――僕の名前はビルボ・バギンズ。
シャイアにある袋小路屋敷の主で、ホビットだ。
故郷に留まっていた頃は、冒険心なんてこれっぽっちもなかった。

平和で、平穏な時間が好きだった。
毎日食べるもののことを考え、時には庭の手入れをして、心ゆくまでお茶を楽しむことができる。
自分の家が大好きで、あの場所から離れるなんて考えたこともなかった。

旅に出てからだって、何度あの家を恋しく思っただろう。
暖炉のそばで、ゆっくりと本を読みたい。
気の向くままに起きて、好きなように時間を過ごして、眠くなったら眠り、また目覚めて。
バターをのばしたパンに、こんがり焼けたソーセージ。目玉焼きに、採れたばかりの野菜を添えて食べるのを何度思い出したか分からない。

……だからこそ、僕はここまでやってきた。
竜に国を奪われたドワーフ達。彼らの家を、国を、居場所を取り戻すための旅路。
それを思えばこそ、僕は頑張ってこれた。
自分が持っているものを、彼らは持っていなかった。失ったものを取り戻す、そのための旅。
そして、それは果たされたはずだった。


僕は城壁の前を見た。
エルフの大群が数え切れないほど整然と立ち並んでいる。
その遥か向こう、遠くの山々の稜線が陽の光で眩しく輝き、空は、雲は美しく佇んで見える。

……随分と、遠いところまで来てしまった。
もう、家には戻れないかもしれない。
思うけれども、それでも構わなかった。
僕が今まで大事に思っていたものの、全てを投げ打ってもいい。
そう思えるくらいの仲間が、友達が、自分のすぐ近くにいる。彼らを、裏切りたくなかった。

「――来たのは他でもない」

約束の品は受け取った。
エルフの王様が朗々とそう告げるのを、祈るような気持ちで聞く。
どうか、どうか上手くいってほしい。
僕ができることはこれしかなかった。
後はトーリンを、友人を信じることだけだった。

バルドが掲げた石は燦然と輝いていて、ドワーフの皆が息を呑むのがわかる。
どろぼう、と声をあげるのはキーリだ。
どうやって手に入れたのか訝るのも無理はない。あれだけ黄金の中を探しても見つからなかった王の石が、今バルドの手の中にあるのだから。
……さあ、探していたものはすぐ傍にある。
だから、戦争なんて必要ない。必要ないんだ。……トーリン!

「……我らを騙そうとしている」

あれは偽物だ。
その声を聞いて、僕は歯噛みするような思いだった。
なんて疑い深い、強情っぱりのドワーフだろう!!
偽物なんかじゃない、あれは本物だ。
それを他の誰が言っても、トーリンは聞き入れないかもしれない。
だとしたら、もう他に術はない。

「石は本物です。……僕が渡しました」

自分がそう言うより、他になかった。
場が凍りついたかのように、静まりかえっている。
こちらを見るトーリンの目が、見る見るうちに違う色に染まっていく。
……僕は夜のうちに城を抜け出して、持っていたアーケン石をエルフの王様とバルドに託したのだ。
欲しいものが目の前に差し出されれば、トーリンも戦を思い留まるかもしれない。
そう思っての、苦肉の策だった。

「渡そうと思ったんだ。何度も貴方に……でも」
「でも何だ、盗人」
「貴方は変わった!」

そう、彼は変わってしまった。
今目の前にいるのは、袋小路屋敷を訪ねてきたトーリンとは別人だ。
本当に大切なものはもう取り返したというのに、病に取り憑かれて目が曇っている。
その彼に、アーケン石を渡せるはずもない。
それを一体、誰がトーリンに言えるだろう。
僕だってこんなこと、言いたくなかった。でも、……自分以外の誰が言えるんだ。僕以外の、一体誰が。
けれど、彼にはもう何も届かない。

