
ましてやわたしなんかに、その権利など当然ながら与えられていない。わたしには、何も出来ないのだ。
けれど、とも思う。
けれど彼は、シャドウさんは、本当に其れを心の底から望んでいるのだろうか。
何時だって痛みや苦しみを甘んじて受け入れていた彼だったけど、それらから解放されて生きていく事を思い描いた事は一度もないんだろうか。
これからの新たな時代を、新たに生きる事を願った事が一度もないんだろうか。
生きたいと思った事が、たった一瞬だって望んだ事が、本当にシャドウさんにはないんだろうか──?
「……シャドウさんは、こうする事を、本当に望んでいるんですか?」
「ああ」
嘘だ……。
わたしはそう思ってしまった。
其れは、わたしがシャドウさんに生きていて欲しいと思っているからだろうか。
それでも、わたしには 『 嘘 』 に思えて仕方なかった。
いつもその黒衣の中に自分を隠し続けてきた彼は、実は気付いていないのではないだろうか。
自分がどうしたいのかを本当は判っていて、しかし自分を殺し続けてきたシャドウさんは、その自分のことに自ら気付いていないのではないだろうか。
わたしには、どうする事が正しいのか判らなかった。
今自分が何をすれば、シャドウさんを助ける事が出来るだろう。
本当のシャドウさんは、今何を望んでいるのだろう。本当の彼は、一体、何処に居るんだろう――?
わたしは手を伸ばすと、シャドウさんの顔に触れた。覆面に手を掛けても彼は抵抗しなかった。
ほんの幾ばくか前に目にしたばかりの、シャドウさんの顔が光の下に晒される。
――大丈夫だ、と思った。本当の彼はちゃんと此処に居る。
「……じゃあ、まあ、ここまで来てしまった事ですし。最後までお付き合いしましょうか、わたしも」
極めて普段と変わらない調子の声が出た。自分でも場違いだな、と思った。
シャドウさんの表情の変化は思った通りのものだった、しかも顔を覆う布がない分、いつもより見ていて面白かった。
彼が何を言うのかも予想はついている。それでも、自分がどうしたいのかを知ったわたしは、それを止めるつもりもなかった。
大丈夫だ、と思った。わたしはシャドウさんを失わない。
わたしは彼に、後もう一度だけ訊こうと思っていた。
本当のシャドウさんがどうしたいのかを、もう一度だけ訊ねよう。
もし 『 生きたい 』 と願ってくれたら、勿論嬉しい。
もし、そうでなかったとしたら……、そうならそれで、わたしも此処に留まろう。
誰に何を言われる筋合いでもない。
シャドウさん自身が考え、下した決断だ。わたしは彼の意思を尊重したい。そして其れを見届けよう。
彼が自分のしたいようにするように、わたしもやりたいようにするだけだ。
思う反面、シャドウさんに少し申し訳ないとも思った。
わたしが今ここに居る事は、きっと彼にとって重荷となるだろう。シャドウさんはわたしがこうする事を許さないかもしれない。許して欲しいとも思わないけれど。
わたしの意思などがシャドウさんには関係ないもののように、シャドウさんの意思も今のわたしの前には意味を為さない。わたしはただ、こうしたいのだ。
それに、別に心中とか、そんな大仰なものでも何でもなかった。
わたしは、この世界が再生し生まれ変わって新たな次代へと引き継がれるその瞬間を、シャドウさんと共に迎えたい。
ただ、それだけのことなのだ。
わたしはシャドウさんに訊こうとするその前に、何だか言っておきたくなって、彼の名を呼んだ。
何かを言おうとして開きかけていた口元が閉じられ、そのままで彼はわたしを見下ろした。
今なお光降る空の色が、白く輝く気配を辺りに散らしていく。
わたしやシャドウさんにも、この大地のすべての存在に分け隔てなく。
世界というものの、なんて光に満ちているんだろう。
シャドウさん、ともう一度呼び、わたしは言った。
「わたしは、この世界にシャドウさんが存在していてくれて嬉しいです」
わたしはこの世界に来れて良かった。そう告げるとシャドウさんはその腕を伸ばした。
いつだったかのように背中に両腕を回してくれるのを、そしてシャドウさんの身体の温度を感じながら思う。
わたしはシャドウさんに出会えて、本当に良かった。
ほんの数瞬の安らぎの後、わたしは、彼にもう一度訊ねた。
もう、塔の崩壊は終幕を迎えようとしていた。
盛大な音量が唸り上がり、いよいよ塔は崩れ落ちる。
その中に居て、しかし、またこの娘と歩きたいと思った。
今までのような荒れ果てた大地などではなく、色鮮やかな世界が彼女には似合うだろう。
俺は顔を隠さない。インターセプターが足もとに擦り寄ってくる。
前方を赤い帽子の少女が行き、大きな声でこちらを急かす。
自分には似つかわしくない想像が、しかし目に見えるように自分の中で再生された。
それは、もう手にする事のないはずのものだった。
しかしそれは、指を伸ばしたならこの手に掴むことが出来るだろうか。そうする事が俺には許されるのだろうか。そうする事を、望んでいいのだろうか。
考える。今までの自分を、今の自分を、そしてこれからの自分を。
今まで未来など思い描くという事を考えた事もなかった。
あるとすれば、其れはいつこの修羅の道の途中でこの身が朽ち果てるだろうという想像ばかりだった。
暗殺者に、未来などない。過去もない。そう言い聞かせてきた日々を思い返す。
そうした時間すら、もう終わったのだ。そのことを俺は知った。
俺に残されたのは、後は選択だけだった。
腕の中の体温が、確かな存在を伝えてくる。
射し込んでくる陽の光だけが、音もなくただ静かに辺りを包んでいる。
眩しくて仕方がなかったそれを、今なら、受け入れることが出来るようにも思えた。
俺は、の耳元に口を寄せ、答えを告げた。
光は今も、なお、音もなく。
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