バルドさんとの交渉は決裂した。
ほんの少し離れた場所で、ドワーフの皆とビルボさん、足すことのわたしは息を詰めながら状況を見守っていた。
石壁のほんの小さな穴越しに、向こう側のバルドさんとやり取りをしていたトーリンさんの方から話を打ち切ったのだ。
彼らの話し声はそれなりに聞こえていて、だからこそ、わたしはトーリンさんの変わりように改めて唖然とする。

確かに、ドワーフだけあって相当な石頭だ。
意固地なところもあるし、正直言ってかなり取っ付きにくい――そんな最初の頃の印象は未だに残っている。
けれど、その分真っ直ぐだったように思う。
今ではすっかりビルボさんを信用しているように見えるし、仲間と認めた者を裏切ることなどないはずだ。
少なくとも、約束を違えるような人物ではない。……はずだった。

それが今は、どうだろう。
トーリンさんは平然とバルドさんを撥ね付け、町で交わした契約を反故にしたのだ。
しかも、割と言っていることがメチャクチャである。
わたしは心の中で頭を振った。
安っぽい、ひどく薄っぺらな言い方をすれば、トーリンさんのキャラがブレにブレまくっている。

(ストーリー、本当にこれで合ってるのかな……)

少し、そんな心配をする。
スマウグという竜は倒された。
わたしはてっきり、竜退治さえ終えればめでたしめでたし、ハッピーエンドだと思い込んでいたのだ。
ホビットの冒険はそう長くない物語だという触れ込みだった。
だから、もうじき物語は終わりを迎えるものだと思っていた。このエレボールに辿り着くまでは。
しかし今のところ、大団円を迎える気配なんてこれっぽっちもない。

けれど、ストーリーが本来の道筋から大きく逸脱しているとも思えなかった。
わたしはそもそも結末をまだ知らないし、干渉するようなこともしていないはずだ。
だとしたら、これで物語は合っているんだと思う。

原作の最後を、いっそもう先に読んでしまうべきだろうか?
向こうへ戻る度に読み進めてはいても、まとまった時間が取れずに細切れにしか進まない。
ようやく最近になって、ビヨルンさんと出会うところまで読み終えたところだ。
それにしたってページ数からすれば、もう相当後半の舞台には立っているだろう。
真ん中あたりは読み飛ばして、もうラストを見てしまった方がいいんだろうか?

思うけれども、やっぱりちゃんと読むべきだろうとも思う。
こちらはほぼ確実に映画の世界だ。
原作とでは異なる点もそれなりにある。順序立てて理解しておかないと、頭がこんがらがってしまうのがオチだろう。
せめて、こちらの世界で時間がある時にでも、読み進められればいいんだけど……。

(これから、どうなるんだろう……)

ドワーフの皆とビルボさんの仄暗い表情を窺いながら、わたしは一人、心の中で呟いた。
立ち込める冬の空気は冷たく、どこか淀んで濁っている。



皆が、戦の準備をしている。
ドワーフらしく、どの人も岩や石壁の扱いには手慣れているようだった。
わたしやビルボさんはといえば、そういう方面では役立ちそうもない。
せめて見張りくらいはしようと、二人でそっと壁際に身を潜めるようにしながらジリジリと時間を過ごしていた。

ビルボさんはずっと眉間にしわを刻んだままだ。
それもそのはず、ここからでも数えきれない程のエルフが向こうの建物に整然と立ち並んでいるのが分かる。
どう考えても負け戦だ。
それだというのに、ドワーフの皆は見たところ臆する様子もない。
ただ埋もれた壁を砕き、中から見つけ出した剣や鎧を磨いて、目の前の戦いに備えている。

原作は、少なくともわたしが読み進めたところまでは、指輪物語に比べれば大分明るい雰囲気のように思えていた。
……本当に、ここからハッピーエンドに行き着くんだろうか?
一体どうやって?