「城壁から投げ捨てよ!!」

トーリンの憤怒に膨れ上がった声が、辺りに響き渡っていた。
ドワーフの皆は誰も動かず、焦れた彼はついに自らその手を僕に伸ばした。
たくさんの声が聞こえていたような気がする。
止めようとするドワーフの皆の声に、それから……悲鳴。
の悲鳴だ、と思い当たる。……どうか、彼女には何もしないでほしい。そう願う。

思った一瞬の後には、眼前にトーリンの恐ろしい形相があった。
背中に衝撃。冷たい温度と、硬い感触。
両手で掴まれ、壁に押し付けられているらしい。今にも本当に、下へと投げ落とされるのかもしれない。
怖くはなかった。ただ、悲しかった。
友人が今なお病に蝕まれていること、そして僕にできる全ての手を尽くしても、彼を救うことができないこと。
それが、ただ悲しかった。
すぐ近くにある憎悪に満ちた目が、こちらを睨みつけていた。
――彼はまだ、目覚めない。





わたしは、ほんの少しだけ後方に下がって皆の背を見つめていた。
奥の方に隠れていろとは言われていた。
けれど、それではこちらの世界の物語がどう進行するのかを知ることができない。

昨夜は早いうちに眠りについて、向こうに戻って原作を読み進めた。
できる限り急いで読んだ。おかげで大分進みはしたのだけれど、同時に、数多くの疑問符がわたしを覆っているのも確かだった。

案の定、レゴラスさんは今のところ名前すら出てきていない。
それに、竜の元へと乗り込むところ。あの辺はやっぱり、一行全員がまとまって行動を共にしている。
キーリさんが負傷するようなくだりもまるでなかった。……それゆえ、二手に別れるという場面も存在しない。
これはまあ、今は合流しているからまだいいとしよう。

けれど、……アゾグとかいうあの大きなオークみたいなのも出てこないのだ。
わたしはゴブリン達から逃げ果せた後の、あの時のことを思い返す。
ワーグらに追い詰められ、木の上に皆で避難する形をとった際に現れたのがアゾグだ。
トーリンさんと何やら因縁があるのだというのは、旅に出て割と最初の頃に聞いていた。
そこそこに強そうだったから、
(やっぱりボスキャラなんだろうなあ、でも竜ほどじゃないか)
そうわたしは思っていて、勝手にラスボスがスマウグ、中ボスがアゾグなのかと思っていたのだ。

いや、今はひとまず、その辺も置いておくことにする。
しかし実際、原作とこちらの世界では異なる部分も多くあって、混乱していた。
映画の方は、相当設定をいじったのだろう。
ロードオブザリングだってそれなりに多くの改変はあったのだから、それをどうこう言うつもりはない。
ただ、今のわたしの状況からすれば、それは大いに問題だった。原作があっても先が読み切れないのだ。

そして、頼みの綱の原作だ。
ビルボさんがアーケン石を一人で見つけて、隠し持っている……。
その場面までを読んで、強張った。
原作には一行が山と町の二手に別れる描写はないものの、全体の流れから考えるに、わたし達が湖の町からエレボールへと辿り着いた時にはおそらく、ビルボさんはアーケン石を手に入れていたのだ。

つまり、トーリンさんがあれ程石を渇望する様を見ながら、そのすぐ傍で何も言えずに友人として接していたということになる。
わたしはその横にいながら、何も気付かずにただそこに居るだけだったのだ。

しかし、さらに驚くべきことが続きには記されていた。
バルドさんが話し合いに現れ、それをトーリンさんが拒絶した場面――つい数時間前にあったばかりだ――の後に、とある出来事が起こっている。
ビルボさんがこちら側を抜け出し、バルドさんとエルフの王(レゴラスさんのお父さんだ)の元を訪ねている。
そして彼らに、持っていたアーケン石を委ねているのだ。

(それって)

