洞窟の中は冷えていた。
けれどひとまず安全そうで、幾らかの安堵があった。
ドワーフのほとんどが眠りについていて、寝息もいつもより静かだ。ひどく疲れているんだと思う。
わたし自身が、少し前までそうだった。体力的にはずっと分があるはずのドワーフの皆が泥のように眠っているんだから、わたしもそうなるはずだった。

それなのに目が覚めているのは、いつもの反則技のおかげだ。
向こうに戻って、自分なりの休息を取った。
あたたかい湯に浸かって、食事を取り、ゆっくり眠った。そうしてこちらに戻ってきて今に至る。

……洞窟の入口の方で、微かな音がした。
ボフールさんが見張りのために起きているはずだから、彼の身じろぎの音だと思う。
それ以外はこれといって何も聞こえてこない。その中で思う。

(裂け谷を出た時は……)

「旅の仲間」の時みたいで、何とも言えない気持ちだったんだけどな。
ぽつりと、そう思った。
目指す方向は違っていたけれど、出立したばかりの頃は景色も以前見たものとほとんど変わらなくて。
周りを見れば、ボロミアさんがいて、そしてメリーやピピンたちが、皆がいるような気がした。


道はだんだんと険しくなっていった。
切り立った岩山に入った時は、若干げんなりしたのは否めない。
裂け谷を出たあとに山に行くルートで縛る必要、ありますかね? そう誰にともなく言いたくなった。
カラズラスだって、相当に厳しい道だった。けれどこちらの岩山ルートも散々だ。
なにしろ、岩の巨人が複数いて戦っている最中だった。まるっきり特撮のような絵面で、投げて砕けた岩のがれきだけでも大怪我したっておかしくなかった。
どうにか全員無事だったのは、重要な場面ではないという意味かもしれない。

どうにかこうにかこの洞窟まで避難してきて、皆で身体を休めている。
ものを考える余裕が出てきた今、(なんであの巨人たち、戦ってるんだろ)という疑問が浮かんできた。
もしかして、人知れず中つ国の命運を懸けて戦ってたりする?

後に原作を読み進めたところ、単に遊んでいるだけらしいと分かって突っ込みたくなった。
確かに映像化すればああなるだろうけど、その場に居合わせる羽目になった身としては正直、堪ったものじゃない。
この時はまだ知る由もなかったのだけれど、まあとにかく。


不意に、視界の中で微かに動いたものがあった。
すぐ傍で寝入っているとばかり思っていたビルボさんが、もぞもぞと起き出してこちらを向いたのだ。
目が合った。

沈黙。
何かを言いたげな目が、そこにある。
ほんの何秒かの時間だった。すぐにビルボさんは意を決したようにその身を近付けてくる。
ひそひそ声で彼は言った。

。裂け谷へ戻ろう」
「……、えっと」

言葉の意味を考える。
それってつまり、わたし達二人だけで?
パーティーを離脱? それ、物語から脱線しません?

一瞬、本気かどうかを考えかけた。
けれども、ビルボさんがそう言い出すに至るには十分なくらい、ひどい道のりだった。
さっきだって、岩の巨人が派手にやり合っていた中で岩山から危うく落ちかけたのだ。
それを自ら引き上げて助けてくれたのは、リーダーたるトーリンさんだ。
何だかんだ、助けてくれた。いい人じゃん。そう思いかけた時、そのトーリンさんこそが冷たく言い放ったのだ。
「来るべきではなかった」と。ビルボさんに向かって。荷が重すぎたのだと。

わたしは今ひとつ、このトーリンさんという人物が掴み切れていなかった。
ただ確実に、(言動の落差がキツい人物だな)という印象だけは強まっていく。
冷えた言葉を浴びせられた目の前のホビットさんは、どれだけ傷ついたことだろう。
ビルボさんにとって、今は序盤の特に辛い時期なのには違いなかった。

「ずっと思っていたんだ、どうして家を出てきてしまったんだろうって」
「…………」
「僕には冒険なんて無理なんだ。今からでも遅くない、裂け谷まで戻れば、何とかホビット庄に帰れる」
「…………」

わたしは何て言うべきだろう。
そう思うよりも先に、こう答えてしまっていた。

「ビルボさんがそう言いたくなるの、分かる気がします」
「…………本当に?」

黙って肯いた。
正直なところ、気持ちはめちゃくちゃ分かる。
わたしだってカラズラスでは、本当に全滅するかと思ったのだ。
体調が一番良くない時に当たるわ、雪中行軍だわ、いくらロードオブザリングが大好きでもあの時は心の底から帰りたいと思ったものだ。
仲間がいてボロミアさんがいてくれて、それでも相当にキツかった。今のビルボさんは、状況的にもさらに辛いはずだ。
彼が告げる正直な気持ちを頭ごなしに否定するのは、何だか突き放すみたいでイヤだった。
ビルボさんの表情がいくらか、緩んだようだった。