「……

不意に、何のきっかけもなくビルボさんがわたしを呼んだ。
その顔は何かを思い詰めているようなそれだったけれど、ひとまずは
「はい?」と返事をする。
けれど、彼は何かを言い掛けて口籠る。相談事だろうか。

大丈夫ですよ。少なくとも貴方はちゃんと家に帰れますから。
これから六十年はあのホビット庄の袋小路屋敷で、多少変わり者扱いされつつも平穏に暮らすはずですから。
……そんなことを軽々しく言えるわけもない。
もし言える状況だったとしても、彼の不安を払拭することはできない。
だってそういう心配はきっと、今の彼にとって取るに足りないことだろうから。
ビルボさんの今一番の気掛かり、それはきっとトーリンさんのことだろうというのは、見ているだけで充分分かる。

だからせめて、わたしは彼のことを待った。
何か話してくれることで気が楽になるなら聞こうと思うし、やっぱり話せないならそれでいい。
そう思って。

「…………いや、何でもない。ごめんよ」

迷った結果、話せない方に軍配が上がったらしい。
わたしは小さく肯いた。
そして目線を外に向けながら考える。

ビルボさんは既に、一つの指輪を手に入れている。
たくさんのゴブリン達が巣食うあの場所で離れ離れになった時に、彼はゴラムと出会ったのだ。
その部分を読んで、(思ったよりも早いうちに指輪を拾うんだな)と思いもした。
でも、確かにあの指輪があれば、旅中で相当役に立ったことだろう。
けれど、今この状況ではあれがあってもどうにもならない。……なら、他に何か打開する策ってあるものだろうか?

「大分見ているけど、動きはないね。……、ここは寒い。下で皆といよう」
「そうですね……そうしましょうか」

ビルボさんに促されて、わたし達は階段を下りることにした。
広く長い空間、音のする方向へ向かえば金属と金属の擦れる音や話し声が聞こえる。
階段を下りきってしまうと、外光は入ってこない。
暗がりの中、灯した火が煌々と光を放っていて、その向こうではドワーフの皆が武具を手入れしていた。
……二つの塔や王の帰還であった、大きな合戦直前の一幕。
ふと、あれらの場面が思い浮かんだ時だった。

「バギンズ殿。こちらへ」

独特の重々しい、トーリンさんの声が響いた。
見れば、通路の向こうで彼は何かを両手に掲げている。
わたしとビルボさんは互いを一瞬見合わせるも、ひとまず歩み寄った。
そして近付くにつれ、わたしはトーリンさんの持っているものが何なのかはっきりと分かって、思わずまじまじと見てしまった。

「ミスリル……先祖代々伝わる宝だ」

透けて見えるほど細やかな編み込みのその鎖かたびらは、フロドが身につけていたのと同じものだ。
ビルボさんから譲られ、そのためにフロドは死なずに済んでいる。
ガンダルフさん曰く、ホビット庄全部を合わせたよりも価値があるのだとも。
贈り物だと、トーリンさんは言う。
着るように言われ、それをすっぽりと被れば大きさはビルボさんにぴったりだった。

「友情の証に。……真の友は得難い」

そこまではずっとビルボさんを見て告げていたトーリンさんが、ふとこちらを見る。
殿」、というので、
「はい?」と内心の緊張を押し隠しながら答える。

「そなたは何色の石が好きだ?」
「…………えっ」
「青か緑か? ……それともその黒髪に映える白が良いか」
「えーっと、あのう……何の話、でしょう……?」

唐突に何を言い出すのだろう。
わたしが理解できずにやや面食らっていると、トーリンさんはふっと笑った。
何でもない時だったならば、どんなにかこちらの心は和んだだろう。
彼だって笑う時は何度もあった、けれどそれは仲間のドワーフへ向けてであり、今や信頼を寄せているビルボさんへのものだった。
それを、わたしにもようやく向けてくれた。
なのだけれども、今のトーリンさんは次に何を言い出すのかまるで見当がつかない。ハラハラとその意図を訊ねれば、
「そなたにも何かを贈ろうと思ったまで」と彼は言う。

「石に細工を施そう。美しい装飾品となるはずだ」
「でも、わたし…………そう! ビルボさんみたいに、契約を結んで旅に加わったわけじゃありませんし」
「だからこそだ」

遠回しに辞退するつもりで思い巡らせ、いい口実があったと思いついてそのままを言う。
なのに、トーリンさんはそう遮った。

「そなたは何の見返りもないのにここまでバギンズ殿を支えてくれた。……キーリの面倒もみてくれた、それにあのエルフの森で、私を庇ってくれた」
「…………」
「だからせめてもの礼はしよう。好きな石はないのか」