つまり、わたしがこうして原作を読み進めている正に今、この瞬間にも向こうでビルボさんは行動を起こしている――。
そこまでを読んで、本を閉じた。
すぐに戻らなければ。そう思ったのだ。
ようやく物語に追いついた、そして残りのページ数は僅かだった。少し悩んだけれど、とても読んでいられないと判断する。
何しろ、そこへ辿り着くまで結構な時間が経過していたので。
既に、切り上げる予定の時間をかなり過ぎていた。
わたしが見聞きした実際の場面と原作では程々に違っていて、あれこれ確かめながら読んでいるうちに相応に時間を食ってしまっていた。



居ても立っても居られずに中つ国に戻れば、静かな朝を迎えていた。
ビルボさんもちゃんと居て、見たところはいつもどおりだ。
けれど、何事もなかったわけがない。
彼は夜の時間を使って、アーケン石を離れたところへと預けたのだ。

「ビルボさん」
「……何だい」
「…………」

わたしは彼を見た。顔色は、あまりいいとは言えない。
ビルボさんは今、果たしてどんな気持ちだろう。
つい呼びかけてしまったけれど、気の利いた言葉ひとつ出てきそうになくて、「何でもないです」と首を振った。
何も言わないビルボさんに、わたしができるのは見守ることだけだった。

そうして、トーリンさんは悪い方へと変わったままのトーリンさんだった。
城壁の下の方は、ここからでは見えない。
それでも、バルドさんやエルフの王らしき声は届いていた。やり取りからするに、アーケン石を示してみせたのだろう。
それを俄かには信じられなかったと見えて、
「アーケン石はこの山の中にある!」とトーリンさんは大声を上げる。

「騙されるか!」
「嘘じゃありません」

やんわりと言い出すビルボさんを、わたしはただ見つめることしかできないでいた。

「石は本物です。……僕が渡しました」
「…………おまえが?」
「十四分の一の権利です」

水を打ったように、辺りが静まりかえっている。
他のドワーフの皆も呆気にとられたようにビルボさんを見ていた。
その中で、誰もが気付いていた。ビルボさんを見るトーリンさんの目が急速に冷え、逆に怒りで燃え盛っていくのを。
そんな彼を目の前にして、しかしビルボさんは動かない。
今のトーリンさんは何をするか想像もつかないというのに、それでも。

「……私から盗んだ?」
「人聞きの悪い! いや、忍びの者かもしれないが盗人じゃない。……要求を通すにはそれしかないと」
「要求を通すだと?」

小さく、乾いた笑いがトーリンさんから漏れた。
これから何が起こるのか、原作を読んでいなくとも分かる。
それを止めたいのに、止める手立てがどこにも見当たらない。
ドワーフの皆も、わたしも何もすることはできない。何もできずに、ただ彼が目覚めるのを待っている。
その中で、ビルボさんはただ一人勇気を持ってここにいた。

「何の要求だ。……貴様ごとき虫けらに要求される覚えなどないわ!」

声が、語尾が荒々しい叫びを帯びる。
わたしはそれを聞きながら、いつの間にか自分の身体が小刻みに揺れているのに気が付いた。
震えているのだ。
そしてそれは、トーリンさんの恐ろしい形相と声色に当てられたからでも、これからビルボさんに降りかかるであろう災いを恐れたからでもない。
小さな人の言葉が、トーリンさんに向けられ続けていた。

「渡そうと思ったんだ。何度も貴方に……でも」
「でも何だ、盗人」
「貴方は変わった!」

逃げることなく、懸命にその人に訴えかける。
そんな小さなホビットに向かって、我を忘れた誰かが罵りの言葉をぶつけている。
それはまるで――

「ホビット庄で会った時の貴方なら決して約束を違えないし、仲間の忠誠心を疑わない!」
「忠誠心をどうこうと……おこがましいぞ!」

空気はすぐに砕けてしまう氷のように冷たく、張り詰めていた。
喉が詰まり、息苦しさを覚える。
その世界に在りながら、今まで旅路を共にした仲間の皆と共にいながら、けれどひとり、わたしは戦慄していた。
自分がいつの、何処にいるのかがまるで不明瞭でならない。
……今目の前にいるのは、一体誰?

