「やることは単純明快、難しいことなんて何一つないさ」
「そうそう。コツさえ掴めばこっちのものだもの」
「簡単に言ってくれるなあ……」
わたしはメリーとピピンにそう返さざるを得なかった。
目の前の木を見上げる。
縦に五メートルくらいあって、幹の肌もゴツゴツしていないし、枝の配置もいい具合だ。
木登り入門編としては丁度いいのかもしれない。
とはいえ、こちらは本当に初心者なのだ。
「二人は身体も軽いだろうけど、わたしは重いんだよー……」
「そうかな。そんなに気にしなくていいと思うけどな」
「さあさあ、とにかくやってみようよ! 僕がお手本を見せるからさ」
そう言ってピピンは率先して木に立ち向かう。
するすると上がっていく様は(やっぱり身軽だな)と思う。けれど同時に(参考にはなるな)とも思った。
何度か、レゴラスさんが木に登るところを見たことがある。
その様子は完全に人間離れしていて、できたら格好いいだろうけれど無理でしかない。さすがエルフ、まるで参考にならなかった。
対して、ピピンのやり方はまだ身近な感じだった。
やんちゃな小学生が公園の木をよじ登っているのを見るような、そんな感覚に近い。
「今のと同じことをすればいいのさ」、
メリーが何でもないことみたいに言う。
「枝を掴んで、足で地面を蹴って、身体を持ち上げる。後はただそれを繰り返すだけ、簡単だろ?」
「そう言われましてもですねえ……」
「早くやってごらんよ、!」
頭上からピピンの声が落ちてくる。
いい塩梅の枝に腰掛けて、満面の笑みでこちらを見下ろしていた。
「ここからの景色も、悪くないもんだよ」
「僕もやってみせるからさ」
言って、メリーまでさっさと上に上がってしまう。
後はわたしだけが残された。
自分自身、子供の頃に木登りはチャレンジしたことがある。
けれど、漫画やなんかで描かれるように簡単ではなくて、早々に諦めてしまってそのままだった。
身体が大きくなった今になって、再挑戦することになるとは思わなかった。
「さあ、頑張って!」
「僕たちの言う通りにすれば大丈夫だからさ」
そう言う二人のホビットの声援を受けて、わたしは意を決して枝に手を掛けた。
以前の記憶が蘇る。
わたしは今、メリーとピピンの二人に超絶感謝していた。
山の斜面を駆け降りる。
追手から逃れるために、ドワーフの面々が木に登り始めた時はウッとなった。
何とか習得はしたものの、まだてんで得意といえるレベルではない。
けれど、グズグズしているわけにもいかなかった。
手袋をつけていたので、木のささくれは気にも留めない。
どうにかドワーフの皆に追いつこうと枝に手をかけ、地面を蹴り、身体を持ち上げる。
メリーとピピンに教わったことを、ただ忠実に。
大丈夫、自転車みたいに、コツさえ掴めばあとは慣れるだけ。
(二人ともありがとう本当にありがとう生きてまた会えたらたくさんお菓子持ってくから!)
