目を開ける。ゆっくりと。
見慣れた天井は袋小路屋敷のもので、一瞬息が止まりそうになる。
僕は……、僕はどうしたんだっけ。
どうして家にいるんだろう。
あれからどうなったんだ? トーリンは、ドワーフの皆は、ガンダルフは? ……は?
回らない頭で思い巡らせる。
けれど要領を得なくて、半身を起こした。
ベッド下の床に足を下ろす。家の空気はあたたかくて、誰かの気配があった。
「おはようございます、ビルボさん」
「…………」
キッチンに向かえば彼女がそこにいて、僕は立ち尽くす。
既に食事の用意は終わっていて、はスプーンとフォークを並べているところだった。
「丁度いま、準備できて呼びに行こうと思ってたんですよ」
「ああ……ありがとう。……その」
「はい?」
「……いや、寝ぼけてるのかな。その、変なこと聞くんだけど」
「?」
「……あれから、どうなったんだっけ」
「あれから?」
「……ドワーフの皆と旅に出たろう? 僕たちは……どうなったんだっけ」
どうしても思い出せない。
僕は彼女に、恐る恐るそう訊ねる。
は少しだけキョトンとしていたけれど、すぐにいつもの微笑みを浮かべた。
「わたし達、一緒に帰ってきたじゃないですか」
「そうか。……そう、そうだね」
「ガンダルフさんは、何処か行っちゃいましたけど。きっとまたひょっこり現れると思いますよ、魔法使いですし」
「うん」
「それに、ほら。……ドワーフの皆とも、ちゃんとお別れしてきたじゃないですか」
「……そうだったかな」
「ビルボさん、本当に寝ぼけちゃってます?」
彼女は言いながら、傍らの棚の上からひょいと何かを取り上げた。
差し出してきたのは、封の切られた手紙のようだった。
見覚えのある印は、僕の記憶のどこかに確かにあるものだ。
「今日の夜、そのドワーフの皆が会いに来ることは、覚えてます?」
僕は手紙に目を落とし、彼女を見上げて、また手紙を見た。
中の便箋を広げれば、確かにそこには日時と用件が書いてあった。
ドワーフとホビット、そして人間。あの時の仲間で、また会おうと。
信じられないような気持ちでをもう一度仰げば、彼女は口の端を持ち上げて笑ってみせた。
市場に買い出しに出れば、村の皆が「は元気か」と訊いてくる。
一瞬、皆が彼女について知っていることを不思議に思う。
でもすぐに、ああ、と思う。
そうだ、村に戻ってきて、彼女のことを話したんだっけ。
大きな人の彼女。驚くかと思ったのに、村の皆は意外なほどあっさりと受け入れてくれた。
買い出しから戻れば、は大きな箱を手にしている。
見たことのない箱だ。どうしたんだろう。
「どうしたんだい、その箱は」
「アップルパイですよ。皆と食べようと思って、買ってきました! ここのお店の、美味しいんですよー」
「買ってきた? 何処で?」
「わたしの世界で……あれっ、言ってませんでしたっけ? わたし、別の世界の人だって」
「――何だって?」
「それで、ここと向こうと行ったり来たりできるんですよーって。前に言ったじゃないですか」
「…………そうだったかな」
「そうです!」
やだなあ、もう。
彼女が、何でもないことのように言う。
……そう言われると、そうだったような気もする。
なるほど、それなら彼女の見慣れない顔立ちや言動も、妙に納得できる。
内心肯いていると、ドンドンと扉をノックする音があった。
振り返れば、いつしか窓の外は暗がりに沈んでいる。
灯りの暖色が、煌々と屋敷の中を明るく照らしていた。
まるで……まるであの日みたいだ。
何の変哲もない一日、唐突に訊ねてきたガンダルフのことも心の中から追いやって、いつも通りに終わるだろうと思っていたあの日の夜。
ドアを開けて入ってきたのは、見覚えのある顔ばかりだ。
あっという間に屋敷の中はドワーフでごった返してしまう。
キーリとフィーリが挨拶もそこそこにテーブルを動かし、バーリンとドワーリンが食糧庫から次から次へと食べ物をリレーする。
受け取ったノーリとオーリがそれをバトンし、ドーリはお茶を淹れてくれる。
グローインとオインがテーブルの上にそれらを並べている間、ボフールがクラリネットを吹き、ボンブールがもう既に食べ始めているのを半目でビフールが見やっている。
最後に入ってきたのはトーリンだ。
こちらを見るその顔は、僕が知る彼そのままで、一点の曇りもない清々しい表情だった。
ああ、そう、そうだ。これが彼だ。
僕は心の中でそう呟く。
意固地で強情だけれど、仲間の絆を決して疑わない。そうだ、彼は全てに打ち勝ったんだ。
「どうした、ビルボ」
そう言ってトーリンの指が、僕の目元を拭う。
僕は、自分が涙をこぼしていることに気付いた。
止めようとも思わない。
だって、僕は嬉しいんだ。
嬉しくてたまらない。
「嬉しいんだ」
共に過ごした仲間と、こんなふうにまた過ごすことができたら。
そう願う。心の底から。
……これが、夢でなかったらどんなにか良かっただろう。
僕は目を閉じる。
世界は、静かに失せていった。
「ビルボさん」
掛けられた声。
目を開ければ、が僕をそっと窺っているみたいだった。
眉根が下がり、申し訳なさそうにこちらを見る。
「ごめんなさい、起こしちゃって」
「いや……寝過ごしちゃったのかな」
「疲れてるんだと思います。無理もないんですけど」
一度彼女は口を引き結んだ。
続けた。
「その……バルドさんが来てるみたいなんです」
「バルドが?」
は肯いて、「とにかく、行ってみましょう」と言う。
もう皆、集まってるみたいですから。
そう告げる彼女に肯き返して、その背の後についていく。
夢に見た世界とは違う、悪夢の続きが目の前にある。
バルドはどうするつもりなんだろう、今のトーリンと交渉をする気だろうか?
……それがどんな結果になるか、考えるだけで恐ろしかった。
ふと、目の前を行く背中を見上げる。
夢の中で、別の世界から来たのだと話してくれた彼女。
……それならそれで、構わない。何の問題もない。僕はそう思った。
ただ、あのしあわせな時間を、もう一度過ごしたい。
僕はそれを切に願った。
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