絶叫、嗚咽、啜り泣く声。
辺り一面を、それらが覆い尽くしている。
湖の町はほぼ壊滅状態に陥っていた。夜のうちに、ドラゴンが町を襲ったのだ。
……スマウグと呼ばれる其れは、しかしバルドさんに倒された。
既に炎に焼かれていた町は、射られて落ちてきたドラゴンに止めを刺されるかのように原型を留めず、命からがら逃げ出した人々が今、こうして岸に這い上がっている。
力なく項垂れる人、動かない誰かを必死に運び出そうとする人。家族の名を叫びながら走る人、今なお船を漕ぎこちらを目指す人、冷たい湖に入りその手を誰かに伸ばそうとする人――。
阿鼻叫喚。
そんな字面が浮かんだけれど、果たしてこの状況を、こんなたった四文字の言葉で済ませてしまっていいものだろうか。
幸いわたし達は、誰一人欠けることなく生き延びられた。
毒に苛まれていたキーリさんも、アセラスの効果あって今は顔色も回復している。
けれど、ビルボさんやトーリンさんらはどうなったのだろう?
彼らはスマウグ退治に山へ向かい、その際にわたしはキーリさんらと共に町に残ったのだ。
……ビルボさん達はつまり、どうなったと考えるべきなのだろう?
「、行こう」
言われて振り返れば、既にフィーリさん達は船を出そうとしていた。
町の人達が岸に上がろうとするのとは逆に、湖の先、あの山へと向かおうとしている。
一瞬、戸惑った。
バルドさんと、その息子さんが見当たらなかった。
そして一緒に逃げ出してきた娘さんが、必死になってその名を呼んで探している最中でもあったので。
……夜のうちに目にした光景を思い出す。
遠目にもドラゴンを射抜いた姿、あれは、確かにバルドさんだった。
あれ程の人物だ、きっと生きている。ただ、その無事も確認しないままにいなくなるのは気が引けた。
ましてや、この惨状の最中、町の人達を置いていく事にも。
けれどわたし達が残ったところで、どれ程の助けにもならないだろう事もわかっていた。
故に、フィーリさん達は進むことを決めたのだろう。
わたしはビルボさん達のことをもう一度考えた。
……彼らは果たして、無事でいるだろうか。
思うけれど、ビルボさんに限っては大丈夫だろうという確信があった。
何故って、彼とは六十年後に会っているからだ。無事でなければ歴史がおかしい事になる。
わたしが存在する事で、多少の変化はあるかもしれない。でも大きく変わるとも思えなかった。わたしは大人しく此処に居たのだから。
しかし、ビルボさん以外のドワーフについては分からない。そして彼らは仲間だった。
……あの山へ向かう以外に、道はないようだった。
ふと気付けば、キーリさんがエルフの女性と言葉を交わしていた。
レゴラスさんと行動を共にしていたエルフだ。
そして彼女は、アセラスの癒しをキーリさんに施してくれた張本人でもある。
彼女はわたし達と仲間というわけではなかった。
けれどキーリさんを助けてくれたし、炎に巻かれる町から脱する時も協力してくれた。
せめて彼女にくらい礼と別れを告げておきたいと思ったものの、キーリさんとの間に何とも邪魔し難い空気があった。
どうしよう。
きょろきょろとわたしはキーリさんを、そしてフィーリさんらの方とを交互に見やった。
ギョッとした。
二度目にキーリさんの方向を見れば、その後方にレゴラスさんが仏頂面で立っていたのだ。
相変わらずというのか、わたしの記憶にあるレゴラスさんとは少し違うように思える。
……エルフにとっても、六十年という年月は人格を変えるのだろうか。
わたしの知るレゴラスさんは確かにたまに尖がる事もあったけれども、今目の前にいる彼は完全に切れるナイフである。
「お嬢さん」
船を押しながらこちらを振り返っているボフールさんの声があった。
「乗りな、もう出るぜ!」
「わっ、ま、待ってください!」
もう半分方湖に船体が出ていて、わたしは慌てて駆けて乗せてもらった。
慌ただしい出立だった。
誰にも礼も別れも告げず、そして多くの未練と不安を残しながら、わたし達はかつて町が存在した場所を後にした。
山は、驚くほど静かだった。
死に物狂いで炎の中を逃げ延びた昨夜の出来事とはまるで真逆で、時間が止まっているかのようだ。
けれど振り返れば、未だに煙が上がる町の跡が眼下にある。
ドワーフの皆もそれなりに疲労の色があった。
とはいえ、フィーリさんにキーリさん、ボフールさんとオインさんの四人足す事のわたしなので、少人数なりの気楽さがあった。
互いに歩みの速度を確かめながら、山の上にそびえ立つ大きな建物を目指した。
あれこそがエレボールと呼ばれる、かつてのドワーフの王国なのだとフィーリさんが教えてくれた。
「伯父上……トーリンからこの山の物語を聞いて俺たちは育ってきたんだ」
「…………」
「やっとこの目で見られる。語り継がれてきたドワーフの宮殿を」
フィーリさんとキーリさんは兄弟であり、トーリンさんの甥だという。
そう詳しくは聞いていないけれど、となれば王位継承者でもあるのだろう。
スマウグ退治に向かおうとするトーリンさんに、町に残るよう言われた時のキーリさんの表情を思い出す。
二人にとっても相当の思い入れがあるらしく、本当ならば今すぐにでも駆けていきたいというような気配があった。
けれどキーリさんは病み上がりだ、このまま焦らずに進めばいい。
この時まではそんなふうに思っていた。
