空気は、滞留し続けている。
遠くから、何とも言えない喧騒。外ではまさに今、大きな戦いが起こっている。
しかしそれにも拘らず、ドワーフの皆と私はエレボールに留まっていた。
トーリンさんが、信じられないことにこう命じたのだ。「手出し無用」だと。
そして山の下の王は、一人奥へと消えてしまった。

ビルボさんは、私と共にこの場を退こうとした。
けれどそれをトーリンさんに拒絶され、止む無く彼は一人でパーティーを離脱した。
わたしはといえば、鎖を足首に繋がれた挙句、ビルボさんの元へ逃げ出さないようにと見張りを付けられている。

……少し、本当に少しの短い時間、取り乱したのは事実だ。
けれど、本当にあの時だけだった。わたしはすぐに、いつもの自分を取り戻していた。
そして、今の心境はといえば。


ガチギレである。


決して怒鳴ったり暴れたりするような真似はしていない。
黙って静かにはしていたつもりだった。それでも相当、顔に出ていたらしい。
見張りの名目で傍についていたオーリさんは終始へどもどしており、遂には一緒にいるのに耐えきれなくなったのか、
「次の誰かに交代してくるからね」と言って、そそくさと出て行ってしまった。
一時的にわたし独りという状況にあるけれど、鎖に繋がれているし、何処へも行けないと思っているのだろう。

――鎖!
まさか、囚人みたいに鎖に繋がれるという経験をするとは思わなかった。
闇の森でエルフの牢に投獄された時だって、ここまではされなかったというのに。
そしてそう命じた張本人は、今なお奥へ篭ったっきり出てこない。
自由を多少奪われたことではなく、わたしはトーリンさんが未だに惑っていることに相当腹が立っていた。

(ボロミアさんは、すぐに正気を取り戻したのに!)

そう、ボロミアさんは誘惑に負けた時、しかしすぐに、自分が何をしたのかに気付いてその行いを悔いたのだ。
それだというのに、トーリンさんはまだ目を覚まさない。
ビルボさんにひどい言葉を投げつけ、こうしてわたしを鎖に繋ぎ、あまつさえ眼前での戦いを放棄する始末だ。
今頃何をしているのだろう、黄金の一つ一つを愛でてでもいるんだろうか。

怒りという感情が、どのくらいの時間わたしの中にあったのか分からない。
けれどそれがとある瞬間、音を立ててしぼんでいくのが分かった。
それは、こう考えた時だった。

(こういうストーリーなんだ)

トーリンさんが悪いんじゃない、元々、こういう筋書きなんだ。
そう思えるまでには少し時間が必要だったけれど、ふと、そう思えた瞬間にスッとわたしの中の温度が冷えた。
……子供向けの話にしては、随分とヘビーな話だ。
そして残りページ数は、ひどく少なかった。……ここから一体、どうなるんだろう?

わたしは思いながらも、目線を下に落とした。
重く冷たい輪っかの連なりは、足首にしっかりと繋がれている。……これって、何でできているんだろう。
流石にミスリルだったら、どうひっくり返っても歯が立たないかもしれない。
けれど見たところ、繋がれている鎖はたぶん鉄か何かの、ごくごく普通の素材に思える。
……いざとなったら自分の世界に戻って、何処かで金属を切断する道具でも買ってくればいい。

(でももし、向こうで目覚めても鎖が繋がっていたらどうしよう)

こればっかりは、実際寝て起きてみなければ分からない。
……まあ、そうだったら一番近くに住む友人に、助けを求めるしかない。大層驚かれるだろうけれども。
そんなことを考えていると、かつん、かつんと足音が近付いてきた。
オーリさんの代わりに現れたのは、武装したままのボフールさんだ。
繋がれているわたしを目にするなり、自分事のようにその顔を辛そうにしかめた。

「……すまねえ。今の俺にはそれを外してやることもできやしねえ」
「それは。……まあ、しょうがないですよね」

ボフールさんが謝ることではない。
そう思って言えば、彼はまじまじとこちらを見てくる。
あんまりジッと見てくるので、
「どうしたんですか?」と問えば、
「いや……」と口籠って数拍、間が空いた。

「オーリが言ってたんでな。お嬢さんが相当怒ってるって」
「ああ……。さっきまで、そうだったんですけど」、
わたしは肩をすくめて見せた。
「一人で怒るの、飽きちゃいました」

応えれば、向こうは少しぽかんとする。
何秒か、十数秒かしてから小さく「は」、と声に出して息を吐いた。
笑うような……実際に微かに笑って、その表情を幾分和らげた。

「飽きた、ってか。……やっぱりお嬢さんは面白れえ人だわ」
「……それって、褒めてます?」
「勿論」

そんな応酬を交わすくらいはできた。
けれど、ボフールさんはすぐにその顔を曇らせてしまう。
状況を考えれば、それで当然かもしれない。陽気な印象のドワーフさんだったけれど、今はそうも言っていられないんだろう。
沈黙が落ちそうになるのを、
「あの」、とわたしから振って間を繋いでいた。

「うん? 何だい」
「えっと。今更なんですけど……」

ふと急に、本当に急に思い出して、わたしは言った。

「……湖の町で、王の葉を探しに行った時なんですけど」
「…………ああ。あん時な」
「はい、あの。オークと鉢合わせた時に……ほら、ボフールさん、わたしを助けてくれたじゃないですか」
「うん? ……ああ。そんなこと、あったかもな」
「ありました! それで、その。すぐに言うべきだったんですけど、お礼、言えてなかったんで。あの時は、ありがとうございました」

