とても穏やかな裂け谷の朝だった。
まるでホビットの里に帰ってきたかのような、そんな安堵が僕の中に確かにある。
朝のやわらかな陽の光、何処からか聞こえてくる鳥の囀り、時折木々の葉を揺らしていく心地いい風。そのどれもが愛おしかった。
一人で館を歩き回り、庭を散策する。
久々に過ごす静かな時は、僕の心を落ち着かせてくれた。
こんな場所でもっと時間を過ごせたなら、どんなにか素晴らしいことだろう。
そう思ううちに、館の中でも景色が一望できるバルコニーに行き着く。そこに彼女はいた。
「おはよう、」
声を掛ければ、向こうはハッとしたようにこちらを見る。
すぐにその顔に、微笑みが浮かんだ。
「おはようございます、ビルボさん」
朝のあいさつを返してくれる彼女の隣に立ってみれば、気持ちの良い風が頬を撫でていく。
――さて、どうしたものだろう。
僕は内心考える。
それというのは、つい今目にしたばかりのの表情だ。
ホビット庄で何度か見たことのある、ここではない何処かを見るような目をしていた。
旅に出てからは、そうした機会も減っていたように思う。それだというのにだ。
……やっぱり、も戻りたいのだろうか。
かつて自分がいた、その場所に。
彼女は何も言わないでいたので、僕も何も言わなかった。
考えてみるまでもなく、僕はのことを何も知らない。
けれど……。
横目で、彼女を窺う。
は大きな人なので、自分がそうすれば丁度脇腹の辺りを見る形になる。
そしてそこには、短剣が差してあった。
銀色の光を放っていて、刻まれた刻印からすれば、由緒正しいもののように見える。
僕がホビット庄の家の前で彼女を見つけた時に、既に身につけていたものだ。
旅をしていたというから、女の子でも護身用にそういったものを持ち歩くのだろう。
けれど、あのトロルたちと対峙した時。
僕が馬を逃がそうとロープを切っていたあの時にちらりと見た斬りつけ方は、素人の自分から見たってどこかで習ったものなのだとなんとなく見当がついた。
目線を前に戻す。
そうしながら考える。……彼女は一体、どんな旅をしてきたんだろう?
「――何故他の仲間といないのだ」
そんな声があった。
いつの間にか、ここのエルフの長だというエルロンド卿が近くまでやってきて、僕たちを見ている。
何故か一瞬ギクリとしたような様子のは、何も言わない。
そして彼女はといえば、意識してドワーフから距離をとっているわけではないだろう。
僕の方が答えるべき問いだった。
「……仲間と思われてないから」
自嘲気味にそう伝えれば、それこそ意外そうな視線を向けたのはの方だ。
続けた。
「みんな、僕を連れてきたのは間違いだと思ってます」
「そうかな。……ホビットはもっと強かだと聞いているが」
「――本当に?」
見上げた先では、エルロンド卿が優しく穏やかな目でこちらを見守っている。
話してみれば彼は決して尊大ではなく、そして聡明さは失わず、かといって全く冗談が通じないわけでもないらしい。
エルフというのは自分が想像していたのとは、少し違っているみたいだ。
例えば何か相談事をしても、答えをはぐらかすのだと聞いていた。
何処か飄々としていて、掴みどころのない……そんな想像図を、僕は修正する必要があるようだった。
「もしここに留まりたいなら、いつまでもいるがよい。……そなたもな」
そう僕とに言い残して去ろうとする。
それを、
「……あの!」
が呼び止めて制した。
「突然ごめんなさい、でも、あの……ちゃんとお礼をお伝えしておきたくて」
「礼?」
「はい、その……昨日だって、突然大勢で押しかけてしまったのに快く迎えて下さいましたし。それに、今みたいに仰って頂いて、すごく嬉しいです」
ありがとうございます、と彼女は頭を下げる。
初めて会った時と変わらず、は礼儀正しい子のままだった。
瞬いて彼女を見ていたエルロンド卿が、やわらかく微笑むと今度こそ踵を返した。
ビルボさんは、椅子に座ったまま動かない。
その向かいで、ドワーフの中でも一際大人しそうな誰かが彼をスケッチしている。
(ドワーフにもいろんなタイプがいるんだなあ……)
そう思いながらわたしは近くで彼らを見ていた。
ひとまず今日一日は、裂け谷で休養するのだという。
「お茶はどうかの」
「あっ、頂きます」
そう言った相手はにこにこしながらティーカップを差し出してくる。
柔和な顔立ちの、白髪のドワーフさん。
一行の中では紳士的な振る舞いのドワーフで、何かとビルボさんやわたしを気にかけてくれていた。
けれど、わたしは彼を見て内心、何とも言えないものを感じる。
向こうのスケッチをしている方の名前はまだ覚えられていない、けれどこちらの方は分かっている。バーリンさんだ。
耳の奥に一瞬、ギムリさんの声が蘇る。
「モリアを行こう、いとこのバーリンが喜んで案内してくれる!」
「おや、砂糖も必要かな?」
「いえ、大丈夫です」
手が止まっているのを勘違いされたらしい。
わたしは手を振りながら、バーリンさんのことを少し考える。
モリアの坑道を行った先には、彼の葬られた墓がある。目の前の人物で間違いないのだと思う。
そして実際あの部屋には、他にも何人かが亡くなっていた。
映画では、バーリンさん以外には言及がない。
けれど……もしかして、その他の誰かというのは、今旅をしているこの中の誰かだったりするのだろうか?