目まぐるしい中で思った。まあ、また会えたらの話だけど、今はとにかく。
いつの間にか、夕暮れが通り過ぎていた。
夜の暗がりが迫る中、どうにか更に上へと手を伸ばしたその時、誰かの手がこちらを掴んだ。
思いのほか強い力で、ドワーフの誰かだと思った。
顔を上げて、びっくりする。
ガンダルフさんが、あたたかい大きな手でわたしを引き上げてくれていた。
「ありがとうございます」
灰色の魔法使いは厳しい顔のまま肯いた。
大きな手はすぐに離れていったけれど、すぐにわたしは納得する。
魔法使いと言いつつ剣や杖での物理攻撃も相当に強いガンダルフさんだ、いやはや、さすが。
一瞬思うけれど、それどころでもなかった。
下には既に多くのワーグがいた。
ワーグ! 『ロード・オブ・ザ・リング』の第一部ラストで退場してしまったわたしには、正直言って縁のない存在だと思っていた。
遭遇しないに越したことはないと思っていたけれど、実際見れば迫力も相当のものだった。
そして今、全員が木の上で籠城みたいな状況だ。
この状況の中で、すぐ傍にいるガンダルフさんがわたしの前で杖を伸ばしていた。
――横に向かって。
すぐに戻された杖の先には、蝶か蛾と思しきものが羽をゆらゆらさせている。
それに向かって何か言葉を囁きかける姿は見覚えがあった。
すぐに、それは空に向かって羽ばたいていく。
「……アゾグ」
少しだけ離れたところから、そう聞こえた。
トーリンさんの声。その人の見る先を追えば、いつの間にか白いワーグに乗った大きなオークがいた。
一目で、ボスだと分かる。
ついさっき対峙したゴブリンの親玉とは違う、正真正銘のボスという気がした。
そのボスが何事かを口にすると、一度鎮まっていたワーグらが一斉にこちらの木々に飛びかかってくる。
次々に枝が折られ、幹が揺さぶられて、木が倒れ始めた。
ドワーフやビルボさんが何とか別の木に飛び移る中、ガンダルフさんとわたしもそうしなければならなかった。
ハードすぎる。
木々が次々に薙ぎ倒され、飛び移るのを繰り返すうちに、ついには崖っぷちの最後の木へ追い詰められる。わたしはと言えば、どうにか落ちずには済んでいた。
隣に魔法使いさんがいてくれたことも大きい。正直、(死んでも死なない)という自棄っぱちな心の下地もあった。
それでもあまりにハードモードが過ぎる。度を超していて、腹が立ってきた。
気付けば、パッと火が上がっていた。
暗がりの中で明るく輝くそれ。
見れば、ガンダルフさんが木からもぎ取った松ぼっくりに火をつけている。
「フィーリ! ……!」
次々に火のついた松ぼっくりを作り出す魔法使いからそれを受け取り、息を吹きかけ炎を大きくする。
ムカっ腹が立っていたので、腹いせにそこかしこへ向かって思い切り投げつけてやる。
みんなでやれば、瞬く間に辺りは火の海になった。ワーグが退き始める。
一瞬の形勢逆転だった。
次の瞬間には視界が揺れていた。
皆が掴まっている最後の木が急に大きく傾きしなった。
途中で斜めのままギリギリ持ち堪えるけれど、時間の問題と思えた。
なにしろドワーフ十三人足すことの魔法使いとホビット、プラスわたしの体重が掛かっている。無理すぎる。むしろよく保っていると思う。
近くにいた一人の手が滑って落ちるのを見てしまう。
ヒヤッとしたけれど、別の誰かにしがみついてギリギリ持ち堪えている。
ガンダルフさんが杖を伸ばして助けるけれど、ジリ貧としか思えない。
そんな中、毅然と樹上に立ち上がったのはトーリンさんだ。
白いワーグに乗ったオークに向かっていくのを、誰もが息を呑んで見守っていた。
一騎打ちだ。
わたしはトーリンさんが勝つものだと思い込んでいた。
何故なら、彼らは竜に奪われた国を取り戻すために旅をしているからだ。こんなところで敗北するなんてあり得ない。そう思っていた。
とっつきにくくて、気難しくて、さっきだってビルボさんのことを良くは言ってくれなかった。逃げたのだと、冷たく言い放ったその人物。
それでも、彼は仲間側だ。決して負けるはずがないと思っていた。
だから、トーリンさんが敗れるのを目にして呆気にとられた。なんで、え、大丈夫?
