エルフの住まう谷は、以前訪れた時とまるで変わった様子もない。
わたしはそっと視線を配った。
木々の緑に、紅葉がところどころ混じっている。そのどこからか、鳥の鳴き声。
ゆったりと流れる空気は安寧の地そのもので、心からの安堵を覚える。懐かしささえ自分の中にあった。
裂け谷というこの場所で、わたしはふとこう思った。
(繋がった)と。
今まではホビット庄に居て、そしてそこから旅をしてきた。
スタート地点からこれまでずっと、自分が実際に目にしてきた景色は六十年後の世界となかなか被ることがなかった。
けれど今、ようやく辿り着いた。
わたしがボロミアさんと共に訪れた、エルフの「最後の憩い」の館。
そのことに何とも言えない感慨を覚える。
ロードオブザリングのあの中つ国と、今のこの時代とが確かに繋がった。そう思った。
「」
「はい?」
反射的に返事をする。
見れば、ビルボさんがほんの少し不思議そうにこちらを見上げている。
「ぼーっとして、どうしたんだい」
「いえ。……ちょっと、ホッとしちゃって」
「……そうだね。無理もないさ」
そう言って肯くけれど、すぐにその眉間に皺が寄った。
「……彼は、大丈夫かな」
「…………」
わたしは返事ができずに、沈黙した。
それというのは、ラダガストさんのことに違いなかった。
敵の目を逸らす役割を買って出てくれたはいいけれど、その後どうなったのかがよく分からない。
一瞬重くなりかけた空気、それをすぐさま払拭してくれた声があった。
「あやつのことならば心配はない。……上手くやってくれたものじゃ、ラダガストは」
そう言うガンダルフさんはまるでいつもの口調で、わたしとビルボさんは顔を見合わせる。
互いに肯き、きっとそうなのだと信じることにする。
そしてわたしはというと、少しいろいろ、考える。
これ、もしかしなくても、「ホビットの冒険」ですよね?
わたしは自分にそう問いかける。
ビルボさんの家を出てきた直後はまだ気付いていなかった、けれど、少し前から薄々そう思い始めている自分がいる。
そして実際のところ、まだ読んではいなかったけれど、ちょっとした情報ならいろいろと聞いたことがある。
ドワーフたちと共に旅に出たビルボさんが道中、あの指輪を手に入れること。
スマウグとか何とかいうドラゴンがいて、それと対決するらしいということ。
途中、蜘蛛がどうたらとか、レゴラスさんのお父さんが云々だとか、旅が終わってホビット庄に帰ったら何故だか家財を盗られてるとか何とか、まあ意味不明な部分もあるけれど、ざっくりそんな感じだと聞く。
ラダガストさんの名前だって聞いたことはある。けれど、どのようにこの物語に関わるのか詳しいところまでは知らない。
自分で知識を振り返りながら思う。
……全く役に立ちそうな気がしない。
無秩序で何の意味も成さない、ふわっとしすぎにも程がある情報。
だとしたら――、原作を今のうちに読んでおくべきではないだろうか?
わたしはそう思う。
先の展開を知っていれば、不要な危険を冒すこともなくなるはずだ。知識があるのに越したことはない。
思うのだけれど、すぐそうできるかというと、そうもならない。
時間が意外とない。
向こうに戻ればそれなりにすることを為して、また眠って中つ国に戻ってくる。
本を読むとなれば、それなりの時間が必要だった。そして、こちらに居る時に読むのはできれば避けたい。
文字を皆が解せなくても、挿絵や表紙絵だけでももしもということもある。
変なツッコミをもらうのも面倒なので、安全ルートで行きたい。
だったらやはり……自分の世界にいる時に読むのが最良だと思う。
まずは、本を買ってくるところからだ。それから、細切れにでもコツコツと読み進めていくしかない。
たぶん、そう急ぐ必要もないだろう。
この時のわたしは、本当にそう思っていた。
ホビットの冒険は子供向けのストーリーだと聞く。だったら、きっと大丈夫だろう。
まさか子供向けの話で、人死にが出ることもないだろうし。
高らかに響き渡る、笛の音色があった。
その音に、ふと我に返る。
見やったその先の向こうには、遠目にも馬に跨ったエルフの姿があった。
わたしはずっと顔を俯けていた。
真っ直ぐにその人、否、エルフを見ることができない。
――エルロンド卿のことである。
気まずい。
これは非常に気まずい、そう思っていた。
六十年後の世界で、わたしは彼に対して大層な無礼を働いている。
せっかくボロミアさんがわたしの身の安全を考えて交渉した結果、快く向こうは身も知らない人間を預かってくれると承諾してくれた。
にも拘らず、わたしはこっそりとこの谷を抜け出して、旅についていってしまったのだ。
部屋の鏡面台の前に、一応の置き手紙は残してきた。
お礼とお詫びを簡単に連ねてはある。
日本語で。
