押し寄せるゴブリンの数が、尋常ではなかった。
先陣を切るガンダルフさんに追い縋りたいのに、どうしても追い付くことが出来ない。
どの方向からも湧いて出てくるゴブリンに、魔法使いとドワーフの皆が応戦しながら疾走する。
わたしはその隙間を縫うように狭い道を駆けた。短刀は抜いているが、必要最低限でしか振るわない。
そもそも体力のハンデはあったが、ドワーフの皆は重量系である。此方は比較的身軽で、走るのがそう得意でないわたしでも何とかついていく事が出来た。
出来る限りをかわしながら、どうしてもガンダルフさんに追い付く必要があった。
彼に告げなくてはいけない事がある。どうしても言わなければいけない事が。
「!」
三叉路に入ったところで、一斉に新手のゴブリンが現れた。
わたしは内心、ああもう、と舌打ちした。どうしようもなく煩わしくて堪らない。
此処はモリアではないけれど、バルログが登場してくれたら一斉に逃げ出してくれるのではないかと思う。
誰かあの悪鬼呼んできて。そんなおふざけの考えは直ぐに吹き飛んだ。
短剣を教わった通りに振れば、どうにか数体は倒せるくらいにはなっていた。
三叉路を抜け、更に前進すれば前方に居たトーリンさんが、その剣を手に素早く身を回転させていた。一閃する剣の切っ先が、まるで演舞か何かみたいに美しい軌跡を描く。
そのまま間髪入れずに走るけれども、次から次へと追手は湧いてくる。
一瞬、魔法使いの元に辿り着いたと思っても、立ち止まる暇というものが無い。伝言どころの話ではない。
大きく揺れる吊り橋をどうにか渡るも、ガンダルフさんの魔法で大岩を砕きそれを盾に一気に歩を進めても、何処まで行こうとも一向に終点が見える気配というものがなかった。
わたしは流石に焦っていた。
これでは、ガンダルフさんに知らせる事が出来ない――。
唐突に、何かが橋を突き破って姿を現した。大きくて汚らしく、全体的にぶよぶよしている。
ゴブリンの親玉だった。
「逃げられると思ったか!?」
言いながら片手に掲げた武器を振り、わたし達の前に立ち塞がる。
走り通しの息を整えながら、その巨体を見据えた。
どう見積もっても中ボスなのだが、何しろ自分は、バルログと対峙する魔法使いをこの目で見ている。
六十年前の彼とはいえ、ガンダルフさんならば、おそらく倒せない相手ではないだろう。
しかしどうだろう、この大ゴブリン、意外と強かったりするのだろうか。全員でかかれば倒せるだろうか、どうなのだろうか。
思案する間に、しかし、事態は動いていた。
ガンダルフさんがその剣を振るうと、流血さえなかったがパックリとその身体に傷口が開く。
目が点になるほど、あっけなかった。
向こうが反撃に出る間もない。すぐさま魔法使いは喉元に追撃を見舞い、ごくごくあっさりと、しかし確実に止めを刺してしまっていた。
言ってしまうなら、ややオーバーキルである。
(あっ、意外と弱かった、この中ボス)
わたしは思わず心の中で感想を呟いていた。いや、ガンダルフさんが強すぎるだけと言うべきか。
そこまでは良かった。それで終わってくれれば良かった。
大ゴブリンの巨体がその場に倒れ、橋は大きく軋みを上げる。
次の瞬間、足場が崩壊していた。
悲鳴、絶叫。
橋は崩れ、わたし達は暗い奈落へと落下していた。
皆が乗っている足場の板だけが、かろうじて形状を保っている。それも岩肌にどんどん削られ、急速に落ちていく。
後から考えればハウルの動く城の終盤みたいな状況だったが、正直それどころの話ではない。此処にはカブはいないのだ。
頭を抱えて何か叫んでいたかもしれないけれど、わからない。
いっそ気絶した方がラクだったろうが、自分はなまじ気丈に出来ている。
気付けば谷底と思しき地点に崩落した橋ごと到達していた。
橋の木材は脆く崩れてグチャグチャで、皆が砂と埃と橋の残骸に呑まれている。勿論わたしも。
しかし、とにかく、生きてはいる。
「まだツキがあったな!」
思わずそんな声を上げたのはボフールさんのようだった。
確かに死んでもおかしくなかった状況、けれど呻き声さえ上がってはいたものの、それなりに皆、何とか大丈夫のようだった。
……直後、落下してきた大ゴブリンの身体に多少、下敷きになった事さえ除けばだが。
わたしは位置的にそれを逃れはしたけれど、直ぐには動けない。
絶叫系は苦手だった。視界に入るもの全てがブレて見えるくらいに身体が震えていた。