そう思うよりも先に、彼を助けに割って入ったのはビルボさんだ。
小さな身体で、それでもスティングを手に突っ込んで行く。
あんまりな言われようをされていた彼だというのに、それでも。
それが合図だった。
ドワーフの何人かも続いて加勢に入っていく。
それにわたしは加わることができなかった。隣でガンダルフさんが杖を手に、落ちかかったドワーフ二人を支えている。
下手に動くこともできず、ただ状況を見守ることしかできない。
遂に杖を掴んでいたドワーフの手が滑って落ちた時、その身を受け止めたのは大きなワシだ。
ロードオブザリングでも、何度かピンチを救ってくれた存在。
次々と現れたワシは敵を一掃し、仲間をその背に乗せていく。
ガンダルフさんの隣にいたわたしは、グッと掴まれたかと思うと彼と共に空を舞った。
軋みを上げて崖下へ落ちていく木をガンダルフさんが蹴って、ワシの背へと飛び移ったのだ。
浮遊感は決して気持ちのいいものではなかったけれど、気付けば大ワシの上にいた。
既に敵の雄叫びは遠くにあった。
落ち着いた状態の時だったら、ワシの背の上という中つ国でも滅多に経験することのない状況、危機を脱したことへの安堵に、どんなにか明るい気分になっただろう。
……実際は、とてもそんな気分じゃなかった。
帰りたい。帰りたい。あの時代に。……皆に会いたい。旅の仲間に、ファラミアさんに、……ボロミアさんに会いたい。
ガンダルフさんのすぐ傍で目を瞑り、突っ伏したまま思った。
夜明けの光の中で、トーリンさんは目を覚ました。
ワシたちが全員を安全な場所へ下ろしてくれてすぐのことだ。
けれど立ち上がると彼はすぐさまビルボさんを睨みつけた。
「一体何の真似だ」と。
勇敢に立ち向かった小さなホビットに向ける目とは思えなくて、わたしの心は冷えていく。
「死んでもおかしくなかった」と彼は続ける。
「おぬしには荷が重いと言った」、「仲間にはふさわしくないとも」――。
ドワーフ達もガンダルフさんも、口を挟むこともできないまま静まり返る。
朝の冷えた空気が、より冷たいもののようだった。
一瞬、本当に一瞬、思った。
もし、……もしビルボさんが望むのなら、わたしの世界へ連れていってもいい。
物語から主人公が離脱すれば、彼らは詰みだろう。そしてそうなったことにさえ気付くことはない。
そうなったって、こっちは構いやしない。知ったことか。
だって、いくら仲間といってもあんまりだった。こうまで言われる筋合いが果たしてあるだろうか?
……それくらい、トーリンさんのことを嫌いになってしまいそうな自分がいた。
けれど次の瞬間、呆気にとられた。
「許してくれ」とトーリンさんが詫び、ビルボさんを抱きしめたのだ。
ワッとドワーフ達が歓喜の声をあげ、魔法使いがやれやれと言わんばかりの表情を浮かべる。
(何だよ!)と思ってしまったのは否めない。
さっきの前振り、要らなくない? 正直なところそう思う。
でも、ビルボさんの顔には安堵があった。……それなら、きっとそれでいいんだろう。
まあ、たぶん、ビルボさんだけを認めたのであって、わたしのことはそうでないんだろうけど。別にいいですけど、わたし、部外者ですから。
ともあれ、和解できて空気は良いものに変わった。
ワシたちが翼を広げて去っていく。
山あいの岩場で、今何処にいるのかよく分からない。
……竜のいる場所まで送ってくれたらいいのに。
思うけれど、それだときっと、「序盤のレベルでいきなり魔王城に到着した勇者」みたいな状況になっちゃうんだろうな、と一人で納得する。
さっきだって、オークのボスにさえ勝つことができなかった。竜退治をするなら、もっとレベル上げをしてからだろう。
皆が、遠くにある「はなれ山」の方角に目を向けていた。
そしてひとまず岩場を下りようと踵を返すトーリンさんと、たまたま目が合った。
今までずっと、目が合うようなことがあってもすぐに視線は逸らされてきた。だから今もそうなるだろうと思っていた。
そうはならなかった。
ほんの僅かな時間、その目元が和らいで見えた。
気のせいだったかもしれない。
ついさっき、ビルボさんと仲直りした時の感情の名残が一欠片、残っていただけかもしれない。
言葉も何もなかった。けれど、あからさまに目を逸らされるようなことはなかった。
(もう少しだけ)
わたしは思った。
もう少しだけ、この旅に付き合ってもいいかなと。
さっきまでは、もう嫌だと思っていた。散々アクションにも振り回されて、ビルボさんはあんな言われようで、わたしはもうこの旅、離脱しようかなと半分くらい考えかけていた。
けれど、トーリンさんがビルボさんのことを解ってくれた。
わたしに対する態度も、気のせいかもだけど、ほんのちょっぴり緩和されたような気がする、たぶん。
だったら――もう少しだけ、この物語に付き合おう。
何処まで行けるかは分からないけれど。
そんなふうに、心の中でひとり小さく肯いた。
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