ボフールさんと共に、足早に道を抜ける。
辺りのおかしな気配は、やっぱり気のせいではなかった。
屋根の上や角の先のあちらこちらに、何体ものオークの姿があった。
けれど何故か、町から引き上げるかのように向こうはそそくさと失せていく。どういう状況なのか、判断しかねた。

(町中にオークが現れるなんて)

異常事態としか言いようがない。
RPGのゲームだったら、特別なイベントでしか起こらないような状況だ。
とにかく、バルドさんの家に戻らなければ。
そう思いながら走るうちに、オークでも人間でもない誰かの姿が視界に入った。
薄暗い夜の中で、それでも一目で分かった。長い金髪、長身でありながら猫のように軽快な身のこなしのエルフが町を駆けていく。

「レ……!」

呼び掛けて、止める。
どう見てもそれはレゴラスさんだったけれど、今の彼とは何も話せそうにない。
どうしてここに、と思わないでもなかった。けれど、それは今は分かるまい。
大丈夫、ホビットの冒険の映画が公開されれば(こういう事情だったんだ)と理解できるだろう。
オークを追っているのか、既にその姿は見えなくなっていた。……今は、わたし達はキーリさんの手当てを優先しよう。

バルドさんの家の階段を上がりきるというところで、ふと先を行くボフールさんの足が止まった。
すらりとした背の、一人の女性が立っている。尖った耳はエルフのもので、赤にも近い髪の色、その顔立ちには見覚えがあった。
レゴラスさんと行動していた、闇の森のエルフ。
彼女は息を呑んで、ボフールさんの持っていたアセラスをそっと手に取った。戸惑ったようにボフールさんが言う。

「……どうするんだよ?」
「彼を救うのよ」
「アセラスを扱えるんですか」

思わず訊ねてしまう。
エルフの彼女であれば、もしかしたらと思う。
向こうは何かを決断するかのように、力強く肯いた。



キーリさんの表情は、ひどく穏やかだ。
顔色は見違えるようだった。流石に全快とまでは言わないけれど、目に見えて症状が良くなっているのが素人目にも分かる。
皆が安堵していた。
フィーリさんはもちろん、オインさんはエルフの治癒の力に感嘆しているみたいだった。ボフールさんはただただホッとした顔をしている。

あのエルフの女性が手助けをしてくれていなかったら、どうなっていただろう。
ふとそう思う。
そもそも彼女は、原作には登場するのだろうか?
レゴラスさん自体が登場しないはずだから、もしかしたら彼女も同じなのかもしれない。

見れば、今なお横になっているキーリさんと彼女は、何か言葉を交わしているようだった。
内容までは聞き取れなかったけれど、ぽつりとキーリさんが「タウリエル」、と口にしたのだけは聞き取れた。
それが、彼女の名前だろうか。
ドワーフとエルフの二人だったけれど、そこには何かあたたかいものを感じる。

「…………?」

ふと、嫌な感覚があった。
町全体の空気が揺さぶられるような、変な感じだった。
わたしの言葉で言うなら、地震の直前にくる地響きみたいな不穏な感じ。けれど明らかにそれとも違う――なんだろう?
他の皆も感じ取ったようで、互いに顔を見合わせている。
ハッとしたように、エルフの女性が扉の方向を振り返った。足早に戸を開け外を窺っていたかと思えば、すぐに彼女は戻ってきた。

「時間がない、すぐに出ないと」
「僕らは残る、父さんを置いてはいけない!」

バルドさんの息子さんが言う。
わたしはその時になって、初めてバルドさんがこの場にいないことに気がついた。
何しろ、キーリさんの治療にかかりきりだったので。毒に冒されて暴れる彼を、ほとんど全員がかりで押さえなければならないほどだった。
それはそうと、アセラスを探しに出たほんの数十分前にはバルドさんはいたはずだ。
彼は今、何処にいるんだろう?