頭を下げれば、幾分ぎょっとしたように向こうは目を瞬いている。

「……やめてくれよ。ありゃあ俺が勝手にしたことだ、礼を言われる筋合いなんてねえ」
「いえ、わたしずーっとお礼言うタイミング外しちゃったって思ってたんです。それで……今ふと、そのこと思い出しちゃいまして」

だから、言うなら今かなって。
そこまでを告げれば、彼は困ったように頭に手をやり明後日の方を見る。
わたしはといえば、ずっと言わなきゃと思っていたことをようやく済ますことができて、多少すっきりした気持ちだった。
言える時が来たら言おう、あの時は深く考えずにそう思っていた。
まさか、こんな状況になっているとは、思いも寄らなかったけれど。

「……なあ。お嬢さんよ」
「はい?」
「その…………」

呼び掛けられて、見れば、いやに真面目な顔になったボフールさんがこちらを見ている。
その口がもう一度開きかけた時、凍り付いたかのように動きが止まった。
目は、わたしの後方を凝視している。
反射的に振り返れば、少し離れたところにトーリンさんの姿があった。
さっきまで身につけていた冠や装束を外し、何かを決意したかのような顔つきをしている。
そしてその手には剣が携えられていた。

……わたしを殺してしまうつもりだろうか?
正直、そう思ってしまったのは否めなかった。
そしてわたしはというと、まるで怖くはなかった。……怖い? わたしが? 笑わせないでほしい。

(こちとら一回死んでんだかんな!!)

しかも死んだって全然痛くも何ともないんだからな!!
そんな気持ちで思わず睨みつけてしまいそうになる前に――予想外のことが起きた。
ボフールさんに向かって一言「鎖を外せ」、と言ったのだ。
唐突なことで、わたしもボフールさんもすぐにはどういう意図か理解できない。
けれど、……よく見て、気がついた。
トーリンさんの目が、以前までと同じ輝きを取り戻している。
そして彼はこちらに向き直り「すまなかった」、とさえ口にしていた。

「私は……仲間にするべきではない行いをした」
「…………」
「今は時間がない。だが……戦いが終わったら改めて償いをしよう」
「…………」
「その時まで、そなたはここに残って待っていてくれ。……
「…………」

先程までとのあまりの変わりように、言葉がまるで出てこない。
同時に、テンポ遅れで(仲間って、わたしのこと?)と思いもした。
いや、ビルボさんのことを指して言ったのかも判らない。
それでも、さらっと最後には名前を呼んでくれた。記憶が確かなら、たぶん、トーリンさんに下の名前を呼ばれたのは初めてだと思う。
そして何より、ようやく彼は、戻ってきてくれたのだ。
彼を待っていた皆の元へ。
……もう、それだけで充分だと、そう思えた。

「待っています」

わたしは、その一言を返すのだけで精一杯だった。





静かになった。
正気を取り戻したトーリンさんが、ドワーフの皆を率いて出て行ったのだ。
……そういえば、わたしの鎖の鍵を外してくれた時、ボフールさんが何か言いたげにしていた。
「戻ってきたら」と言って、彼は「お嬢さんに言いたいことが……」と続けるものだからひとまず、
「ボフールさん、それ以上言っちゃ駄目です」とフラグをへし折っておいた。

「帰ってくるの、ちゃんと待ってますから」
「……おう」

何ともむず痒げに彼は返事をして、トーリンさんの後を追っていった。
原作からすればボフールさんは特別目立ったフラグは立っていなかったが、少しでも可能性は排除しておきたい。
まあ、半分くらいもう言ってしまった感はあったけれど、まあとにかく。


そして今は、おそらく時間がたくさんある。
戦に入ったのだ。大きな戦いなんだろう、きっとぺレンノール野の合戦みたいな。
わたしはそう思い浮かべて、ふと、(ボロミアさんは今頃どうしてるのかな)とぽつりと思う。
時間がお互い並行して流れているなら、向こうは今どの辺だろう。
二つの塔は流石に過ぎただろうと思う。なら、王の帰還のどこか、だろうか。

いや、今はこちらの世界だ。
わたしは意識を元に戻した。
残りのページ数から察するに、これさえ終われば物語も本当に終わりに近づくはずだ。
だったら。
……だったら、今しかない。

わたしは鞄を引き寄せると、中を開いた。
取り出したのは、ホビットの冒険の下巻だ。
大急ぎで読み進めたものの最後まで読み切れずに、自棄になって鞄に突っ込んできた。
もしも時間と状況が許すなら、こちらの世界で読んでしまおう。そう思って。
わたしが持っているのは文庫版だったので、さほど邪魔になるでもない。
そして今なら、誰かに見られる心配も決してなかった。

(皆、大丈夫だとは思うけど……)

そう、心配なんて何もない。
それこそ、少し前まではハッピーエンドなんて無理ゲーすぎると思っていた。
でもトーリンさんは、ちゃんと戻ってきてくれた。
だから、ここからならいけると思う。大丈夫だと、信じたいのだ。
それをすぐにも、確かめたい。ただそれだけだった。
わたしはページを捲り、昨夜の続きを読み始めた。



残りがあと少しというところで、わたしの手は止まっていた。
声も出なかった。
どのくらいの間硬直していたか分からない。
物語は、淡々と描かれていた。どんなに耐え難い事実も、そこにただ書き連ねてある。
ようやく自分を取り戻して、何とか最後まで読もうとする。
そしてすぐにまた、さっきと同じ類の衝撃がわたしを打った。

本を閉じる。
物語を読み終えないまま、わたしは外の景色を望める場所まで歩いていってみる。
ひどい有様だった。
あちこちに黒煙が上がり、火の気も見える。
白く流れるもや、冷えた外気に入り混じる何かの焼け焦げる匂い。……立ち込める雲は眩しい陽の光を透かして、静かに輝いている。
何もすることができないまま、ただわたしはその光景を見つめていた。






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