――立てない! 倒れ込んだ形のまま、立ち上がろうにも上手く立ち上がれない、這い出せない。
ガンダルフ、と誰かが叫ぶのが聞こえたような気がした。
状況的に追手だろう。
思うけれど、脚に力が入らない。
立ってしまいさえすれば、後はどうにか歩けるだろう。なのに、焦れば焦るほど力が入らない。
ぐい、と無造作に腕を掴まれ、強い力で引っ張られていた。
見れば、そうしてくれたのはトーリンさんである。
向こうは向こうで、相手が誰かも判らずにそうしていたらしい。
きっとドワーフのうちの誰かを助けたつもりだったみたいで、此方と目が合うと一瞬動きが止まって見えた。
正しく、一瞬だ。わたしが引っ張られた勢いで立ち上がってしまうと、直ぐに手と目を離してしまう。
他の皆もどうにか這い出したのを見て、彼は何かを叫び走り出す。お礼を告げるような状況でもなかった。
……心臓の音がうるさくて、何も聞こえない。
それでも、背後にいた別のドワーフやガンダルフさんに促されて、わたしはその場を歩き出した。
歩み始めれば、案外、走るのも平気だった。身体の震えは、いつの間にか治まっていた。
駆けるのを止め、皆と同じようにスピードを緩めた。止まった。
久しぶりの外、空にはオレンジがかった夕暮れの色が滲んでいる。風はとても穏やかだった。
けれど、わたしの心の中は穏やかどころではない。
ビルボさんが、いない。
その事にずっと前から気付いていた。
……ゴブリンの大群が押し寄せた時には、既に姿が見えなかったように思う。誰かに言おうにも、タイミングがなかったのだ。
或いは、わたし以外にも誰か、ビルボさんの事に気付いていただろうか。
点呼を終えたガンダルフさんの声が、強張りを帯びる。誰へともなく言った。
「ビルボは? ……ホビットは何処じゃ!」
皆がようやく気付いたといったふうに辺りを見回し、次いでわたしの方を見た。
大体の時は行動を共にしていた、だから今の今まで一緒にいたのだろうとでも思っていた様子だ。
「最後に姿を見たのは」、というガンダルフさんの問いかけに何か言おうと口を開きかけるより先に、
「皆がゴブリンに捕まった時に……逃げたと思う」
そう誰かが答えていた。
見れば、星の形みたいな奇抜な髪型のドワーフだ。名前は……さて、何だったっけ。
まあ、とにかく。
確か、裂け谷の食器を拝借してしまった張本人ではなかったか。
ゴブリンの親玉の前で荷物を検められた際に、どういうわけだか見覚えのある銀の食器が一揃い、ドサッと荷袋から出てきたのだ。
視線が仲間内で小さくやり取りされ、行き着いた先が彼だった筈だ。ちょっと土産に、などと嘯いていたのは多分、皆の耳に届いただろう。
「お前、何しとんねん」とある意味全員の心をひとつにした功績の持ち主だが、ビルボさんの事には気が付いていたらしい。
わたしは少しだけ、彼の事を見直した。
どういう経緯にしろ、ビルボさんの事をちゃんと見ていたのだ。
「何があった! 答えよ!」
「私が答えよう」
そう落ち着いた声色で歩み出たのはトーリンさんだ。
おお、とわたしは思わず希望を抱いて彼を振り向いた。
もしかしたら、トーリンさんもビルボさんの事に何か気付いていたのかもしれないではないか。
そんな僅かに膨らんだ気持ちは、しかし次の瞬間、音を立ててしぼんでしまった。
「逃げ出す絶好のチャンスとみて逃げたのだ」
……わたしは、自分の体温がすぅっと下がっていくような感覚を覚えた。
トーリンさんの言葉が、続いていた。
「里を出た時から暖かい暖炉とベッドの事しか頭になかった!」
その顔と口調には厳しさが満ちていて、とても口をはさめるような空気ではない。
実際誰もが言葉を発する事無く、ただ動揺とも困惑とも諦めともとれるような表情を浮かべてトーリンさんの言うことを聞いていた。
……そりゃあ、ビルボさんは故郷をよく恋しがっていた。
食事の事をよく気にしていたし、寧ろその辺りはホビットらしい所以だと思う。けれど彼は彼なりに、この旅に尽くしてきたではないか。
それなのにどうして、そんな事を言うんだろう。
ビルボさんがトロルに捕まった時だって、トーリンさんは一番に斬り込んで助けに行ってくれた。
あの切り立った岩山からビルボさんが落ちそうになった時だって、口では厳しい事を言っていながら、それでもこのドワーフは助けてくれた。なのに。
それなのに、どうしてそんな事を言うんだろう……?