「残れば妹さん達は死ぬのよ」

お父様がそれを望む?
エルフの女性の言葉は確かにその通りだ。
しかしそれより、何が起きようとしているんだろう?

「あの、何が起きようとしているんですか……?」

答えを期待してはいなかった。
不穏な空気、とにかく今はここを出なければいけない――それだけは分かる。
ただ、自分たちが今、何を回避しなければいけないのか。その元凶がよく分からない。
想像に反して、エルフの女性は明朗な答えを返してくれた。

「竜がやってくるわ」
「えっ」

理解するのに数秒を要した。
それはつまり、ビルボさんやトーリンさんが向かった先のボス、ということだろう。
スマウグ、だったろうか。……そのボスが、どうして町の方にやってくるのか?
わたしはこの時、竜がラスボスだと思っていた。だから
(ラスボスがこっち来たら駄目じゃん!)と咄嗟に思ってしまった。

「さあ急いで、早く!」

急かされるままに、皆で家を出て次々に舟に乗る。
既に、町は大騒ぎになっていた。誰もが異変に気付き始めたらしい。
どの人も慌てた様子で舟へと乗り込み、脱出を始めている。
わたしはその中で、ストーリーが合ってるのか心配していた。本当にこれで大丈夫なんだろうか?
夜空には雲が浮かび、その向こうに白い月が佇んでいる。
後方から、突風が轟いた。すごい速さで空を横切っていくのは正真正銘、ドラゴンだった。

見る見るうちに、町が火に包まれていく。
炎が一面に染まりゆく中、どうにか隙間を縫うように舟は進んでいった。途中、大きな舟にぶつかりもしたけれど、何とか全員無事でいられた。
辺りはもう、パニック映画さながらの大混乱だ。
黒煙が上がり、火の粉が舞う。人々の悲鳴と絶叫が飛び交う中でその声は上がった。

「父さん!」

ハッとする。
見上げた先には鐘塔があって、その鐘の下で弓矢を構えているのは確かにバルドさんだった。
竜に向かって矢を射るその姿は、わたしの中の記憶に何か引っかかった。

「当たったぞ! ドラゴンに矢を当てた!」
「無駄よ」
「見たんだ! 確かに命中した!!」
「矢ではあいつの鱗を射抜けない。……どんな武器でも」

キーリさんが興奮して声高に叫ぶけれど、エルフの女性は静かな声色で落ち着かせるように言う。
急に立ち上がって、吊り下がっていたフックを使って舟を飛び出していったのはバルドさんの息子さんだ。
皆が慌てて彼を呼び、戻ってくるように口々に叫ぶ。
けれど、もう戻ってこれないのは明白だった。舟は進み続けている。

(!)

そんな中、頭の中に浮かんだのは持っている文庫版の原作、その下巻だった。
表紙に描かれているのはドラゴンで、炎の上がる町を舞台に矢を射られている構図だった。手前には、その矢の主と思しき人物の姿もある。
今、遠目ながらもほとんど同じ場面があった。表紙のあれは、バルドさんが竜を倒すシーンだったのだ。
ストーリーは合っている。一瞬の安堵があった。本当に一瞬の安堵が。

辺りはもう、惨事としか言いようのない有様だった。
火の手があちこちから迫っていた。悲鳴と怒号、湖の水に落ちてもがく人達、水面から助けを求めて突き出される誰かの手。
どうすることもできなかった。
半ば壊滅しかけている町から、わたし達も脱出するしかない。
振り返ってバルドさんのいる鐘塔を見れば、彼のいる場所から放たれたものが黒く光って見えた。

「ああっ」

叫んだ声は、誰のものかも分からない。
ただ、直後に滅茶苦茶な軌跡を描きながら宙を舞うドラゴンの姿があった。
もがき苦しむような奇声を上げながら空高く昇っていったかと思えば、体内に灯っていた炎の色が静かに消えた。
見えたのは、そこまでだった。
堕ちてくるスマウグから少しでも離れるために、皆で必死に舟を漕がなければならなかった。






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