「城壁から投げ捨てよ!!」

背筋が凍るような、咆哮にも似た声がその人から上がる。
判っている。あれはビルボさんとトーリンさんであって、あの人ではない。
それなのに、判っているのに、……寒気が、悪寒が止まらない。
急に自分の中に膨れ上がったものを、わたしは必死に押し留めなければならなかった。
そう思うのに、震えは激しさを増し一向に止まらない。
わたしの中にあるものが内側から自分を圧迫し、押しつぶそうとしているかのようだった。
だって、それはまるで、

「聞こえないのか!!」

動こうとしない周りのドワーフ達に業を煮やして、近くにいたフィーリさんの腕をトーリンさんが掴む。
しかしフィーリさんに振り払われると、遂に彼は自らその手をビルボさんに伸ばした。
伸ばされた手、濁って澱んだ両の目。魔力に誘惑され、端正な顔が歪む。正気を失った、ゾッとするような恐ろしい形相。
我を忘れて、小さな人へ投げ掛けられた罵りの言葉、言葉、言葉。
わたしは小さく呻いていた。
嫌だ。見たくない……聞きたくない。こんな場面を、わたしは見たくない!
だって、だって、それはまるで――。

「ならば私が!」

トーリンさんの声は全てを切り裂き、遂にわたしの心をも切り裂いた。

「呪われよ!」

わたしの内側は破れ、必死に留めようとしていたものが一気に溢れ出す。

「貴様を押し付けた魔法使い共々な!」

バラバラになったわたしの中で、その声は、あの人のものと重なった。

『呪われろ――呪われろホビット共!!』
「――いっ」

引き攣れた喉から、自分のものとは思えない声が漏れる。
もう、押し留めることはできなかった。

「いやあああああああああああああっ」

わたしはけたたましい悲鳴をあげていた。
止めようとしても止まらない。
膝をつき、両手で耳を塞ぎ、目をつぶり顔を伏せて全てを拒絶する。だって、だって、それはまるで、

(ボロミアさん――!!)

同じだった。
あの人ではないあの人と、全く同じ。
だからわたしは何も見たくないし、聞きたくなかった。
気付けば、ドワーフのうち何人かがわたしの傍にいてくれている。
のろのろと辺りを見れば、トーリンさんは呆けたように城壁の下を見やっている。知っている誰かの声が響いていたけれど、すぐに誰なのか思い出せない。
そうするうちに壁に押し付けられていたビルボさんがするりとその場から抜け出した。
その目がこちらを捉えて、小走りにやって来る。

。行こう」

そう言って手を差し出そうとした時、パンと乾いた音が響いた。
大股にやってきたトーリンさんが、ビルボさんのその手の甲を払ったのだ。
わたしは蹲ったままハッとして振り仰いだ。怒りに燃えたままの顔がそこにあって、こちらをただ見据えている。

「貴様も……貴様もグルだったのか」
「違う! 彼女は関係ない、関係ないんだ!!」

僕一人でやったことだと、ビルボさんは捲し立てる。
すぐに頭が働かなかったけれど、一拍遅れてアーケン石のことだと思い至った。
そしてトーリンさんはといえば、幾らか考えるように黙り込んだ。
すぐに、その口が動いていた。

「私は裏切られた――真の友だと思っていたのに、それを失った! 失ったのだ!!」

言いながら、大きな手がわたしの手首を乱暴に掴んだ。
指が食い込み、その力の強さに痛みを覚える。
しかし彼は、ふっと静かになった。続く言葉も、同じく静かだった。

「失うというものがどういうことか、思い知らせてくれよう」

静かな言葉は、憎悪に満ちている。
彼はまだ、目覚めない。






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