今のわたしの知識では何も分からない。
そしてそれは、ホビットの冒険の原作を読むだけでは不十分かもしれない。
追補編や指輪物語自体を深く読み返せば、その辺りも分かるだろうか?
「駄目だよビルボ、動いちゃ」
「ああいや、ごめんよオーリ。急に欠伸が出そうになって」
そんな平和なやり取りが傍でなされていた。
絵を描いているのは、どうやらオーリさんというらしい。
見れば、近くにある彼のカバンには他にも記録帳のようなものが覗いていた。そういう方面が得意のようだ。
ビルボさんと散歩をしていて、丁度呼び止められたのはほんの少し前のことだった。
差し支えなければ、似顔絵を描かせてほしいという。
旅についてを記録として残しておきたいらしく、丁度今なら時間があるからと声が掛かったらしい。
彼らを見つめながら、わたしはちょっと安心していた。
ビルボさんは、自分を「仲間と思われていない」と言っていたので。
正直なところ、意外だった。だって彼は物語の主人公であって、これからいろんなことをやってのけるはずなのだから。
それに、ドワーフの中にはちゃんとビルボさんを仲間だと思ってくれている人がいる。
今だって、こうして一緒にいてくれる人がいる。そう思った。
「――よし、できた!」
オーリさんの声が完成を告げる。
わたしたちは皆で彼が差し出したものを覗き込んだ。
そこにはビルボさんの似顔絵が本当にそっくりに描かれていて、感嘆の声が辺りに響いた。
「本物そっくりじゃのう、大したもんじゃ」
「すごい、スケッチ風に加工した写真みたいですね」
「それって何だい、」
「へへ。じゃあ次は」
得意そうに鼻を鳴らしたオーリさんが、視線をこちらの方に向けた。
「君を描かせてもらえないかな」
「わたしですか?」
「……嫌かな?」
「いえ。……それじゃあ、お願いします」
断る理由もない。
わたしはさっきまでビルボさんが掛けていた椅子に座って、真っ直ぐ前を向いた。
今はまだ、何も分からないことも多い。
そもそも……この世界というのは、果たして「原作」の方だろうか。或いは、「映画」の方なのだろうか?
わたしはそんなことを考える。
……後者の可能性の方が、圧倒的に高いような気がする。
何故って、ガンダルフさんやエルロンド卿がロードオブザリングの映画そのままだからだ。
袋小路屋敷だって、そして裂け谷だってこうなのだ。たぶん、そうなのだと思う。
そしてわたしは、ホビットの冒険の映画をまだ観ていない。わたしの世界では、まだ公開されていないからだ。
そのことに、わたしはほんの少しの危惧を覚える。
「映画」の方の世界。
原作はこれから読み進めるにしても、それというのは、これからに何か影響してくるものだろうか?
わたしはジッとしながら、そんなことを考えていた。
夜明け。
ガンダルフさんとエルロンド卿らの会議が、昨夜からずっと続いていた。
終わった様子も未だになかった。徹夜したんだろうか。
ガンダルフさんを待たずに出発するというのには吃驚したけれど、どうこう言っても仕方ない。
ふと見れば、ビルボさんが来た道を振り返っていた。
裂け谷を離れるのが惜しいのだと思う。わたしも痛いくらい気持ちは分かる。
でもここに留まっていては、そもそも物語が進行しない。
「バギンズ殿、殿」
トーリンさんの厳しい声が掛かって、わたしたちは再び歩き出した。
……「旅の仲間」の時同様、またもこの谷をこっそり抜け出してくる格好になってしまった。
わたしはそう思うけれど、今度は以前とは少し違う。
部屋の鏡面台に、もう一度手紙を残してきた。
わたしの文章の隣に、ビルボさんの字で訳を付け足してもらった。もちろん彼も自分の言葉で、もてなしのお礼を書き連ねてある。
全く何もないよりは、気持ちの伝わり方も違うだろう。何より、直接のお礼は昨日のうちに言ってもある。
わたしは少し、ホッとしていた。
今までずっとこころの隅っこで小さく「ごめんなさい」と思っていたことが、ようやくどうにか消化された感じだった。
あくまで自分本位ではあったけれど、まあ、とにかく。
上手く覚えていてもらえれば、六十年後のわたしの手紙もそれなりに理解してもらえるだろう。
前を向く。
谷を出れば、またいつ敵に遭遇するかも分からない。
そして、今が物語のどの辺りなのかは判断できない。ホビットの冒険はそう長くないストーリーだと聞くけれど、まだ序盤には違いなかった。
……わたしは、何処までついていくんだろう。
そうちらりと思いながら、彼らと共に裂け谷を発った。
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