……さすがのエルフも、内容を解読することはできなかったに違いない。ただ、何も気持ちを残すことなく出てくるのも気が咎めた。
例え文字が伝わらなくとも、それとなく解ってもらえればそれでいい。そう思っていた。
まさか、こうして戻ってくることになるとは思っていなかったのだ。
今の時代ではまだ何もしていないのだから、堂々としていればいいのかもしれない。
けれど、こちらとしてはどうしても居心地の悪さが否めない。
幸い、エルロンド卿はガンダルフさん、そしてトーリンさんとのテーブルについていた。
提供された食事もそこそこに思う。
(できるだけ大人しくしていよう……)
その矢先のことだった。
「こうなりゃ歌うしかねえぜ!」
唐突な声があった。
見れば、ボフールさんがどういう経緯でそうなったのか、高いところに上がって歌声を披露し始めたのだ。
内心(ひえっ)と思う。
エルフの奏でる美しいハープの音色が戸惑ったように消え、一斉にドワーフの皆がボフールさんに乗っかる形で歌い出した。
この場にいた裂け谷のエルフ、その全員が固まっている。
それはそうだ。
正直、わたしもエルフ側である。
まるっきり港町かどこか、その辺の大衆居酒屋にいるかのようなノリなのだ。
スプーンやフォークをリズムに乗せてかち鳴らし、歓声にのせて食卓のものをあっちこっちに投げまくる。
エルフの面々、ドン引きである。
もちろんわたしも、そして隣にいたビルボさんも。
一行をここまで導いたのはガンダルフさんだ。
思わず彼の方を見るも、灰色の魔法使いの目は完全に泳いでいた。
すっとぼけた顔で手にしていたものを咀嚼し、嚥下したかと思えばまた食べる。ダメだ。
完全に諦めパターンに入っている。
ガンダルフさん以外でこの場を収められる人といえば……。
――トーリンさん!
わたしは彼を振り返った。
絶望した。
いつの間にかテーブルを離れていた山の下の王は、スキットルを手にまんざらでもない様子でドワーフの宴を見やっていた。
しかも歌に合わせ、たしたしと足でリズムを取る始末だった。こういう状況でなかったら、こっそりちょっと可愛いとでも思ったかもしれない。
でも今ばかりは、わたしの心をへし折る行為でしかなかった。もうダメだ。絶望だ。
「よう、お嬢さんも一曲どうだい!?」
歌い終わったボフールさんが、大きな声でこちらにそう呼び掛けるのだから堪らない。
エルロンド卿を含む多くのエルフたちの何とも言えない視線が一斉に集まって、わたしは内心(もうやめてー!!)と悲鳴を上げた。
こっちのメンタル的なHPは既に完全にゼロである。
「お嬢さんの歌も何か一つ、聴いてみたいもんだがなあ」
「あ、あのっ、わたしちょっとお手洗い行ってきます!」
「あ、、場所は」
「知ってますーーー!!」
ビルボさんが言いかけるのを制し、わたしはその場を全力で離脱した。
とにかく、ここを離れたかった。
今この瞬間だけは、何をおいても、とりあえず。
裂け谷の地理なら、少しは知っている。
だって何日か、滞在していたことがあるのだから。
わたしはしばらくあの場には戻らないことに決め、館の中を歩いていた。
……前回訪れた時は、物語のことを思い出してはいなかった。
今になってみれば、とても不思議だ。あの何度も観た世界の向こう側をこうして歩いているのだから。
歩き進めるうちに、見覚えのある空間に出る。
辺りには、誰もいなかった。それにも拘らず、少しドキドキする。
大きな絵が飾られ、その正面には女性の像が佇んでいる。その像が抱くように、折れた剣が安置されている。
……以前は、まるで関心もなくスルーしてしまった。けれど間違いない。ナルシルの剣だ。
指輪をサウロンから奪った剣――。
そう呟いて、ボロミアさんはこの剣を手にするのだ。
手を伸ばしかけて、今一度辺りをキョロキョロと見る。
わたしの感覚だと、咎められるのではないか、という思いがある。
けれど、誰もいない。見張りの人一人いなかった。悪意ある存在が入り込んだりしないという意味だろう。大丈夫。……大丈夫。
そう言い聞かせて、わたしはそっとそれを手に取った。想像したよりも軽いのが意外だった。刃が欠けているからだろうか。
手の位置を少し変えて、柄を握りしめる。
六十年後に。
この剣を、あの人は手にするんだ。
その場面を、わたしは知っている。……覚えている。
そう思いながら、目を閉じる。
……目を開けた先が、今思い描いているあの時代ならいいのに。
そう考えてしまう。
だから、なかなか目を開けることができなかった。
ようやくそうできた後も、しばらくその場を動くことができなかった。
どのくらいだったか自分でも判らなかったけれど、とにかく。
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