「もはやあのホビットと会うことはない」
ビルボさんは、そんな人じゃない。
そう喉元まで出かかっていたのに、あと少しのところで言葉にならない。
それというのは、ゴブリン達に捕らえられる前、皆で休んでいたあの洞窟の中で「裂け谷に一緒に戻ろう」と持ち掛けられていた事もある。
実際、此処までだってとてつもなく大変な旅だったのだ。
ほんの僅かながら指輪を捨てる旅に同行していたわたしもそう思う。ビルボさんがそう考えたのはごく当たり前ともいえる気がする。
けれど……それにしたって、わたしを残していったりするものだろうか?
わたしはふと、ビルボさんの事を何も知らない事に思い当たった。
袋小路屋敷にお世話になったのはほんの少しの時間、そしてこの旅を含めてだって、そう大した期間ともいえない。
そして、それは勿論、ドワーフの皆やトーリンさんだって同じことだ。
彼らがどんな人物で、どんな生い立ちをしてきて、これからどうなるのかを、わたしは何も知らない。
完全にアウェイである。
わたしはこの旅に正式な契約を交わしたのではない、ビルボさんについてきているだけの身だった。
そして彼が居ないこの場所で、わたしは、自分がどうするべきなのかがわからない。
ただトーリンさんを見ていたら、ふと目が合った。さっき助けてもらった時みたいに、すぐに視線は逸らされてしまったが。
……今のわたしはどんな顔をしていただろう。
無表情だったろうか、或いは何がしかの感情が滲む顔だったろうか。或いは――。
「いや……此処に居る」
ハッとした。
まるで何事も無かったみたいに、ビルボさんが其処に居る。存在している。
わっとドワーフの中からも声が上がった。
そのほとんどが安堵によるもので、バーリンさんが、ボフールさんが、そしてガンダルフさんが目に見えて安心したというように顔を綻ばせた。
何人かは驚き、訝しそうに(そして其処にはトーリンさんも含まれてはいたのだけれど)、それでもそれは本当に何人かだった。
キーリさんが嬉しそうに笑い、フィーリさんも同じように、けれど同時に不思議そうに「どうやってゴブリンから逃れた」のかを問う。
当の本人はただ笑っているだけだったけれど、それだけで十分だった。
「ビルボさん」
呼び掛けて、わたしは近付いて身を屈めた。
ホビットの彼とはそうしないと目線が合わない。フロド達と話す際も時折そうしていた。
ビルボさんはちょっと困ったように眉尻を下げたけれど、それでもそのまま、わたしにだけ聞こえるような囁き声で言った。
「離れてしまってごめん、」
首を振った。
寧ろ、わたしの方こそ申し訳なく思う。
彼を、ビルボさんの事をわたしは何も知らず、擁護する言葉をついに口に出来なかった。
けれど、大丈夫だと思った。
こうして彼が戻ってきた事を喜んでくれるドワーフがいる。彼がいなくなった事に気付いてくれるドワーフがいる。
だから多分、トーリンさんもゆくゆくはわかってくれる。
……そうだといい。
わたしはそう思った。
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