「良かった。君になんて言われるか、少し不安だったんだ」
「でも……ドワーフの皆さんには」
「黙って行こう」

まあまあ吃驚することをビルボさんは言う。
でも確かに、面と向かって告げるには勇気が要る。
そもそもこれ、ストーリー上ってどうなるんだろう。
わたしは正直言って、ビルボさんの意思に干渉しようとは思わない。彼がそうしたいなら、それでいいと思う。
原作から逸れるかどうかも分からないけれど、まだここまで読めていないから、この先の正解だって分からないのだ。

とにかく促されるままに寝床を整理して、身支度を整える。
ドワーフは未だ寝入っていて、誰も気付いていないようだった。
抜き足差し足で洞窟の入口へと向かう。
見張り役のボフールさんも静かだった。ほんの数秒でいいから、居眠りしていてくれればいいけれど。
……とは流石にいかないみたいだった。

「二人してどこへ行くつもりだよ!」

抑えた音量だけど、どこか慌てた声が後ろから掛かった。
振り返れば、人の良さそうなその顔には今は困惑の色があった。
裂け谷へ戻るとビルボさんが告げれば、さらに慌てたようにボフールさんが言い募る。仲間だろと。
「本当にそうかな」と、足手まといと言われたと、物語の主人公は言う。
それでもなお、ボフールさんは食い下がって引き止めようと言葉を続けた。「家が恋しくなったのか」と。気持ちは分かる、その言葉に反応したかのようにビルボさんは急に捲し立て始めた。
わたしがさっき彼の言葉に肯いた時とは打って変わって、語気を荒げたものだった。

「いいや分からない、君らに分かるわけない! 君らはドワーフだ!」

野宿に慣れていて常に旅をする流浪の民なのだと。
一箇所に留まることもなければ帰る故郷もない――。
そこまでを一気に言って、彼は口を噤んだ。
ボフールさんが言葉を失って、ただただビルボさんを見つめている。
ドワーフの中ではビルボさんやわたしを気にかけてくれていて、よく話し掛けてくれた。よく回る口から出る言葉は今一つもなくて、ビルボさんは言い過ぎたことをすぐさま後悔したようだった。

「ごめん、傷付けるつもりじゃ……」
「その通りだ」

俺たちに故郷はない。
ボフールさんは言いながら周りの皆を振り返る。
視線の先にいるのは何人ものドワーフさんらで、彼らには帰るところがないのだとわたしは改めて知った。

静かな時間がわずかにあった。
すぐに、「幸せを祈ってるぜ」と短い言葉があった。
ボフールさんが笑っている。人のいいいつもの笑顔が、そこにあった。ビルボさんの肩を軽く叩いて、された方もそれに応じる。そのことに、心からの安堵があった。
「お嬢さんも」、そう言って向けてくれる笑顔にはどこか寂しそうな色があったけれど、わたしはひとまず笑い返すのに留めた。
本当に引き返すのかまだ分からない。ただ、そう大きく脱線するとも思えなかったので。

そして実際、その通りだった。

ビルボさんの剣が青白く光っている。
それを見てからの事態はあっという間だった。
トーリンさんの「起きろ!!」という一喝の直後、足元が崩れ何も分からなくなった。
気付いた時にはドワーフの皆が次々に転がり落ちて、一番恰幅のいい(後から思えばたぶんボンブールさんだったと思う)ドワーフさんの上に落っこちてどうにかダメージを負わずに済んだ。


後は思い出したくもない。
沸いたような数のゴブリンがどこからともなく現れて、皆で引っ立てられてしまった。
辺りは大変な数の敵で溢れていて、あっちこっちで押し合いへし合いだ。
ようやくゴブリンの親玉の目前に並べられた時、わたしは気が気でなかった。自分たちの状況のことではなかった。
ビルボさんがいないことに、少し前から気がついていた。

ドワーフの皆がゴブリンと対峙している時も、ガンダルフさんが突如現れて皆で一斉に駆け出した時も。
ビルボさんが今、どこにいるのか。
それだけが気掛かりでならなかった。






←BACK      ▲NOVEL TOP      NEXT→