そんなの要らないから、ハッピーエンドください。
本音をわたしはどうにか喉の奥に押し込めた。
同時に、胸が痛んだ。
トーリンさんは以前とは大分変わってしまった。けれど、全く彼ではないというわけでもない。
この人の良いところもまだ残っている。かろうじて、というべきかもしれないけれど。
……けれどとにかく、彼は彼なりに、わたしのことをそのように評価してくれているらしい。

「エレボールを守り抜いた後になるが、私はそうするつもりだ。……それまでに、色を決めておくといい」

言い終えると、彼はビルボさんを少し離れたところへと連れ出した。
何か二人で話したいことがあるようだった。
独り残されたわたしは、立ち尽くす。
トーリンさんの背中に、一人のよく知る人物の背が重なって見える。
その人は指輪の魔力に誘惑され、短い時間ながらも自分自身を見失ってしまう。
けれどその人は、すぐに正気を取り戻す。そして自分のしたことを悔いて、償いのように戦うのだ。

大丈夫。ここは中つ国だ。
世界は繋がっている。……あの人がそうだったのだ、だからトーリンさんもきっと大丈夫。
わたしはそう信じることに決めた。





アーケン石を、僕は一体どうすればいいんだろう?
その思いはずっと前から自分の中にあって、今となってはどうしようもない程に膨れ上がっていた。
バーリンに「石をトーリンに渡せば、病は良くなるか」と訊ねてみれば、答えはそうじゃなかった。
も、もし石が見つかったとしても隠しておいた方がいいんじゃないかと言う。
自分がアーケン石を隠し持っていること、それを誰に打ち明けることもできず、僕は思い悩んでいる。

いっそ、誰かに……バーリンやキーリにフィーリ、ボフールに……彼らなら話を聞いてくれるだろう、どうすればいいのかを思い切って相談してみた方がいいんじゃないだろうか?
そんなふうに思いもした。
けれど、それは思い直した。
彼らはドワーフだ。そしてトーリンは、彼らの王だ。
トーリンに忠誠を誓っているドワーフの皆は、もしそれが彼のためにならないと分かっていても、王に逆らうことはできないだろう。

……だったら、はどうだろう。
彼女は大きい人だ。ドワーフじゃない。にだったら相談をしてみたっていいんじゃないだろうか?
そう思って、見張りをしていた時に彼女へ口を開きかけた。
けれど、既の所で思いとどまった。
ダメだ。もしに話して、その後トーリンに石のことが知られてしまったら、彼女まで追及を受けることになる。
今のトーリンは、何をしでかすか分からない。……彼女を危険に晒すことはできない。
やはり、にも相談することはできない。

ああ、どうしたらいいだろう。
戦争だなんて、とんでもないことだ。どうしてこうなってしまったんだろう。

答えの出ないまま階下へ下りれば、トーリンは僕へ贈り物だといって、鎖かたびらをくれた。
「真の友」だと、僕のことをそう言ってくれた。
……こういう時、真の友達ならどうするのが正しいんだろう?
そう考えかけたその時、彼はこう言い出した。
「裏切られた」と。

「……裏切り?」

心臓が飛び出しそうなくらい脈を打ち始める。
それを押し隠しながら言葉を繰り返すのがやっとだった。
けれど話を聞けば、トーリンは僕が石を持っているのを突き止めたわけではなかった。
彼は、ドワーフの誰かが裏切って、アーケン石を隠しているのだと思い込んでいる。
いよいよ彼は、皆の忠誠心までをも疑い始めたのだ。それはひどく悪いしるしだった。
病は、彼を蝕み続けている。

それを知った僕は、自分がするべきことが何なのかをようやく悟った。
皆は、トーリンが自ら目覚めるのを待ち続けている。
そして僕には……僕だけにしかできないことがあるはずだ。

それはどんなにか、勇気のいることだっただろう。
けれど、そうしないわけにはいかなかった。
だって僕は、彼の本当の友達なのだから。
だから。
――挫けるなよ、ビルボ・バギンズ。
僕は自分自身を奮い立たせるために、そう口の中で呟いた。






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