ところがである。
やっとの事で宮殿と思しき建物に辿り着き、中へと歩みを進めたならば奥から慌てた様子で出迎えてくれたのはビルボさんだった。
良かった、やっぱり無事だった。
そう思ったのも束の間、
「待った!! ……待って、止まれ! 止まって、止まれ!」
わたわたと走ってきてわたし達の前まで来て止まると、再会を喜ぶ間もなく
「引き返すんだ、この山に居てはいけない!」
なんて言い出したのだ。
ビルボさんの泡を食ったような様子に、こちらの方こそ面食らった。
「着いたばかりだぜ!?」
「説得したが耳を貸さない!」
「説得って誰を」
「トーリンだ!!」
ああもう、とでも言いそうな勢いでビルボさんは捲し立てる。
何でも、本来のトーリンさんではなくなっているという。
眠りにもつかず食べ物も食べない。それというのは、この場所のせいだと彼は言う。
悪い病の源が此処にはあるのだと。
……必死の説明すぎて、正直なところ要領を得ない。
けれどとにかく、ビルボさんはわたし達をこの先に行かせたくないらしい。
そう感じ始めていた矢先の事だった。
「! フィーリ!!」
徐に、フィーリさんが動いていた。
何かに興味を引かれたかのように、階段を駆け下っていく。
何度もビルボさんが呼ぶけれども、フィーリさんの足は止まらない。
それを止めようとしてか、或いはそれに続こうとしてか、皆がフィーリさんの後を追う形になった。
走って走って走って、止まった。
宮殿の道は、下へと下る階段に続いていた。
ぽっかりととても大きく開けた空間、その一面に輝くものが一瞬何かわからなかった。
砂のように隆起の広がる黄金色は、どうやら見た目そのままの金らしい。その中をゆっくり歩く人物が、何か独り言らしいものを呟いている。
「金だ……計り知れぬ量の…………我らの嘆きを……和らげる…………」
ゾッとした。
不意に顔を上げたその人は確かにトーリンさんの筈なのに、まるで違う誰かのようだ。
皆が、絶句していた。
言葉が出てこない。
……この姿を、ビルボさんは見せたくなかったのだろう。特に、フィーリさんとキーリさんには。
「ようこそ、妹の子らよ。我が王国エレボールへ」
そう呼びかけられてもなお、フィーリさんとキーリさんは何も言わずにただ立ち尽くしていた。
ビルボさんは腰を下ろしたまま、ずっと黙ったままでいる。
わたしも近くに同じ格好で座り、ジリジリと時を過ごしていた。
他のドワーフの皆も何とか無事だったようで、ひとまずは再会を互いに喜んだ。
けれど、トーリンさんのあの様子には、バーリンさん達を始め皆が不安を隠しきれない様子だった。
明らかに、以前の彼とは違う。
まだ旅を共にして日が浅いわたしですらそう思うのだから、ドワーフの皆からすれば不安はもっと大きいだろう。それに。
わたしはビルボさんを見た。
ビルボさんは、トーリンさんと大きく友好を深めている存在だった。
彼にとっても、今の状況は辛いのに違いない。
……ドワーフの皆は、あの黄金の中で一つの石を探している。
アーケン石という其れは、スマウグに奪われた財宝のひとつなのだという。
その石を持つ者こそドワーフの王と見なされるらしく、トーリンさんが命じて総出で探しているらしい。
「……バーリンが」、
ふと、ビルボさんが声を発した。
言ってしまってから、続きを言っていいものかと迷うような間があった。それでもわたしの方を見て、言葉は続いた。
「バーリンが言ってたんだ。トーリンは竜の病だって」
「竜の……?」
「……今のトーリンを見ればわかるだろう?」
あまり口に出して言いたくはないのだろう、ビルボさんはそう濁した。
そしてそれは、十分にわかる事だった。
猜疑心に満ち溢れ、黄金への欲に塗れた姿は病といって差し支えないだろう。
「アーケン石をもしトーリンが見つけたら、病気は治るかって訊いたんだ」
「……どうでした?」
「悪くなるだろうって……」
消沈したようにビルボさんは言う。
そんな感じはする。そう思った。
自ら欲するものを手に入れれば、さらに欲望は増幅するような気がしてならない。
これだけ広大な宮殿の中、金に埋もれ何処にあるかもわからない石を探すだなんてすぐに出来る事でもない。
見つからないならそのままでいいのかもしれない。
……いつか見つかったとしても、隠しておいた方がいいのかもしれない。トーリンさんのためには。
「」
呼ばれて見れば、ビルボさんの表情は悲痛の色が滲んでいた。
それが本当にトーリンさんの事を思ってのことなのだと思うと、此方も胸が痛んだ。
「例えば……君がもしアーケン石を見つけたなら、どうしたらいいと思う……?」
「……今のトーリンさんには見つけられない所に隠しておいた方がいいと思います」
「そうか。……うん、そうかもしれない」
何度か小さく肯くと、ビルボさんはちらっと笑んだ。
ひどく痛々しい微笑みだった。
……わたしは、ほんの僅かな間とはいえ自分自身を見失ってしまった人を、知っている。
支えたいのに、どうする事も出来ないことの辛さも痛いほど覚えている。
この物語がどう終幕を迎えるのかはわからないけれど、少しでも多くの人が救われてほしい。
今はただ、そう思った。
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